大鍋いっぱい
夏の夜。
キッチンでは蒸し暑い空気が蔓延していた。
と、いうのも。
新メニューとして売り出すカレードーナツの仕込みに入っているだけだ。
他にも、一晩寝かせるための生地を混ぜていたり、材料を切り刻んでいたりしているが、一番暑さを発生させているのは、巨大な鍋でじゅうじゅうと音を立てて炒められているそれだろう。
「たまねぎ追加!!」
「はい!」
微塵切りにされた大量のたまねぎを、焦茶色になるまでひたすらに炒める。
炒め終わればまた追加され、また焦茶色になるまで、を繰り返す。
鍋のサイズに合わせて大きくなった木ベラを操って、シキはひたすらに鍋の中をかき混ぜる。
ねっとり、どっしり。
たまねぎの糖分が完全に引き出されるまで。
「あっつ……。野菜頂戴!!」
「角切りはこのくらいのサイズで良かったですか?」
「うん、十分!入れちゃって」
次に投入されるのは、一センチほどのサイズに角切りにされたにんじん、ジャガイモ、セロリ。それからパプリカやナスなどの夏野菜。
そして摩り下ろされた大量のニンニク。
それらが一気に大鍋の中に投入され、かき混ぜられる。
ニンニクの食欲を誘う香りがキッチン中に漂うが、仕込みの最中はハッキリ言って戦場なので誰もが意識の外へと追いやる。
ここでお腹空いたとか言ってられない。
そして野菜に粗方火が通ったところで、今度はひき肉を投入する。
肉は豚と牛の合い挽き肉だ。どちらか一方だけでも十分美味しくいただけるのだが、カレードーナツにするには万人受けするほうが好都合なので。
今度は肉に火が通ったら、カレーを初めて造ったその日のうちに作った最終兵器を取り出す。
「いっそこれ、売ってもいいんじゃないかしら……」
透明のガラス瓶の中。
みっちり詰まったそれはカレースパイス。
地球日本のスーパーでよく見かけるカレールゥ。その横に、必ず存在する赤い缶をご存知だろうか。
カレー好きには必須アイテム、○スビーカレー缶。
それをモチーフに、シキがタチバナと額を突き合わせて作った、シキ&タチバナカレー瓶である。
とはいっても、殆どタチバナの香辛料や薬草などの特性網羅能力と、シキの舌に頼って作られたそれはいわゆる家庭の味、というやつだ。
だが、香辛料つまりは得意分野ともなればタチバナは本当に強かった。
スープカレーに使われていた香辛料の種類と割合を理解するや否や、相性のいいだろう香辛料をごっそり揃え、基礎四種含む20種類近くの香辛料を組んでしまったのだ。
スープカレーはサッパリ系だったため、カレードーナツは油と生地の独特さを考えた結果、サッパリしつつもコク系になった。
子供や辛いのが駄目な人間もいるので、甘さは調理中に調整する形にはなっているが。
当然、一度組んだスパイスで実食も済ませている。
感想は押して知るべし。
試しにこのミックススパイスを使ってカレンに一人前分のカレーを作らせたところ、ちゃんと美味しいものができた。
結構適当に炒めることもしないで鍋にぶっこんだだけで、である。
「オイル漬けあるから売らないけど……そうだね、なんか、ハーブティーと同じように常備したい」
「ていうか、してくれれば私たちもまかないを作れるんじゃないか?」
「確かに。チャーハンの味付けにも利用できますから。シキ、常備しましょう」
「よろしくタチバナ」
「………調合は、俺でしたね」
カレーの美味しさにうっかりしていた、と呟いたタチバナがカップいっぱいに水を汲む。
フィリーからカレー粉を受け取ったシキはそれを適当な量炒めた具に振り掛け軽く炒める。そこに、タチバナが水を加えた。
炒めたタマネギや肉から出た旨みが、じわり、と鍋の中で広がる。
カレードーナツの中に入れるため、具が多めで水分はあまりないキーマカレーのような状態になる。
「後は、弱火で放置!次、生地いくよー!!上を片付け……」
どうにか最大の敵であるカレーを撃破したシキは、流れる汗をタオルで一気に拭い去ると、後ろを振り向いた。
ところが。
「…おろ?」
「ふっふっふー。最初に説明を聞いていたからな。流石に一年も下準備を手伝っていたわけじゃない!!」
カレンが胸を張った。
というのも、シンクの上には先程までの野菜を切っていた残骸はひとつも存在せず、残るのは幾つもの生地に使う材料だけだ。
マフィンやワッフル、サーターアンダギーなどのお菓子の液体生地は素材を混ぜ合わせてから氷室にて保存する。
ドーナツは形成したのちに冷凍保存だ。揚げるときに氷室から取り出される。
つまり、そこまで終わってしまえばシンクの上は空くと言うことで。
そこまでを終了させたカレンたちは、手早く上を片付けていたのだ。
「生地はドーナツというくらいだから、それと同じ材料でいいかと思ったのだけれど…足りないものはあったかしら?」
「うわぁお、流石。けど、なんでいつもは散らかったまんまなのかな?」
「………薮蛇だったかっ」
そう。いつもはこんなタイミングでこうも完璧に片付けや準備が終わっていることはない。
何かしら、例えば出しっぱなしで洗われていない何かが転がっていたりしている。
仕上げの片付けはいつもタチバナだった。
そうつつけば、頭を抱えるカレン。思惑は見え見えだ。
きっと、そう。お試しにカレードーナツを食べたいのだろう。
「こんな時間、しかも夕飯の後。確かに、おねだりしにくいよねぇ?」
「うう。わかっているならシキ、つつかないでくれ」
「先に言っておくけど、カロリー高いからね?」
「…かろりー………つまり太りやすいってこと、よ、ね?」
「油で揚げるからね。窯で焼いてもいいけど、軽食メニューとして量産することを考えると、うん、揚げるのが一番はやいから」
加えて中身のカレーは野菜もたっぷりだがお肉もたっぷり。
正直に言えば、夜に食べる代物じゃない。
「い、一日程度なら取り戻してみせる!」
「まぁ、嫌っていっても容赦なく食べてもらうけど。実験で」
「ひどいわね!?」
「結構いつものことだと思いますよ?新しいレシピの実験台にされるのは」
サックリとタチバナがトドメを刺して、うなだれたカレンを置き去りにシキは生地を作り始める。
ベースは文字通りドーナツだ。
カレードーナツ、と呼ばれていても本来はカレーパンつまり外の生地はパン生地なるのが普通だ。
が、食事パンを定期購入している『オンディーヌ』の味には敵わないと分かっている。そもそも勝負を挑む気にもならない。
あと、狸が五月蝉いのと発酵時間が長いのが困りものだというのも理由だ。
なので、パン生地での製作はせずに普通のドーナツ生地で砂糖を少なめにした生地を作る。
材料はシンプルに、小麦粉、卵、砂糖、ベーキングパウダー。
といきたいところだが、此処にもう一手間入れることにする。
「豆腐入れまーす」
「もちもち食感にするのか?」
「うん。ちょっとでもカロリーオフにしてあげようかなって」
思わず、カレンもフィリーもシキを見て涙ぐんだ。
ああ、女神様。
だがタチバナはその様子を見て呆れたように首を横に振った。
忘れていませんか、試食と言う名の実験台にされていることを。
「あ、鍋を火から降ろしてー」
「はいはい」
指示されるままにタチバナは竃から大鍋を降ろして代わりに別の鍋を置く。
そして別の、揚げ物用の鍋をセットして油を熱し始める。
それなりに大きな鍋なので、必要な温度になるまでは時間がかかるのだ。
そして油が適温になる前までに、と全ての素材を混ぜ合わせて練り上げて、全て同じサイズになるようにちぎっては丸める。
今度はそれを麺棒で平らに伸ばして、それから。
「カレーをつつみまーす」
「け、結構大変だぞ」
「慣れです」
「どんな形にすれば?」
「んー、餃子っぽく?やりやすい形でいいよ今回は」
キーマカレーのような水分の少ない具がメインのカレーは、荒熱が取れたことで肉から溶け出した油が凝固し、塊として扱い易くなっている。
それをシキとタチバナは餃子の要領で、カレンとフィリーはお饅頭の要領で包む。
元々、試作としての量しか生地は作っていないのであっさりと20個ほどのカレードーナツ(生)は完成する。
ちょうど油も高温になったようで、そのカレードーナツ(生)をぽいぽいと投入する。
後はいつもと同じで、狐色になるまで揚げるだけだ。
綺麗な狐色になり火が通れば。
「はい、出来立てカレードーナツ」
夏の夜には少しばかり熱い気がするが、やはり漂うカレーのスパイスの香りは食欲を誘うらしい。
油紙で受けとったカレンとフィリーは、牛乳を片手にそれにかぶりつく。
「は、はふ、はふ、旨い!」
「これ、いいわね。軽食にぴったりよ」
生地のほんのりとした甘さ。
そしてカレーの香辛料の利いたピリっとした辛みに、肉や野菜の甘みと旨みがジワリと染みる。
「カレーは一晩おいたほうが美味しく食べられるから、明日が楽しみだね」
「そうですね。明日のオススメ新メニューは夏野菜のカレードーナツ、ですか」
「だね。そのかわり、マフィンは無しで。多分場所が足りなくなる」
「最近はマフィンの売り上げは微妙でしたし、いいんじゃないですか?」
残りのカレードーナツを揚げながら、シキは明日の予定を考える。
新しく揚がったカレードーナツをタチバナも食べつつ、答えた。
揚げ物でこってりなのに、不思議と食が進むこのカレードーナツ。
翌日、先日の宣言どおり仲間と連れ立ってやってきた女冒険者たちが絶賛し、大鍋一杯分のカレーを使ったカレードーナツが一日と持たずに消えることになるとは、誰も想像できなかった。
我が家で作るカレードーナツそのままです。
パン生地じゃなくて、ホットケーキミックスを使って生地を作ります。
美味しいです。簡単ですしね。