蝉時雨が降る前に。
じわり、ぽたり。
フィリーの額を、汗が流れ落ちる。
夏、突入。
港町独特の湿気たっぷりの夏が、本格化しはじめたのだ。
防犯なんざ知ったことかとばかりに家中の窓という窓は全開。
氷室も絶賛稼働中。
にもかかわらずこんなにも汗が流れる理由はただ一つ。
キッチンつまり窯に竈がみっしり詰まったこの場所はクソ暑いのだ。
一気に上がった気温に、タチバナは速攻でダウンしベッドの住人と化した。
一番体力があるが、何しろ獣人というのは寒暖の差に弱く、タチバナも例外ではなかったようだ。
去年は無事に夏を越えていたが、今年はタイミングが悪かったのだろう。
少しだけ体調を崩した所に、一気に気温が跳ね上がったというのに最近始めた家庭菜園の手入れに炎天下まではいかずとも直射日光の下で長時間働いていれば、少しだけ頑丈な程度の人間は倒れる。
「あっつ…」
髪はとっくに結い上げて、首筋をさらしている。
カレンもシキも同様の有様で、シオンにいたってはネルトゥスを庭に追いやって少しでも視覚的な暑さを無くそうとしていた。
追い出されたネルトゥスは森で不貞寝をしている。
申し訳ないとは思うが、ガッツリ毛皮姿の彼を見ていると暑苦しいので後でお詫びのエモノを献上することで許してもらうこととする。
「ありがとうございましたー!」
港町特有の湿気たっぷりな暑さに比較的体が慣れ親しんでいるシキは、動きが鈍くなっている他のメンバーの穴を埋めるべくキリキリ舞をしていた。
が、どうやらこの客が昼の軽食対象の客としては最後だったらしく、店内にはおしゃべりを楽しむ二組の冒険者たちを除いて空っぽになる。
「…三人とも、大丈夫?」
「私はまだマシ、かしら?カレンとシオンはもう駄目ね」
フィリーが視線を向けた先には、すでに暑さで無言になったカレンとシオンがいた。
カレンはこの夏は二度目だというのに、どうにも適応しきれていないようだ。もう暫くすれば、体が慣れて動けるらしいが。
スロースターターというやつか。
「ほら、ジンジャーエールでもいいから水分とって。まだまだ夏も始まったばっかりで、これから気温がさらに上がるのに」
「うぅ、シキぃ……」
「ほら、カレン。シオンくんはこっちね」
ぐでん、とまるでスライムのように蕩けたカレンを起き上がらせてジンジャーエールを渡す。
年中涼しいオルタンシア出身のシオンはすでに力尽きかけており、シキはとっさに経口補水液を作って彼に飲ませた。
「…ししょう、おいしくないです」
「そりゃそうだよ。これは水分を体内にすばやく吸収させるのが目的の飲み物で、味は考えてないから。ほら、このままだと脱水症状起こしかねないから飲んで」
微妙な薄いようなそうでないような、なんともいえない味に眉をひそめつつ、シオンはそれをちびちびと飲む。
それを確認したシキは、自分たちの昼食を作るべく余っている素材を考えた。
が、唐突に上がった気温のせいで食欲が落ちているのは見るまでもない。
だからといってトコロテンとか、夏の風物詩を出してもあれは栄養価がゼロに等しく、昼食にはなりえない。
「パスタ、かな。紫蘇とスモークサーモンで」
「もう、冷たいのならなんでもいいわ。準備するわね」
手で顔を扇ぎながらフィリーは言った。
ダウン寸前の二人をリビングに追い立てて、シキと二人で準備を始める。
まずは大鍋にたっぷりの水と塩を入れて沸かす。
そして、パスタを投入する。
シキはその横でトマトと紫蘇、ニンニク、鷹の爪を刻み、オイル、塩、レモン汁、お酢を合わせたドレッシングっぽいタレの中に投入、かき混ぜる。
そしてそのまま氷室の中に。
そうしているとどうやらパスタが茹で上がったらしく、水気を切り、オイルをまぶしてくっつかないようにしてから、同じように氷室の中に入れて冷やす。
その間に、スモークサーモンを薄切りにしておく。
「デザートは面倒だからトライフル!」
「ケーキの生地なんて残っていたかしら?」
「ワッフルでもいいんだよ、これ。で、今日はいつもより手抜き」
トライフル。
イギリスのお菓子で、固めのスポンジケーキを器に詰め、その上にカスタードクリーム、フルーツ、フルーツジュースかゼリー、生クリームなどを重ねて作る。
が、ここでシキが言うトライフルは語源である『ありあわせ』の意味に近い。
そろそろダメになりそうなワッフルをブチブチちぎって一口大にして器に詰めて、そこに餡子やフルーツを乗せて、柔らかめに泡立てた生クリームを乗せれば完成だ。
申し訳程度の飾りに、抹茶のパウダーを上に振り掛ける。
冷やさなくても十分に美味しくいただけるので、氷室には入れない。
「さて、パスタ仕上げよっか」
数枚の皿を取り出したシキは、冷やしたパスタを分け、その上に紫蘇などを混ぜたタレをかける。
そしてさらに薄切りにしたスモークサーモンをのせてやれば。
「完成!」
「手抜きなのに、手抜きに見えないのが怖いわよね、毎回」
「まかないとは、そういうものです。てなわけで、運んでもらっていい?」
「えぇ、了解よ。タチバナはどうするの?」
「あー…。多分あの調子じゃまともに食べられないだろうから、後でお粥でも作って持ってくよ」
ベッドの住人となっている夫の姿を思い浮かべ、シキは苦笑を零す。
多分あれは熱中症だ。
ちゃんと水分をとるように、と大き目の水差しを置いてきたので大丈夫だろうが、今日はきっと吐き気に襲われて何も食べられはしないだろう。
食べないと体力が削られる一方なのでお粥だけでも食べさせるつもりではあるが。
「人の刹那の夏が行くよ、蝉時雨の空」
「あら、詩的な言葉ね?」
「お気に入りの歌の歌詞、かな。まだ蝉は鳴いてないけど、そろそろだしね」
もうすぐ、ミンミンと耳に痛いほどの求愛の歌が聞こえてくるだろう。
そうなれば、本格的な夏の始まりだ。
昼はともかく、夕方が一番忙しくなる。
「さて、それまでに体調を整えてもらわないとね!」
「そうね。まずはご飯を食べて、かしら」
盛ったパスタとデザートのトライフルをトレーに乗せて、二人はリビングを覗き込む。
くてん、と転がるカレンとシオンに大声で。
「「ごはん(だ)よー!!」」
冬なのに、そろそろ夏のお話です。
3/5熱射病→熱中症に訂正。