メルシィ
ジャムの瓶の蓋は、まるで意地になっているのかと思うくらい硬く、杏樹は僅かに苛立ちを感じ始めていた。
昼下がり、ご機嫌なティータイムを過ごすはずだったキッチンで、もう十分も格闘している。
「あたしは、あなたの敵じゃないのよ?」
思わずジャムの瓶に声をかけてしまった杏樹だが、無機質の相手は全く相手にしない。
こうなったら最後の手段だと、杏樹は瓶を片手に部屋を出た。
向かったのは隣の部屋だった。
ここには、引っ越してきたばかりの若い男がいる。
彼の名前は岡田陸。
「こんにちは、岡田くん」
杏樹はノックすることなく扉を開いた。
ちょうど扉の前に立っていた陸は、僅か驚いたように目を見開く。
「あのね、ジャムの瓶の蓋が開かないの」
杏樹はジャムの瓶を陸に差し出しながら来訪の理由を告げた。
「…」
無言で杏樹と瓶を交互に見つめた陸は、やはり無言で瓶を受け取り、いとも容易く蓋をパカリと開けてしまった。
返された瓶を受け取りながら、杏樹はこっそり部屋の中を一瞥する。
女の子の気配は全くしない。
「メルシィ」
そう言い、杏樹は自分の部屋へと引き返していった。
陸が引っ越してきた日、杏樹はペットボトルの蓋と闘っていた。
引っ越しの荷物を持ち込んだり人が出入りする気配に気づいた杏樹は扉を開け、ちょうど目に付いた若い男を、ちょっといいかしらと呼びつけた。
彼にペットボトルを渡し、蓋を開けてくれない、と問うと、彼は無言のまま蓋を開け、プシュッと軽快な音を立てたのだ。
「どうしてしゃべってくれないのかしら」
苺のジャムを塗ったパンケーキを口に運びながら、杏樹はぽつりと独り言を吐く。
確かに、ちょっとだけ図々しいかもしれないけれど、無視しなくてもいいのに、と。
「こうなったら、意地でも口を開かせてやろう」
だって癪だもの、と今度は口には出さずに杏樹は心の中で思った。
あんなに若い男の子のことが、しゃべってくれないだけでこんなに気になるなんて、癪だわ。
まず、杏樹はゴミの日が手っ取り早いと思った。
アパートの前のゴミ置き場で、出会ったらおはよう、と言ってみよう。
けれど、杏樹の企みは空振りに終わった。
陸の朝はとても早く、朝六時、杏樹が隣からの物音で目覚めた頃にはすでに陸は出かける準備を済ませ部屋を出るところだった。
慌てて外へ飛び出した杏樹が見たのは、自転車に乗って出かけていく陸の背中だった。
次はもう少し確実性のある時を狙おうと、杏樹は日曜日の午後紅茶の瓶とクッキーの缶を持ち隣へ向かう。
日曜日、陸の仕事は休みだと知っていたのだ。
けれど、いつものようにノックもせずに扉を開こうとすると珍しく鍵が掛かっていて開かない。
どうやらどこかへ出かけてしまったらしい。
タイミングが悪いことは続くもので、結局陸が引っ越して来てから一月はそんなことが続いた。
そしてやっと絶好のチャンスがやってきたのだ。
「あ!」
「…」
買い物に行こうと扉を開けたところで、杏樹は陸と遭遇した。
何故か陸は杏樹の部屋の前にいたらしい。
しばらく無言で杏樹を見つめていた陸は、やがて手にしていた小さな紙袋を杏樹に差し出してきた。
「なぁに?」
問いかけながら紙袋の中身を見ると、そこには可愛らしいジャム瓶がふたつ入っていた。
「…それ、簡単に蓋が開く瓶なんです」
説明をされて、へぇ、と思った杏樹は、けれどすぐにあれ?と思った。
今しゃべったのは陸ではなかったか?
「…初めてしゃべったね」
「…すいません」
少し照れたように俯いた陸に、杏樹はあのねと飛び跳ねそうになりながら声をかける。
「あのね、紅茶の缶の蓋が開かないの。開けてくれたらクッキーをご馳走するわ」
扉を開け中へ促すと、陸は小さな声でお邪魔します、と呟き玄関をくぐる。
硬い蓋を始めて開けてもらった時のように、杏樹は甘い幸福を感じた。
終わり。