空へかえる。
あるワイルドライフパークの飼育員さんが話してくれた話が元ネタです。
野生動物保護の実情。ちょっと悲しいお話かもしれません。
事務所の電話がけたたましく鳴り響いた。
「……またか」
はてさて今日のお客は、ウォンバットかワラビー、カンガルーか。それとも別の生き物か。
出来れば、他の問い合わせの電話であってほしい、と願いつつ耳に当てた受話器から飛び込んできた言葉は、やっぱりというかなんというか。傷ついた野生動物を保護した、という電話だった。
しかしいつもとちょっと違ったのは、よく来るお客さんではなく、パークにとっては珍客と言ってもいいお客さんだったことだ。
「……わかりました。今すぐスタッフに向かわせますので、住所……ええ、はい……ですね。……出来れば……」
そうして保護され、パークにやってきたのは、焦げ茶の体色と鋭い金目、それ以上に鋭利なクチバシと鍵爪を持ち合わせた、一羽の巨大なワシだった。
オナガイヌワシ。
森林伐採や住宅地の発展による生息地減少や、その他諸々の事情のためにタスマニアでは珍しくなってしまった、オーストラリア最大の猛禽類だ。
事前に連絡を入れておいた、懇意にしてもらっている獣医による適切な処置でソレは一命を取り留めはした、が。
獣医曰く、片翼を酷く傷つけており、完全に回復させることは無理。再び、空へ返すことは不可能だ、ということだった。
保護した野生動物は野生復帰へのリハビリの後、保護された場所の近くにリリースするのが通常だ。
しかし、中には例外もある。
野生に返しても生き延びることが出来ないだろう、難しいだろうと判断された動物の大半は、そのままパークへと残し、観光客を楽しませ、時には悲劇を繰り返さないための、環境教育の生きた教材になってもらうことにしている。
まだ手術のときの麻酔が効いてぐったりとして意識のないソレの体をなでながら、突然ソレの身に降りかかった不幸と、未来を案じ、フゥとため息をついた。
かつては空の王者であったソレを保護して、もう何か月になるだろうか。
ソレは新しい環境に馴染みつつも、心はいつもここに非ず、という感じだった。
ずっとずっと、空を見続けている。
そして、時折、何かを思い出したように、残された片翼を勢いよくはばたかせ、枝から飛び立とうとして……地面へと着地する。
自分が何故飛べないのか。どうして空へと羽ばたくことが出来ないのか。
ソレは自分が置かれてしまった状況が理解できないのだろう。
いや、もしかすると理解はしているのかもしれない。
それでも、空を、風を、自由を恋しがって何度も何度も同じことを繰り返しているだけなのかもしれない。
「なぁ……空へ、帰りたいか?」
ソレはきっと自分の言葉を分かっていない。それでもソレの漆黒の瞳は自分の目をじっと見つめて、訴えているようだった。
「自由が欲しい。風を感じたい。お願いです、私をそらへとかえしてください」
その漆黒の瞳と見つめ合った次の日、自分は獣医を呼んだ。
理由は簡単だ。多分、ソレにとって一番幸せだと思われる処置を頼むためだ。
処置を施すためにソレを檻から出す時も、処置の最中も。
ソレは大人しく、されるがままだった。
そして最期に自分を見つめ、獣医を見つめ。それから瞼を細めて、懐かしそうに上を見上げて、だんだんと冷たくなっていった。
自分の目の前にある冷たくなったソレは、ただ単なる抜け殻だ。
ソレは、オーストラリアの空の王者であるソレは。卵から孵化して、この世界の空気に触れるヒナ鳥のように、抜け殻から抜け出して、どこまでも透き通る空へと帰って行ったのだ。
本来あるべき姿へと帰って行ったのだ。
しかし、ソレの抜け殻の重みが、冷たさが自分のしでかしたこと、ソレがもう自分の手を離れてしまったこと、もう二度とソレを目にすることが出来ないことなど、色んな事を思い知らせ。
抜け殻を抱えたとたん、制御できない感情があふれ出し。大声を上げて泣いた。
風が、今日も相変わらずタスマニアを吹き抜ける。
その風の中を、きっと空へと還ったソレは羽ばたいていることだろう。
自由に動かせる両翼を大きく広げて。どこまでも透き通った風を感じて。
タスマニアの空をどこまでも愛した空の王者は今、何の縛りも不自由もなく、思うがまま、空を舞っているに違いないのだ。