04:寝不足と図書館
暖かい春の日差しが差し込む穏やかな昼下がり。まどろみに任せて眠りに落ち、夢の中でいいから愛しい人のもとへ忍んでいきたいものである。――と、くさいこと言ってみるが要は、眠いってことだ。
第三王子執務室。最近はさっぱり使用されることのなかったこの部屋だが(別の目的で使用したことは多々あった)、実に数週間ぶりに、私はこの部屋に篭もり仕事をしていた。数日前まで山のように積み重ねられていた書類は残すところあと一枚となっている。連日連夜、徹夜続きで勤務を行なってきた結果、ようやく仕事の終わりが見えてきた。人間、やればできるのだと感心するが(自画自賛)、ここへきて私は強烈な睡魔に襲われていた。
「ああああ、もう私は駄目だ、フェルナンド……」
油断すれば机に突っ伏してしまいそうになる私に、彼は付け入る暇もなく最後の書類を差し出した。
「眠るならもう一枚書類を終わらせてからにして下さい」
「眠すぎて死にそうだ……」
「徹夜続きなのは私も同じです、殿下。あなたにつき合わされてここ一週間、家に帰ることができないでいるのだから。超過勤務で過労死しそうなのはこっちの方ですよ」
「君が死んだら化けて出そうで怖いな」
「死んでまで殿下のもとに侍りたくはありません」
私だって男の幽霊に取り付かれるなどまっぴらごめんだ。取り殺されるなら艶かしい女性の幽霊を希望する。
フェルナンドを過労死させぬ為、私は最後の気力を振り絞り、書類を受け取って目を通した。直轄する領地の治水工事の件についてのもので、数ヵ月後に訪れる雨期に備え、工事の許可を申請したいという内容が書かれている。
「ここの部分はきちんと確認が取れているのか?」
「とっくに」
「関係する資料は?」
「こちらに揃っております」
「ふむ。ではここと、ここを確認して。あとは……、いいだろう。申請を許可する」
サインを記し、フェルナンドに戻した。彼はすぐさま侍従に指示して関係部署にそれを送るように言う。
出来る補佐官を持って私は幸せだ。口うるさいところが玉に瑕だが、フェルナンドは実に優秀な青年である。私のもとに来る前は父君の仕事を手伝っていたと言うから、基本がしっかり出来ているのだろう。順応力もあり、上司としては大助かりだ(……しかし、先程から彼の態度がツケツケしているのは何故だろう。いつもより言動に棘があるのは寝不足が原因か?)。
「さて、これで殿下が遊び歩いていた間に溜まっていた仕事は一通り終わりましたね」
ほら、また。超過勤務をさせた私に対する腹いせなのか。目つきも険しく、そうして睨まれると父君にそっくりで、少し怖いのだ。
「フェルナンド。君、ものすごく不機嫌だね」
「そうですか? まあ、偉いくせに全く仕事をなさらない上司のおかげで、疲労と心労は頂点に達していますけど」
「……申し訳ない」
今後は普段からもう少し仕事をすることとしよう。
「ところで、どうしてまた急に仕事を片付けられたのですか?」
「ん? いや、ちょっと」
「もしかして、また何かよからぬことを考えていらっしゃるのですか」
曖昧に流す私に、濃紺の瞳が剣呑な光を帯びた。
アルバートといい、フェルナンドといい、クラレンス家の人間はどうしてこう背が高いのか(※別に私が低いとかそういうわけではない)。ただでさえきつい目つきをしていると言うのに、そのように目を細め上から見下ろされては、恐ろしくてかなわんではないか。
それに、私はまだ悪いことはしていない。折角仕事に精を出し、溜まっていた仕事全部終わらせたというのに、どうしてそう疑いの眼差しで見られなければならないのか。ここはむしろ褒めるべきところだと思うのだ。
しかしフェルナンドは、仕事をするのは当然ですうんぬんと小言をなげてきた。仕事が出来るだけでなく、上司を敬う心も部下には必要だと思うのだが、どうだろう。
「さ、仕事も終わったのだし、下がってよいぞ。フェルナンド」
「帰りたいのは山々なのですが……殿下は何をしておいでです」
立ち上がり、着替えを始める私に、フェルナンドは訝しげな視線を寄越した。目ざといやつだ。
「着替えをしている」
「見ればわかります。どこかお出かけでも?」
「ん、ああ、まあ、ちょっと、な」
「どちらへ?」
はぐらかそうとするも、切れ長の瞳が私を睨む。
「……」
「殿下?」
問い詰めるフェルナンドに、数分後、私は白旗を振って行き先を白状したのだった。寝不足プラス不機嫌プラス身長の合わせ技で、彼の眼力は倍増しである。勝てるわけがなかろう。
※※※※
所は変わって王宮図書館。“王宮”とついてはいるが、しかし王族や貴族だけでなく、広く一般に開放されている王国立の公共図書館だ。住所などの情報を登録して、利用証を発行してもらえば誰でも自由に利用できるようになっている。蔵書数は当然のことながら国で一番を誇り、古い時代の貴重な文献から、最近の出版物などが網羅的に納められている。
仕事を終えた私は、軽装に着替えその図書館へと足を運んだ。
傍らには寝不足顔のフェルナンドがついている。お忍びで行くから警護もなにも必要ない、ついてくるなと言ったのに、そうはいかないと目の下に隈を携えながら、無理矢理ついてきてしまった。徹夜続きで寝不足だろうからと配慮したのに、上司心部下知らず、である。
「ふあ……失礼。それにしても、何故いきなり図書館などに足を運ばれたのです? 王族専用の書庫なら別にありますのに」
欠伸を噛み殺しながら言うフェルナンドに、私は苦笑を浮かべた。
確かに、多くの者が出入りする王宮図書館とは異なり、書庫は王宮の内部、警備も厳重な場所にあって私のような身分の者が利用するにはそちらの方が安全だろう。
「書庫であったら君の手を煩わせずに済んだのだけどね。しかし恐らく私が探している本は書庫にはないと思うのだよ」
「どのような本をお探しで?」
「物語」
「は?」
数秒首をかしげたフェルナンドだったが、すぐに合点がいったらしく「なるほど」と声を漏らした。
「イレーナですか」
聞く彼にそうだ、と頷く。
「だから、ここ数日仕事に励んでいらっしゃったのですね」
「ああ、ゆっくり読書できる時間を確保しようと思ってね。仕事を片付けた後ならイレーナ嬢も『仕事を優先して』などとは言わないだろう?」
「本当に、女性のこととなると無駄に力を発揮なさるのですね」
「いいではないか。結果的に仕事を終わらせたのだから」
「……今後殿下が怠けられたら、イレーナに殿下を諌めるよう言ってもらおうと思います」
彼女を使うのは卑怯じゃあないだろうか。目の前にいるのだから直接言ってくれとも思うが、「私が言っても聞いてくださらないではないですか」と言われ、それもそうだと頷く。やはり頼みごとをされるのであれば、女性の方が断然やる気が出るものだ。男に仕事をしろと言われても、鬱陶しいだけでむしろ逆効果になるだろう。
そうこうしているうちに、物語の棚へと辿りついた。
ぎっしりと並べられた本の数々に、書庫ではこうはいかないと感嘆の溜息が出る。王族専用の書庫はいかんせん学術書の類ばかりが納められており、物語は後宮の、母上が主に利用する書庫に行かねばならない。後宮は、子どもの頃は許可なく出入りできていたのだが、成人した今は、兄上の奥方が輿入れしたこともあって、なかなかに入りづらい場所となってしまった(別に私は義姉上に手を出したりなどしないのに)。
早速私はお目当ての本を探すことにした。物語、物語、と。
整然と棚に並ぶのは、ルクソール夫人、ルイス=シュヴェル、マリア=ナタリア、『ある夜の物語』『麗しい月の姫君』『花語』『星々の夜明け』等々、著名な物語の数々だ。イレーナ嬢はどのような物語が好きなのか、とりあえず有名なものの中から一冊を手にし、ぱらりと開いてみる。
「ふむ、やはり傑作はいつの時代においても傑作なのだな」
「表紙を開いただけで何を読んだ気になっているのです」
格好をつけた私に容赦なく突っ込んだ部下に振り向く。彼は十数冊の本を抱え立っていた。
「なんだい、君も読書するのか?」
問うと、彼は首を横に振り持っていた本を机に置いた。
「私が読むのではありません。妹がよく読んでいた本を持ってきたのですよ。あまり有名とは言えないものが多いので、見つけにくいかと思いまして」
「フェルナンド!」
君は本当に優秀な部下だな!
「早く家に帰りたいので、さっさと読むか借りるかなさってお部屋にお戻り下さい」
……感動した途端本音を漏らすことはやめてくれないだろうか。上げて落とされると結構な衝撃があるものだ。
「そうだね、じゃあこれらを借りて戻るとしようか」
立ち上がった時――
「フェルナンド様?」
愛らしい声が響いた。
声のしたほうを見れば、一人の美しい女性が立っている。
赤っぽい金色の巻き毛に緑色の瞳をしたお嬢さんは、瞳と同じ緑のドレスの裾を翻しながら私たち――フェルナンドの方へと歩み寄ってきた。
「お久しぶりですわ。最近全然我が家へいらっしゃらないから。お元気でした?」
言う笑顔はやはり可憐で美しく、フェルナンドのいい人だろうかとつい不躾に見つめてしまった。
いけない、いけない。恋人同士の会話を邪魔するなど無粋も無粋。私は二人の会話が終わるまでフェルナンドが持ってきてくれた本を読んでいることにした。
積み重ねられた本の一番上の一冊を手にとって開く。エリサ=ロウ著、『茨』。
初めて読む物語だ。
※※※※
男爵家の長女、リリアは美しいが臆病な娘。幼い頃恐ろしい経験をして以来人を信じられなくなってしまった。
彼女の十八歳の誕生日、多くの貴族たちが噂を聞きつけ求婚にやってくる。男達は挙って彼女を妻に欲しがったが、けれど、リリアはその求婚を悉く断っていった。言い寄る男たちに難題をふっかけては、追い返してしまうのだ。頑ななその態度に、人々はやがて『美しいが棘のある、茨の君』だとリリアを称するようになった。
ある日、一人の男が彼女に結婚を申し込む。男は隣国の王子で、見目も麗しく、世の女たちが揃って熱を上げる相手だった。しかし、リリアはやはり王子の求婚を受けることなく、姿も見せずに使用人を使い一通の手紙を寄越した。
『もし、私を見つけられたなら、私は貴方の妻になりましょう』
数日後、彼女は夜会を開く。自分と同い年の娘たちを集め、その中からリリアを見つけだせと言うのだ。
周りの者たちは無理難題をいう彼女にあきれ、王子に同情を抱いた。王子は一度も彼女を見たことがない。噂を聞き、やってきたはいいけれど、実際にはリリアのことは何一つ知らないのであった。
そしてついに、夜会の日が訪れる――
「殿下」
「うわあ!」
すっかり物語に集中していた私は、突然かけられた声に驚き飛び上がった。振り向けばフェルナンドも私の声に驚いたらしく、びっくりとした表情を浮かべている。
「な、なんですか、急に」
それは私の台詞だ。王子がリリア嬢を見つけられるかどうかの瀬戸際であったのに。空気を読みたまえ、空気を。続きは部屋へ帰ってじっくりと読むことにして、本を閉じフェルナンドに向き直る。
「もう話は済んだのかい?」
「あ、ええ。それで、エレナ嬢が殿下にご挨拶したいと」
見れば巻き毛の美しいお嬢さんはまだそこに立っていた。エレナ、というと、もしやアステリオ伯爵の二番目のご令嬢だろうか。脳裏に緑眼の伯爵の顔を思い浮かべ、そういえば眼の色も赤みを帯びた金髪もそっくりだと得心する。父君はずいぶんと丸い――いや、ふくよかでいらしたが、その部分は似ずに済んだらしい。エレナ嬢は出ているところはきちんと出ている、スレンダーで魅力的な身体のお嬢さんである。羨ましいぞ、フェルナンデ。
「お初にお目にかかります、エレナ=リズ=アステリオですわ。父がいつもお世話になっております」
「いや、こちらこそ父君にはいつも世話になっているよ」
なんて、実際にアステリオ伯爵に会ったことは数えるほどしかないのだが。社交辞令、社交辞令。
「そんな、殿下には良くしていただいているようで」
エレナ嬢も同じように社交辞令で返し、それで会話が終わるかと思ったとき。
「……そうですわ、殿下、今度我が家でお茶会を開こうと思っているのですが、よろしければ殿下もいらっしゃいませんか?」
思わぬ提案がなされた。
「お茶会?」
「ええ、親しい方たちを呼んで庭でお茶を楽しむのですわ。お茶会というよりは、立食パーティみたいな形になるのですけれど」
「それは、それは」
是非に、と応えたいところだが、ふと傍らのフェルナンドに視線を移せば渋い顔をしている。部下の愛しい人を横取りする私ではないものの(だからエレナ嬢とのやりとりを社交辞令程度でとどめているのだ)、一方で美しい人の誘いを断ることも躊躇われた。そもそも私は夜会やお茶会といった華々しい場所が好きなのだ(色んな女性とも出会えるし)。
「是非いらしてくださいませ。さきほどフェルナンド様にもお伝えしたのですが、殿下もいらっしゃれば、きっと楽しいお茶会になると思いますわ」
差し出される招待状を、ここまできて否ということもできずに受け取った。
「それでは、喜んで参加させてもらうよ」
※※※※
「そんなに心配せずとも、私は君のいい人を取ったりしないよ」
去っていくエレナ嬢を見ながら、フェルナンドはまだ渋い顔をしている。
いくら“女たらし”と名高い私でも、それなりに節操はあるつもりだ。だから安心したまえ、と声をかけるが、フェルナンドはキョトンと首をかしげた。
「なにか誤解なさっていませんか? 彼女は他にしっかりとした許婚がおられますよ」
「は?」
今度は私が首をかしげる番だった。
「では君は許婚のいる相手を好きになったのかい? むむ、険しい道だが、恋とは得てしてそういうものだ。フェルナンド、君がそんなにも彼女が好きだというのならばとめはせん。存分につき進……」
「だから違いますって」
「……ではどうして私が彼女と話していたとき、変な顔をしていたのだ」
「え?」
「今もしている。彼女を好いているわけでないのなら、どうしてエレナ嬢が私を茶会に誘ったとき顔を歪めたんだい?」
「いや、それは……」
「うん?」
口ごもるフェルナンド。彼が私を茶会に行かせたがらぬ理由を知るのは、もう少し後になってからだった。
※後日談※
その後、フェルナンドに教えてもらった本を読み終えた私は、早速イレーナに手紙を書いてみた。
数日の後に送られてきた手紙は、確かに今までよりは大分くいつきもよく、正に“楽しい文通”であったのだが――
『読書をなさる前にきちんと仕事を片付けられたと兄にお聞きしました。これからも、あまり仕事をお溜めになりませんように……』
どうやら、手紙に小言を書くのは彼女なりの励ましの言葉らしい。謹んで仕事に励むことにする。