03:漂う雲の掴み方
その日殿下は、執務室の机に向かい書き物をしていらっしゃった。
鼻歌を歌いながら上機嫌に書き綴られているのは、先頃始まった私の妹イレーナとの文通の手紙だ。山のように積み重ねられた御政務の書類を無視し、いかに女心を掴む文章をひねり出すかということに精を出される殿下に、私は複雑な気分で眉を寄せた。
数日前、殿下に頼まれ密会の手引きをした私は、その後あっけなく父と兄にそのことがばれ(というかばらされ)、こってりと説教を食らった挙句、謹慎を言いつけられた。兄には屋敷で顔を合わせるたびに射殺さんばかりの視線で睨みつけられ、また謹慎のせいで仕事が終わった後ろくに出かけることも出来ず、自業自得とはいえ鬱憤の溜まる日々を過ごしている。殿下を見る視線も自然険しいものに変わり、八つ当たりだと分かっていても、つい良くない態度をとってしまう。
そんな私の振る舞いを見るたび、「あまり表情を出しすぎると出世に響くぞ」などと冗談めかしておっしゃるので、余計、誰のせいでこんなことに、と苛立ちが募るのである。
私が初めて殿下にお会いしたのは、十七歳の時だった。
十四の年に突然行方不明の身となり、無事に帰還されたかと思うと別人のように軽薄な行動をとって人々を悩ませていた殿下の噂は、当時まだ西方の領地で父の仕事を手伝っていた私の耳にも届いていた。
「また第三王子殿下が問題を起こしたそうだ」
父と仕事で出かけていた兄が、帰ってくるなりそう口にする。
「今度は子爵婦人と不倫なさっているとかで、王宮はその処理に追われているらしい」
「以前にもどこかの貴族の奥方と恋仲でいらっしゃいましたよね」
「いや、その方ではない、別の方だ。……全く、エーリク殿下は次から次へ問題を起こされる。将来国を背負われる立場にあらせられる方が女に現を抜かすなど、我が国も堕ちたものだ」
国を憂え、大げさに溜息を吐く兄とは反対に、私はどこか他人事のようにその話を聞いていた。世間を騒がせる第三王子殿下は、偶然にも自分と同じ年でいらっしゃったが、「お前は決して殿下のようになるのではないぞ」とつけ加えられる兄の小言に煩わしく顔を顰めるくらいで、殿下自身にこれといってなにか思うことはなかったのである。遠い王都のことよりも、目の前の、父の仕事の手伝いや勉強だけで精一杯で、近い将来その噂の主であるエーリク殿下と日々顔を合わせる関係になるなど、その頃は思ってもみなかった。
ある日、父と共に王宮に呼ばれた私は、突然エーリク殿下の補佐役を任じられる。父の優秀な政治手腕と、その生真面目さを高く評価した国王・王妃両陛下からの直々の御達しだった。
「話が違うではないですか母上!」
王妃陛下に連れられて部屋に参った私に、殿下が声を上げておっしゃられた第一声がそれである。
殿下は信じられないと言いたげに目を見開き、王妃陛下に詰め寄られた。その憤慨したご様子は甚だしく、一体事前にどういう話がなされていたのかと、私も殿下と同じように王妃陛下を見つめた。
「ええと、話が違うってどういうこと?」
視線を集めた陛下は、しかし何のことを言われているかわからないという風に首をかしげられた。
「エーリク、母はあらかじめ貴方に伝えておいたはずなのだけど」
「ええ! 確かに、今日補佐役の方が参られるということは聞きました」
では何が話し違いだと言うのか。今度は殿下の方へと視線が集中する中で、殿下はすっと片手を上げられた。そして――
「彼は一体何なのですか!」
と人差し指でビシリと私を指差される。
わ、私!?
思いもよらぬ展開に動揺を隠せず固まる私に、王妃陛下が代わって口を開かれた。
「なにって、フェルナンド=リシェル=クラレンス殿よ。西方領主、クラレンス伯爵の御次男の」
しかし殿下はそういうことを言っているのではないのだと、おっしゃられる。
「あら、じゃあ一体どういうことなの? エーリク」
「どういうこともなにもありません、母上」
やれやれと肩をすくめられた後。
「彼はどこからどうみても男にしか見えないではないですか!」
ずばり言ってのけた殿下に、一同は「――は?」目を点にした。
「もう! 母上から補佐役の話を伺って以来、私はずっと楽しみにしていたのですよ! 私に合う最適な人物が見つかったとお聞きして、どんなにか美しい女性だろうと、夢にまでみて待ちわびていたのに、まさか男だったなんて……」
恨めしげにみられるが、私に非があろうはずもない。
嘆かれる殿下に、ただただ呆れていたその時、「この大馬鹿者!」私の横を物凄いスピードでなにかが通り過ぎた。
ゴツンッ
「っ――!」
傍らを見やれば、王妃陛下が眉を寄せ、拳を握っていらっしゃる。
「お、おぉう……母上、殴るならせめて平手打ちにして下さい」
頬を押さえてうずくまる殿下を、王妃陛下は虫けらのごとく見下ろされた。
「お前は……。本当に、どうしてそんな風になってしまったのです。以前は真面目で優しい良い子だったのに。それが今は女、女と、まるで色魔のように女性ばかり追いかけて。お前がそのようだから、今回お目付け役として補佐をつけるように決めたのではないの」
「いや、てっきり補佐というのは公私共に私を支えてくれる、いわば妻もしくは愛人のような」
ゴツン!
第二発目が打ち込まれる。
「母は悲しい! 今後はこれ以上お前が道を踏み外さぬよう、しっかりとフェルナンド殿に見張っていただくゆえ、慎んで行動するように」
ぴしゃり言い放ち、王妃陛下は部屋を出て行かれた。
頬の痛みに悶絶する殿下に、これからやっていけるだろうかと不安に思う私だったが、ふとあることに気づき眉を寄せた。薄灰色の瞳に映る複雑な感情。陛下を見送るその視線に乗せられた感情を確かめようと、不躾にも殿下の顔を覗きこんだとき、それは掴む間もなく消え去った。
「はあ、やれやれ。母上も手厳しいお方だ」
言いながら言葉とは裏腹に陽気な笑みを浮かべる殿下に、掴み損ねたものを追求する気持ちはあっという間に薄まり、“呆れ”の感情がそれを塗りつぶした。
「さて、フェルナンド君だったかな?」
「はい」
呼ばれて、しゃきりと姿勢を正す。
王妃陛下に二度も鉄拳を賜り、すっかり乱れた金色の髪を直しながら、殿下は私を見、そしてふっと笑みを零した。
「あの……?」
どこかおかしかっただろうか。きょとんと首を傾げる私に、殿下は一層笑みを深くなさる。
「いや、あまりにも分かりやすすぎるのでつい。君は感情が顔に出るタイプだね」
「……申し訳ありません」
謝ると、どこか投げやりな様子で殿下は言う。
「別に謝ることはないよ。私を見ると、皆同じような呆れ顔になる」
君ほどあからさまに顔を顰めた者は初めてだったけれど、と言葉は続き、私は恥ずかしくなって顔を伏せた。
感情を顔に出しすぎることは、よく兄にも注意されることだった。
他者にも己にも厳格な父を心から敬愛する兄は、外見はまるで母譲りだというのに、中身は父にそっくりで、常に己を厳しく律し、弟の私にもそれを要求する。『男があまり感情を露にするものじゃない。父上のように何事にも動じず、冷静に対処することが、本来男のあるべき姿なのだ』繰り返し言い聞かせられた言葉はいつのまにか鎖のように身を縛り、知らぬうちに私を戒めていた。
またやってしまった、と心中で悔いていたとき、殿下は何気なく口を開かれた。
「素直なのは良いことだよ。分かりやすすぎるのは、短所と捉えられることも多いが、裏を返せば人間らしいということだ。能面のような無表情よりも、私は表情豊かな者の方が親しみやすいと思う」
君が女性でないのが酷く残念だが、と前置きした後、殿下はにっこり笑って手を差し出された。
「これからよろしく頼むよ、フェルナンド」
微笑まれる殿下の手をとりながら、私は噂で散々聞かされていた“放蕩王子”に、ほんの少しの好感を抱いたのである。
――そして、四年後。
「殿下、そろそろ溜まった仕事をなさって下さい。殿下がサボられるせいで他の者にも支障が出るのですよ」
相も変わらず手紙を書き続ける殿下に、私はついに注意し、申し上げた。
手紙を書き始めてから既に半時が過ぎている。このままでは一向に片付かない書類の山に、雪崩が起きる前にそれを減らして頂かなくてはと、もう一度「殿下、」声をかける。
しかし、薄灰色の瞳はちらりと私を見るだけで、すぐに机上の便箋へ戻っていった。
お側に仕えてきた四年間。殿下のすぐ隣に控え、殿下の振る舞いを見、諌めてきた私が出した結論は、殿下はやはり“女たらし”の“放蕩王子”であるというものだ。
じっと机に向かわれることを厭い、目を離せば、好機とばかりにどこかへ消えてしまわれる。空を流れる雲のように掴みどころないお方で、時に大雨や嵐を起こし人々を困らせる。非常に厄介で、しかしどことなく憎めない方でもある。
人の機微に聡くていらっしゃり、相手の本当に嫌がるようなことはしない。普段はそれを、女性を口説くことにばかり使っていらっしゃるが、時々わざと道化として振舞っているのではないかと思えることがある。四年間一緒にいたせいで情が湧きそう思うだけなのかもしれないが、けれど長いようで短い月日を経て、私の中の殿下への評価は確実にプラスのものに変わっていた。
「殿下」
再度呼べば、殿下はちょっと罰の悪そうな表情を浮かべ顔を上げた。
「仕方ないだろう、イレーナへの手紙の文章がなかなか思いつかないのだ」
なにが“仕方ない”のかさっぱりわからないが、殿下はこれっぽっちも仕事をなさる気がないようだ。
「後でやるから、今は放って置いてくれ」
「殿下、そう言って一度もなさったためしがないじゃないですか。政務を疎かにし綴られた手紙を頂いても、妹は嬉しくないと思いますよ」
せめて山積みになった書類の整理でもしていようと立ち上がると、やや驚いた表情の殿下と目が合った。
「なんですか?」
「……フェルナンド、君、私の手紙を読んだのか?」
「はい?」
あらぬ疑いをかけられ、目を見開く。
「そのような無作法、私がするわけないじゃないですか」
「だが、それならばどうして私がいつも手紙で彼女に怒られていることを知っているのだ!」
「は?」
首をかしげる私に、殿下は自ら妹から送られてくる手紙の内容をばらした。甘い言葉の並べられた殿下の手紙に、妹はそっけなくこう返事をするらしい。
『ご政務ははかどっていらっしゃるのですか』
『あまり手紙ばかりお書きにならず、お仕事にもお励みください』
『公爵家の夜会に出席なさったようですが、きちんとお仕事を片付けてから行かれましたか?』
我が妹ながらこれっぽっちも可愛げのないやりとりに、思わず閉口する。
「殿下、よくこんな面白みのない文通続けていらっしゃいますね」
言うと、殿下はそんなことはない! と勢いよく立ち上がられた。が、「そんなことはないぞ……」とすぐさま弱弱しく椅子に戻っていかれる。
「別につまらないわけではない。私自身、時々母上と文通をしているのではと少しばかり悩まないでもないが。しかし、私がいけないのだ」
「なぜです?」
とりあえず、訊く。
「当然だろう! この文通は私の方から言い出したのだ。なのに、イレーナ嬢とすでに数度手紙を交わしている身であるのに、いまだ私は彼女の関心ごとを掴めずにいる。彼女も興味のある事柄であったなら、もっと話も弾ませ、この文通を楽しんでくれるだろうと思うのだが……不甲斐ない」
肩を落とされる殿下に、私は(本当にこの方はどうしてこう女性関することだと本気を出されるのか)やや呆れた。けれど少しして、ふと、良い考えが頭をよぎった私は、にっこりと、呆れ顔を笑みに変える。
「殿下、妹の興味を持つものを、私が教えて差し上げましょうか」
「なに! 本当か?!」
嬉しそうに声を弾ませる殿下。私は頷いて妹の好きなものを殿下に申し上げる。
「イレーナは物語や御伽噺が好きなのです」
屋敷に篭もりがち(父の教育方針のせいだが)の妹の趣味は、母が同じく少女時代読み集めていた本の読書をすることであった。
「ふむ、物語か。年頃の少女らしい、良い趣味ではないか。それで、イレーナ嬢はどのような本を好まれるのだい?」
続きを訊ねる陛下に、私はそっと口を閉ざす。
「フェルナンド? そこまで教えて黙るのは酷いではないか。それとも、これ以上は本人に聞けと?」
「いえ、きちんと教えて差し上げますよ、ただ」
「ただ?」
「お仕事をきっちり片付けられた後で」
私は山積みにされた書類の中から一枚をとって殿下に差し出した。
「……フェルナンド。君、この四年間で私の扱い方を心得てきてないか? 私は気が付けば君に上手く操られているような気がするのだが」
書類と私を交互に見た後、結局はそれを受け取られる。
本当に、扱い方さえ心得れば、実にやりやすい方なのだ。四年間の経験を経て、私は殿下という雲を掴む方法を着実に身に着けてきたのであった。