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わたくしの父の葬儀に殿下は見えませんでした。その場で読まれた遺言をご存じないまま、殿下は二つの領を手放されます

掲載日:2026/08/18

 父の柩に蓋がされる前に、王太子殿下の使いが広間へ入ってきた。


 喪服の列がひらいて道ができ、使いは外套の埃も払わずに進んで、柩の三歩手前で足を止めた。懐から紙を出してひらき、広間の隅まで届くだけの息を吸う。


「王太子殿下より、アルンフェルト公爵家ロヴィーサ殿へ」


 列席していた家々が、いっせいにこちらを見た。


「喪の家と縁を結んでいる暇はない。支度は明日から他の家と進める」


 使いは残りの三歩を詰めて、柩の脇に立つわたくしへ紙を差し出した。受け取るまで手を引かない。受け取ると、一礼して出ていった。


 誰も咳をしなかった。東の辺境伯が何か言いかけてやめた。


 婚約が結ばれたのは十年前、わたくしが十二のときである。以来ずっとわたくしは王太子マグヌス殿下の婚約者だった。その十年が、たったいま終わった。


 それでもわたくしは泣かなかった。


 泣けば、この場にいる家々は父の葬儀を思い出すたびに、泣いた娘の顔を一緒に思い出す。


 書付を持ったまま、柩へ戻る。


 叔父のグスタフが横に来て、低い声で言った。


「喪の席に列した者は、半年のあいだ自分の名で人を集められぬ。……あれは月末に宴を決めておる」


「では、来られなかったのではなく」


「来なかったのだ」


 叔父は続けた。


「宴で次の家の話を出す前に切っておかねば、二股と言われる。だが、それだけなら明日でも間に合う」


「では、なぜ今日なのでしょう」


「切ったと人に知らせるのが要るからだ。文だけでは、受け取っておらぬと言い張られて揉める」


 叔父は柩を見た。


「今日この日、王都の内でも外でも、いちばん人の集まる場が、ここだ」


 叔父は柩の足のほうへ回り、そこへ肩を入れた。


 柩を担ぐ者が足りなかった。若い者は父が寝ついた月にまとめて暇を出している。若いうちなら次の奉公先が見つかる、年を取ってからでは行き先が無い、というのが父の言い分だった。代わりは入れていない。年の寄った家臣が二隅へ肩を入れ、四隅のうち一つが空いたまま、家令が列を見渡していた。


 そこへ、荷を運んできて、それを床に置いたまま列へ入った男がいた。


 ベンクト男爵という。北の鉱山の差配で、月ごとの銀を自分で運んでくる。その月の二度目の荷が、今日だった。


「肩は貸せます」


 家令が蓋を下ろし、ベンクト男爵は土の色の上着のまま四隅の一つへ肩を入れて、膝を伸ばして柩を持ち上げた。墓所まで、彼は最後まで残った。


 床に置かれたままの荷は、戻ってからインゲルとエルナが蔵へ入れた。



 父トルステンが床についたのは三年前である。


 医者は最初の半年で匙を投げた。わたくしは枕元に付き、夜会の招きは全部断った。断りの文は自分で書いた。


 父は届いた文をわたくしに読ませて聞いた。去年の秋、殿下の使いからの文もその中にあった。


「早く済ませろ、と書いてございます」


 済ませろ、と書いてあるのは、寝ている父のことである。わたくしがそう読むと、父は何も言わずに目を閉じた。


 父が口をひらいたのは、その日の夜だった。


「ロヴィーサ」


「はい」


「あれは、わしの葬式には来んぞ」


 わたくしは薬の匙を止めた。正しい答えが分からず、正しくないほうを言った。


「婚約者でございます。来ないということはございません」


「寝ついてこのかた、あれから届いた文に、わしの名は一度も出てこん。加減はどうかの一行もない。おまえに早く済ませろと書いてよこす男が、済んだあとにわざわざ足を運ぶか」


 父は目を開けないまま、答えを待たずに締めくくった。


「来ん。……おまえは、来ると思っておるのだな」


 わたくしは答えなかった。答えれば嘘になると、そのとき初めて気がついた。


 その二日あと、父は膝に板を渡して書き物をしていたが、わたくしが入ると筆を置いて板ごと裏返した。訊けば見せたかもしれない。自分の手で何かを決めている父を、止めたくなかった。


 その数日のうちに、家令が客を一人通している。父はその客と二人きりで話し、帰したあと、板の上には何も残っていなかった。


 家令の手元には、王都の店からの請求が束ねてあった。宴の酒、馬、宝飾、仕立て。どれも殿下がお使いになり、どれも公爵家が払っていた。


「これは、いつからでございますか」


「婚約の年からでございます。最初の一度は、殿下がお持ち合わせをお忘れになりました。二度目からは、店が初めからこちらへ」


「父が寝ついた月から、うちは人を減らしたままです」


「減らしたのは屋敷の者でございます。店への払いのほうは、止めておりません。止めれば、公爵家が傾いたと王都に知れます。旦那様が、それはならぬと」


 その束の隣の文箱に、父は婚約のときの王家の書面の写しをしまっていた。婚約に付いた取り決めの写しは、嫁を出す側の家へも回ってくる。殿下は婚約の年に、王家から西の二領を与えられている。王都に近い塩の地で、実入りのよいところだ。婚約の縁がある間、と書いてあった。


 北の鉱山からは、月ごとに荷が届く。その月に掘れた銀である。ベンクト男爵が付ける荷札には、受け取った者が自分で名を書く欄がある。名を書いた札は、次の荷のときに運び手へ返す決まりだった。


 いつからか、荷は月に二度になった。男爵も忙しいことだ、と思った。


 父が死んだのは、その月の一度目の荷が届いた三日あとの朝である。明け方に一度だけ目を開けて、わたくしの顔を見て、何か言おうとして、言わずに口を閉じた。それから吸って、吐いて、次を吸わなかった。


 わたくしは手を握ったまま数えていた。数えるものが無くなって侍女を呼んだ。


 野辺送りは、遠い家々が王都へ着くのを待って十日を置いた。男爵が二度目の荷を運んできたのが、その日である。



 柩を出したあと、諸家が広間へ戻る。宮廷の公証人ハルヴァルが、卓の上で封を切った。


「アルンフェルト公爵トルステンより昨年の秋に預かりました遺言を、読み上げます。この場でお聞きになった方々が、そのまま証人でございます」


 老人で声は小さいが、そのぶん遅く読むので聞き逃す者がいない。


「一、公爵家の家督は、娘ロヴィーサが継ぐ」


「一、三つの領のうち、南の二つは弟グスタフへ渡す。北の領は娘に残す」


「一、その北の領のうち、鉱山だけは、娘が王家との縁を解かれた日をもって、王家へ返上する。縁が続くかぎり、この一条は起こらぬ」


「一、返上は、縁の解けた日に決まる。山が向こうの手へ移るのは、王家の役と書付を交わした日である。届けはこの遺言を読み上げた者が出す」


「ハルヴァル殿。その縁は」


 辺境伯である。


「今朝、この広間で切られましてございます。わたくしもそこにおりました」


 広間がざわついた。北の鉱山はアルンフェルトの財の半分だと、この場の誰もが思っていたからである。


「返上の理由を読み上げます。娘が王家との縁を解かれたとき、娘の背に残る重荷を減らすため」


「待たれよ」


 叔父だった。


「重荷、とは。あれは財ではないのか」


「そのわけも書いてございます。まず南の二つ。麦の地だが、水が引けぬようになって二年になる。堰を組み直す人手は、弟なら出せる」


 叔父が黙った。渡されたのは楽な土地ではないと知った顔である。


「北の鉱山は、掘れた銀のうち定めの量を毎年、王家へ納める。婚約の年、王家がその量を引き上げた。掘れる量より上へでございます。それからこのかた、その量に達した年は一度もございません」


「では、足りぬ年はどうしておった」


「達せぬ年は、嫁を出す家だからと、その年の納めごと免じていただいております。ですから今日までは、掘れた銀がそのまま家の実入りでございました。……縁が切れれば、その扱いは無くなります。足りぬぶんは、銀を買って納めるほかありません。掘れた銀は納めに消え、なお買い足すことになります。明日からは、掘るほど銭が出ていく山でございます」


 叔父は座り直した。卓の向こうで、東の辺境伯が低く唸った。


 財の半分だと誰もが思っていたのは、昨日までなら、そのとおりである。


 残りの半分は北の領の木だった。南の二つは、水が引けなくなった年から何も生んでいない。木で足りぬ月は、家に残ったぶんの銀を売って店への払いに回していた。


「しるされた日付は、昨年の秋でございます」


 父が寝台の板を裏返した、あの日のあたりである。家令が通した客はこの老人だったのだと、そこで分かった。父は自分が死んだあとの日を勘定に入れ、縁の切れた日にだけ効く一条を、そこに書いたのである。


 読み上げが済むと、ハルヴァルは正本を巻き直し、あらためて封を捺した。


「正本はこれより封じます。写しは、財を受け取られる方々へ。中身を人へお示しになるときは封のある正本で、ひらくのは写しをお持ちの方々が揃われた場に限ります」


 写しは二枚渡された。領を受け取る叔父と、家督を継ぐわたくしである。財を受けない殿下には、渡るものが無い。


 知らせも行かない。殿下は列席していないので、この読み上げを聞いていない。



 ここから先、わたくしが見ていない場が続く。誰が何を言ったかは、叔父とハルヴァルと家令、それに王城の書役が回した写しから聞き集めた。顔がどう動いたかまで書いてあるのは、聞いた言葉から、たぶんこうであったろうと思い描いて書いたからである。


 明日から進めると読ませておいて、この人は明日を待たなかった。葬儀の日の午後、王太子マグヌスは別の家の名を口にしている。


 伯爵家の令嬢である。その日のうちに、いつもの店を通して職人を呼び、屋敷の普請をやり直させている。二枚の図面のうち、高いほうを指した。


「では、材木の手付を頂戴いたします」


「払いは公爵家が持つ」


「アルンフェルトとのご縁は」


 訊いたのは侍従である。


「切った。だが十年、あちらが払っている」


 侍従は目を伏せた。帰りぎわに職人が期日を告げたが、返事は無かった。


 高いほうを指したとき、この人の勘定には、まだアルンフェルトの銀が入っていた。


 月末の宴で、殿下は令嬢の名を出し、婚礼は春と広間へ告げた。父の葬儀に列した家も来ていて、東の辺境伯の姿もあった。


 名が読み上げられたとき、拍手の起こり方が半拍だけ遅れた。遅れたのは、あの朝あの広間にいた家々の側である。読まれた遺言のことを口にする者は、一人もいなかった。



 期日が来た。店は十年どおり、請求をアルンフェルトへ回した。家令が受け取り、目を通し、返す。


「その縁は、葬儀の日に切れております」


 使いは笑った。冗談だと思ったのである。


「あの日、広間にどなたがいらしたか申し上げます。東の辺境伯家、宮廷の公証人、分家のアルンフェルト、それから、お宅がいちばん多くお納めの、王家に近いあのお宅」


 どれも婚約を知っている家である。使いの顔から笑いが消えたのは、四つ目を聞いたあたりだった。


 店の主が自分で殿下のもとへ出たが、通されたのは廊下である。


「公爵家へ回せ」


 殿下はそれきり取り合わない。職人は手付を受け取れぬまま材木の代を先に払い、足場だけは組んでしまっている。店の主は王城へ訴え出た。


 マグヌスは王城の小部屋へ呼ばれた。卓には請求の束が積んである。


「これは、どこから払うおつもりでしたか」


 宰相である。放っておけば、この払いは陛下の財から出る。


「アルンフェルトが払う」


「十年、あちらが払っていた、と侍従が申しております。そのアルンフェルトは、縁は葬儀の日に切れていると申しております」


「切ったのは向こうだ」


 宰相は、どちらが切ったのかを正さなかった。正せば言い合いになり、肝心の問いが流れてしまう。


「では、切れたのですね」


「切れた」


「殿下。婚約の年に王家がお渡しした二つの領は、書面に、婚約の縁がある間、とございます。縁が切れておりますなら、あの二つは王家へ戻ります」


 マグヌスは口をひらき、閉じ、それから言い直した。


「……切れてはおらぬ」


 書役は問いと答えを順に写し、一度書いた行は消さない。言い直しは、言い直したという形でしか残らない。


「殿下。領をお取り上げになるとお決めになるのは陛下でございます」


 宰相は続けた。


「当のご本人が争っておられる以上、いま書役が写しておりますこの一枚だけでは足りません。あの朝あの場においでだった家々が揃って書いてお出しになれば、陛下はお動きになります」


 そう言いながら、宰相の目はマグヌスではなく、書役の手元へ向いていた。


「では、この払いは、どなたの財から出るはずのものでございましたか」


 宰相は請求の束に手を置いたまま、答えを待った。


「ならば私が払う。アルンフェルトの北の鉱山の上がりがある」


「あれは公爵家のものでございます。殿下のものになったことは一度もございません。しかも、亡き公爵の遺言で王家へ返上されることが決まっております」


「……いつの話だ」


「あなたが使いをお出しになった日でございます。葬儀の場で読み上げられ、列席した家々が聞いております。届けも出ておりますが、殿下のお耳には入っておりません。どなたも報せに行かなかったのは、行けば叱られると分かっていたからでございましょう」


 マグヌスはその足でハルヴァルを呼びつけ、正本をひらけと言った。


「おできになりません。あれは、財を受けられた方々のもとで開くものでございます。……ただ、迫られたことは、その方々へお伝えいたします」


 ハルヴァルは下がりぎわ、足を止めた。


「あの日、殿下のお使いは、たいそうよく通る声でございました。広間の端の者まで、残らず聞いております」



 ハルヴァルが動いたのは、この家のためではない。断ったことを知っているのが迫った当人だけでは、断らなかったことにされてしまう。だから外へ伝えた。


 その足で分家へ回り、叔父に告げた。小部屋で殿下が言い直したことも、宰相が言い添えた一言——家々が揃って書いて出すまで陛下は動かれない——も、宮廷の紙を扱う者の耳には入っている。ハルヴァルはそれを、そのまま叔父へ渡した。同じ文がうちへも届いたが、わたくしは帳面から目を上げなかった。


 叔父はその日のうちに東の辺境伯を訪ねた。


「あの日、使いが読み上げたのを、お聞きになりましたか」


「聞いた。……あのとき、わしは言いかけて、やめた。柩の前で読ませるやつがあるか、と言いかけたのだ。飲み込むのではなかった」


「では、聞いたとおりを陛下へ書いていただきたい。あの朝何が読まれたか、それだけで結構です。私が言えば、領を貰った者の身びいきと取られます。あの場にいて何も貰わなかったのは、あなたがたです」


 辺境伯はその場で紙を出させた。


 叔父は同じことを、あの日広間にいた家を一つずつ回った。いちばん小さな家の当主は、書き終えてから、これで足りますか、と訊いている。


 王家に近い一家で、叔父は止められた。


「殿下に不利になることを、書けと仰るか」


「聞いたことを、聞いたとおりに。書かぬのはご随意です」


 叔父は紙を引かなかった。


「ただ、あの場においでだったことは、ほかの家がみな書いております。書かぬ家が一つだけあると、その名が残ります。……王家に近いお宅ほど、隠したのはあそこだと先に言われましょう」


 当主は長く黙っていた。それから、聞いた者が聞いたと書くだけのことだ、と口の中で言って筆を取った。


 叔父は集めた束を持って王城へ回り、陛下にはお目にかからず、取次の間で名と用向きだけを述べて置いて帰った。どの紙にも同じ文言があり、書いた家の数だけ名が並ぶ。



 叔父にも辺境伯にも、動いてくれと頼んだ覚えはない。わたくしは家の帳面を覚えるのに追われていた。


 父が三年寝ていたぶん、帳面は出たほうが抜けている。それより前は父が自分で書いており、出たほうも残っていた。


「では、なぜ寝ついてから変わったのですか」


 家令は目を上げなかった。


「書くなと言われました。書けば残ります、と申し上げましたら、旦那様が、だから書くなと」


 起きて歩けるうちは、いずれ自分で片をつけるつもりだったのだろう。


 わたくしは筆を取った。この三年、自分の手で書いたのは、夜会の断りの文だけである。


「お嬢さま。旦那様が」


「父は、書けば残るから書くな、と言ったのでしょう。……わたくしは、残ってよいと思います」


 最初の月の欄に出た額を書き入れると、家令はしばらく黙って見ていたが、止めはせず、次の月からはこちらが訊く前に額を言うようになった。


 三日かかって、抜けは全部埋まった。


 幾日か経った朝、分家から短い文が来た。片づいた、とだけ書いてある。わたくしはその文を持って分家へ行った。


「何を片づけられたのです」


「兄の柩の前で読ませた男だ。あの場にいた家は残らず回って、書いたものを王城へ置いてきた。あとは陛下がお決めになる」


 礼を言おうとすると手で止める。


「礼を言われる筋合いはない。わしは領を貰った側だ。貰った側が黙っておっては、兄に叱られる」


 叔父の手は乾いた土で汚れていた。南から戻ったばかりである。


「南の堰は来春から人を入れる。麦が出たら、こちらへ回す」



 そのころ、家令が十年ぶんを合わせた紙を持ってきた。王城へ出す文まで考えてある顔である。


「出すな」


「……よろしいのですか。これだけの額が」


「父は十年、黙って払った。返せと言えば、黙っていたことにならない。貸していたことになる」


 家令は紙を折り、帳面の後ろへ挟んだ。


「旦那様も、そう仰ったと思います」



 しばらくして、マグヌスは二度目に小部屋へ呼ばれた。卓には請求の束と、叔父が置いていった紙の束と、返上の書面が二枚、並んでいた。


「あの朝あの場においでだった家々が、殿下のお使いの読み上げを聞いたと書いて出しております。二つの領はお戻しいただきます。ご署名を」


「二つともか」


「二つとも。……そのうえで、店への払いは陛下がいったん払われ、殿下のお名前でお返しいただきます」


「私の名で」


「ほかにお名前がございません」


 宰相が筆を近くへ置く。マグヌスは筆を見たまま訊いた。


「十年、あちらが払った分は」


「申し出があれば、その話になります」


 申し出は来なかった。出すなと言ったのは、わたくしである。


 マグヌスは筆を取り、二枚とも署名した。二枚目のほうが字が小さかった。



 北の鉱山を王家へ引き渡す書付を交わす日が来た。


 書付を交わす場は渡す側の家である。日取りは書役の写しで王家の内へ回るので、その気になれば誰の目にも触れる。広間に卓を出し、徴税官とハルヴァル、叔父、ベンクト男爵、そして当主のわたくしが着いた。


 判と朱肉が並んだころ、窓の外で馬の脚が乱れた音を立てた。マグヌスは供も連れずに入ってくる。喪の日に使いが通った道を、今度は本人が通ってきた。


「渡すのを待て」


 この席に殿下は呼ばれていない。立ったのは徴税官だけで、王家の役として頭を下げ、座り直した。


「その判を捺すな。あの鉱山は私のものになるはずだった。王家へ渡してしまえば、私へ返る道が無くなる」


 西の二領の返上に、この人はもう署名している。返した領が戻る道は、どこにも書かれていない。


「どなたから、そうお聞きになりました」


 訊いたのは叔父だ。


「聞いたのではない。婚約していた。娘の持つものは、いずれ私のものになる」


「小部屋で、そうではないと申し上げられたはずでございます」


 叔父が続けた。


「それに、いま話しておりますのは、その婚約がいつ終わったか、でございます」


 わたくしは文箱から三枚の紙を出した。縁がいつ切れたかを示せと言われる日のために、別にして入れてある。徴税官がそれを取り、ハルヴァルへ回した。


 ハルヴァルが目を通して言った。


「あの日の書付には、他の家と進める、と。切ったのは殿下でございます。去年の秋の文には、早く済ませろ、と。切ろうとしておられたのが今朝からではないことは、この一枚で分かります。もう一枚は婚約のときの王家の書面の写し。西の二領をお返しになったのは、その縁が切れたからでございます」


 マグヌスが卓を見ているあいだに、叔父とわたくしが写しを卓に置き、遺言で財を受けた二人がそこに揃った。


「ハルヴァル殿。ひらいてくれ」


 叔父が言った。


 ハルヴァルが封を切り、あの日と同じ順に読み上げる。家督は娘が継ぐ、と読まれたところで、マグヌスは巻きのほうへ首を伸ばした。訊けば誰でも答えたはずだが、誰にも訊いていない。


 その文のどこにも、殿下の名は書かれていない。


「私の名がない」


「ございません。鉱山の一条に書いてございますのは、返上する、ということだけでございます」


「これは、いつ書かれた」


「昨年の秋でございます」


「なぜ私の名を書かない」


 叔父が答えた。


「遺言に名を書けば、その方へ知らせを出さねばなりません。知らせが行けば、中身をご存じになる。兄はそれを避けました」


「避けた」


「兄は、あなたが縁を切ると知っていて、これを書きました」


 マグヌスは巻きを見た。それから叔父を見て、徴税官を見て、最後にわたくしを見た。


「葬式に出なかっただけだ」


 わたくしは何も言わなかった。


 言うべきことは全部、卓の上の巻きに書いてある。ここで何かを足せば、足したぶんだけ、書いた父の言葉が軽くなる。


 徴税官が判を捺し、アルンフェルトが代々持っていた北の鉱山は、そこで王家のものになった。


 マグヌスはしばらく立っていたが、やがて入ってきたときの半分の速さで出ていき、その背に、腑に落ちた者の歩き方はなかった。



 徴税官とハルヴァルは書付を持って引き上げた。あとは、荷を納める先を書き換える仕事が残っている。


 ベンクト男爵が帳面を出した。表紙は擦り切れている。


「男爵。父が寝ついてほどなく、荷が軽く、運びが倍になっております。運びの回数を減らすほうが、そちらは楽でございましょう」


 彼は受け取った者の名の列を指す。


 三年前まで、一度の荷につき、受け取った者の名が四人ぶん並んでいる。父が寝ついた月から、名は二つに減っていた。


「重い荷を一度で受けるには、四人がかりで持たねばなりません。半分にすれば二人で足ります。お宅は若い者を出されたきり、代わりを入れておいでにならない」


 インゲルとエルナ。父の代からこの家にいる二人である。年の寄った家臣は柩なら肩を貸せるが、月に二度の荷を蔵まで運ぶのは、この二人しかいない。


 運びが倍になれば、賃も倍になるはずである。だが帳面のどこにも、その増えた分がない。


「運び賃は」


「元のぶんは、頂戴しております」


「倍になった分は、どこから出ておりますか」


 ベンクト男爵は少し黙った。


「帳面に載らぬものは、帳面の話ではございませんので。……お父上が寝つかれてからこちら、増えたぶんは私が出しております」


「なぜ、そこまで」


「荷札に名を書く欄を作りましたのは、私でございます。二月つづけて名が二つのまま戻ってまいりましたので、あの家で重い荷を受けられる手が二つに減ったのだと気づきました。次の月から荷を半分にいたしました。気づいて放っておくのは、欄を作った者の落度でございます」


 案じていたとも、心にかけていたとも、彼は言わなかった。


「男爵。あの日、なぜ列にお入りくださいました」


「肩が空いておりましたので」


 彼は名義の欄に新しい名を書いた。字は大きく、遅い。それから荷札の束を置く。


「この山を預かって十年、お宅で名を書き、こちらへ戻ってきた札でございます。今日でこの家の荷は終いでございますので、お持ちいたしました」


 十年ぶんの荷札だった。


「男爵は、これからどうなさいます」


「山に残ります。王家の山になっても、掘る者と運ぶ者は同じでございます。月に一度で足りるそうですが、二度に分けて運びます。その帰りに、この家の前を通ります」


 彼は帳面を閉じた。


「……お呼びくだされば、寄ります」


「呼びます」


 男爵は帳面を抱え直し、それから深く頭を下げた。



 人がみな帰った。


 家令が門を閉め、インゲルとエルナが灯を落として回った。三つあった領は北の一つだけになり、その北から鉱山が抜けた。残ったのは木である。だが、出ていくものも同じだけ減っている。店への払いは、この日から一枚も来ない。


 わたくしは荷札の束を膝の上でほどいた。四人の名が並び、途中から二人になる。父が寝ついた月から先は、そればかりである。


 父が最後に何を言おうとしたのかは、いまも分からない。分からないままでよいと思えたのは、この束を膝に載せてからだった。


 そこで泣いた。


 誰も見ていなかった。


 わたくしは荷札を束ね直し、寝台の脇に置いて横になった。明日は起こさなくてよいとインゲルへ言っておいた。


 父が寝ついてからこちら、昼まで眠ったのは初めてだった。



 署名の済んだ西の二領は、鉱山の判を捺した日ののちに王家の手へ移った。店への払いを陛下がいったん払われたあと、殿下は返しの証文にも署名した。実入りは残らず、返しだけが先にある。


 冬に、東の辺境伯が王都の帰りに寄った。


「令嬢の父御に、婚礼の仕度はどこから出るのかと訊かれた。わしは知らんから、殿下に訊けと言った。伯爵はその足で訊いたそうだ。……殿下は、ご自分の名を出された。ほかに出すものが無かったのだろう」


 辺境伯は指の背で卓を一度叩いた。


「その父御はこう言ったそうだ。名しかない方に、娘はやれぬ、と」


 破談だと、どちらの家からも言わなかった。ただ、春に、とされていた日取りが、決まらないままになった。


 殿下の名で返させるにあたって、王家の役が帳面を調べに来た。


「店の申し立ては、十年ぶんが同じ道を通っております。今度の額だけが正しいかを見るには、前のぶんと並べるほかございません」


 家令は帳面を抱えて広間へ入り、卓へ置く前に、後ろへ挟んであった十年ぶんの紙を抜いて懐へ入れた。わたくしは何も言わなかった。あの紙が帳面へ戻ることは、その後もなかった。


 婚約の年から最後の頁まで、入った月と出た月が切れずに繋がっている。抜けていた三年ぶんは、わたくしが家令に一月ずつ訊いて入れたところである。


 役が顔を上げた。


「これは、いかほど請求なさいますか」


「請求ではございません。お訊ねに答えただけでございます」


 役は書き写しを取っていき、公爵家が十年のあいだ殿下の払いを持っていたと王都の表が知ったのは、そのあとである。職人が先に払った材木の代は、陛下が店へ払うぶんに入って戻ったが、屋敷は足場を組んだままになった。


 家令が王都から戻って言った。


「表で、うちの話が出ておりました。……十年、黙って払える家だった、と。旦那様がいちばん言われたくなかったのは、傾いた、でございました。その逆を言われております」


 春になって、南の堰に人が入った。麦が出るのは秋だと、分家からの文にある。


 同じ春、北へ戻る荷が家の前を通った。呼び止めて、茶を出した。男爵は土の色の上着のまま卓に着き、茶が冷めるまで、山の雪の話をしていった。


(了)

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