天の川の特等席
天の川の特等席
七月七日。
雨は降っていなかった。
それだけで、少しだけ嬉しくなる夜だった。
店の窓からは、天の川がよく見える。
小さな喫茶店。
名前はない。
常連だけが、「天の川の特等席」と呼んでいた。
マスターは一人分のコーヒーを淹れる。
扉のベルが鳴った。
「こんばんは。」
女性は毎年同じ席へ座る。
窓際の、一番星空が見える席。
「いつものを。」
「かしこまりました。」
コーヒーが運ばれてくる。
けれど、彼女は口をつけない。
静かにスマートフォンを見つめている。
時計の針が、午後八時を指した。
通知音。
彼女は小さく息をのむ。
今年も届いた。
『七夕だね。
ちゃんとご飯は食べてる?
君は忙しいとすぐ適当に済ませるから心配です。』
思わず笑う。
「相変わらずだなぁ。」
その笑顔を見ながら。
店の扉がもう一度鳴った。
けれど。
振り返る人はいない。
入ってきた男性は、静かに彼女の向かいへ腰を下ろした。
「今年も来られた。」
マスターだけが微笑む。
男性も軽く会釈を返す。
女性は気付かない。
気付けるはずもない。
彼はもう、この世にはいないのだから。
数年前。
病で旅立った。
けれど。
七夕の夜だけは、この店へ帰ってくる。
女性はスマートフォンを読み進める。
『今年、庭の紫陽花は咲いた?
君は青色が好きだったね。』
「咲いたよ。」
ぽつりと呟く。
目の前の男性も、同じように微笑く。
『新しい靴は買えた?
かかとがすり減ってたから気になってた。』
「ちゃんと買った。」
男性は安心したように頷く。
言葉は届かない。
それでも。
答えは届いている気がした。
二人は何も話さない。
コーヒーも冷めていく。
それなのに。
その席だけは、誰よりも温かかった。
まるで長年連れ添った夫婦が、同じ景色を眺めているようだった。
やがて夜も更ける。
女性は最後のメッセージを開く。
画面を見たまま、動かなくなった。
『もし、このメッセージを読んでいるなら。
僕からの予約送信は、今日で最後です。
本当は、もっと送りたかった。
でも、それじゃ君は前へ進めない。
だから今年で終わり。
君が笑って過ごした一年を、僕は毎年うれしく思っていました。
今までありがとう。
幸せになって。』
店内は静かだった。
女性の頬を、一筋の涙が伝う。
何度も画面を見つめる。
そして。
ゆっくりとスマートフォンを伏せた。
誰もいないはずの向かいの席を見る。
涙を拭きながら笑う。
「ありがとう。」
少し間を置いて。
「私、ちゃんと前を向くね。」
マスターは何も言わない。
向かいの席では。
男性が、いつもの優しい笑顔で頷いていた。
「うん。」
その声は届かない。
届かなくてもよかった。
想いはもう。
十分に伝わっていた。
店の窓から。
星明かりが静かに差し込む。
男性の姿が、少しずつ薄れていく。
最後にマスターへ視線を向けた。
「ありがとうございました。」
マスターは静かに頭を下げる。
男性は微笑み。
夜空へ溶けるように消えていった。
☆彡
一年後。
七月七日。
窓際の席は空いていた。
あの女性は来ない。
マスターは少しだけ寂しそうに窓を見る。
それでも、微笑んだ。
「あの席は、卒業できたんですね。」
磨き上げたカップを棚へ戻す。
窓際の席を整える。
今年も天の川はきれいだった。
きっとまた。
誰にも言えない想いを胸に抱えた誰かが、この店の扉を開ける。
その時のために。
マスターは今日も、天の川の特等席を静かに用意して待っている。




