第25話 最初に踏み越えた線
喫茶店を出たあと。
夕方の街は、やけに静かに見えた。
さっきまでの空気が濃すぎたせいで、現実の方が薄く感じる。
「……帰るか」
神代悠真が小さく呟いた、そのとき。
「ちょっと待って」
ひよりの声が、すぐ隣で止めた。
◇
「……どうした」
「少しだけ、いい?」
ひよりは笑っている。
でも、その笑顔はいつもより静かだった。
「……いいけど」
悠真が答えると、ひよりは他の三人の方を見る。
「ごめん、少しだけ借りるね」
◇
沈黙。
だが、誰も止めない。
麗華は目を細め、凛は無言で見て、セレスティアは微笑んでいる。
「……早い者勝ち、ではありませんのよ」
麗華が小さく言う。
「分かってるよ」
ひよりは振り返らずに答えた。
「でも、待ってるだけじゃ意味ないでしょ」
◇
そのまま、ひよりは歩き出す。
悠真も、自然とその後を追った。
◇
少し離れた場所。
人通りの少ない路地。
夕焼けが、少しだけ濃く見える場所。
「……ここでいいかな」
ひよりが足を止める。
◇
「さっきの話さ」
振り向く。
「聞いてて、やっぱり思った」
「何を」
「もう、待ってるだけじゃダメだなって」
◇
まっすぐな視線。
逃げ道はない。
「……ひより」
「うん」
「何する気だ」
分かっていても、聞かずにはいられない。
◇
ひよりは、少しだけ笑った。
「簡単だよ」
一歩、距離を詰める。
「ちゃんと“特別”にする」
◇
「……特別?」
「うん」
頷く。
「他の人と同じじゃないって、分かるように」
◇
その言葉で、理解した。
これは――
踏み込みだ。
◇
「……それ、俺が決めることじゃないのか」
悠真が言う。
「そうだよ」
ひよりはあっさり認める。
「でも」
一歩、さらに近づく。
「きっかけは、こっちが作っていいでしょ?」
◇
距離が近い。
これまでの“近さ”とは違う。
逃げようと思えば逃げられる。
でも――
逃げない。
◇
「……後悔するぞ」
悠真が言う。
「しないよ」
即答だった。
「だって、もう決めたから」
◇
「何を」
「取りに行くって」
静かな声。
でも、確定している。
◇
そして。
ひよりは、そっと手を伸ばした。
触れる。
袖を、軽く掴むだけ。
それだけなのに――
距離の意味が変わる。
◇
「ねえ」
「……なに」
「今、どう思ってる?」
◇
問い。
だが、逃げられない。
「……分からない」
正直に答える。
◇
「そっか」
ひよりは笑う。
でも、手は離さない。
「じゃあ、それでいい」
◇
「いいのか?」
「うん」
頷く。
「分からないなら、分かるまで一緒にいればいい」
◇
その言葉は、シンプルだった。
でも――
一番重い。
◇
「……ほんと、面倒だな」
悠真が呟く。
「知ってる」
ひよりは笑う。
「でもさ」
一歩、さらに距離を詰める。
◇
「これで、少しは違うでしょ?」
◇
夕焼けの中。
その距離は、もう“幼馴染”ではなかった。
◇
一方。
◇
「……なるほど」
少し離れた場所で、麗華が小さく呟いた。
「先に踏みましたわね」
「うん」
凛が短く答える。
「一番分かりやすい形で」
◇
「焦ります?」
セレスティアが聞く。
「……いいえ」
麗華は首を振る。
だが。
「ただ、無視はできませんわね」
◇
「当然」
凛も言う。
「一段階、上に行った」
◇
セレスティアは、静かに笑った。
「いい流れね」
「どこがですの」
「崩れ始めたからよ」
◇
「……本当に性格悪いですわね」
「褒め言葉として受け取るわ」
◇
夕焼けの光の中。
一人が踏み出した。
それは、小さな一歩。
でも――
確実に、均衡を崩す一歩だった。
◇
栗原ひよりは、最初に“特別”の線を引いた。




