第9話
「……ふーん。話の辻褄は合ってるわね」
そう言ったタイミングでちょうど校門に着き、二人は別々の授業へ向かった。専門科目が
違うのが救いだった。悟は胸を撫で下ろし、今日は何もないだろうと高をくくった。
だが、放課後。
同じ教室に戻り、いつものように帰路についた二人が公園に差しかかったとき――美奈
代はぴたりと足を止めた。
「で、つづき。あるでしょ?」
蛇は再び牙をむいた。
悟は、もう逃げられないと悟った。
日記は手元にない。細かく描写する必要はない。ただ、真実だけを伝えよう。
悟と美奈代は、公園のベンチに腰掛けた。
風はまだ冷たいのに、ベンチの金属はどこか温かった。
悟と美奈代は横並びに座り、校舎から遠ざかっていく生徒たちのざわめきだけが微かに
聞こえていた。
しばらく沈黙が続いたのち、悟は小さく息を吐いて前を向いたまま言った。
「……日記のことだけど。手元にないから正確には伝えられないけど覚えてる内容を伝え
る。」
その言葉に美奈代は自分を守ろうとしている声だと悟った。
「ただ……かおるは、誰にも言えない苦しみを、ずっと……ずっと一人で抱えてた。限界を
越えるくらいに。」
言葉を選びながら話す悟の拳は、膝の上で少し震えていた。
「人間ってね、自分じゃ受け止められない痛みが続くと……違う自分を作ってしまうこと
があるらしい。自分とは別の“心”を。」
美奈代は一瞬、息を呑んだ。
「それって……」
「多重人格。自分を守るため……痛みを押し付けるために、生まれてしまった別人格だって。
かおるは……自分を守るために、意図せず別の人格、かすみを生み出したんだ。」
美奈代の目が大きく見開かれたまま、ゆっくりと潤んでいく。悟は続ける。
「吉川刑事も言ってた。普通なら、別人格は本人に気づかれず一生を終えると。でも、かお
るの場合は……最悪なことに日記が二つの人格を繋いでしまったらしい。」
その言葉は、風より冷たく、美奈代の胸に落ちた。
「かおるは何度も何度もかすみに謝っていた。そして演劇が終わるまで待ってとかすみに
お願いし命を絶った。
「かおるはもう一人の人格、かすみを苦しみから解放するために自分を犠牲にした。」
悟は唇を噛む。言葉が震える。
美奈代は泣いていた。声も出さず、必死にこぼれる涙を手で押さえている。
悟はその横顔を見ることができなかった。前だけを見つめたまま、静かに言った。
美奈代は震える声で、かすかに答えた。
「……ありがとう。教えてくれて。」
その言葉の意味は、“教えてくれたこと”だけでなく、
“教えすぎなかったこと”への感謝だった。
冬は終わりへ向かっているはずなのに、空はやけに青く澄んでいた。
時は三月。柔らかい春風が、校門の桜のつぼみを揺らしていた。
悟と美奈代は、いつもと変わらぬ並びで歩いていた。
「いよいよ明日だね、かおるの追悼劇」
美奈代は小さく息を吸いながら言った。「昨日、リハーサル見たんでしょ? シナリオライ
ターとして」
「ああ」
「……出来はどうだったの?」
「後輩たち、すごく頑張ってたよ。泣きながら演技してる子もいた。かおるは、みんなに愛
されていたんだなって思った」
悟がそう言うと、美奈代はそっと空を見上げた。瞬間、瞳に涙があふれた。
「……もう、朝から泣かさないでよね」
「ごめん、ごめん」
二人は微笑み、歩みを進めた。
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追悼劇当日
講堂には、生徒と教職員だけでなく、テレビ局のカメラも並んでいた。
「ねえ、マスコミの人たちじゃない? どうして?」
「かおるは事件の被害者でもある。ニュースになるかもな」
「えっ? 六時のニュースかな?」
(本当にテレビ好きだな、美奈代は……)
悟は心の中で苦笑し、それでもそんな好奇心を向けられる彼女を誇らしく思った。
舞台は静かに始まり、やがてクライマックスへ。
病でベッドに横たわる少女が、息を引き取る──会場中にすすり泣きが広がった。
美奈代も隣で人目もはばからず泣きじゃくっていた。
暗転。
(――ここで終わりじゃない)
悟だけが知る、秘密のラストシーン。
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暗闇に、小鳥のさえずり。小川のせせらぎ。
光が少しずつ広がり、少女はハンモックの上で目を覚ます。顔に落ちた雫に驚き、あたり
を見渡す。
「……森?」
小動物が近寄り、少女は優しく撫でた。
やがて、森の向こうに青い空気が感じられ、少女は一歩踏み出す。
――視界が開かれる。
羊の群れが丘に散り、透明な湖がかがやき、小さな家々が遠くに見える。
少女は声を漏らした。
「……きれい」
その瞬間――
「待ってよ、レア!」
「こっちよ、クリス!」
若い男女が、駆け抜けていく。笑い声だけを残して。
少女はその姿に笑みをこぼした。
後ろから、聞き覚えのある声。
「かおる!」
「……お母さん!」
抱きしめた腕に涙が染みる。
母も息を呑み、その景色を見た。
「ここは……?」
「楽園よ」
少女は笑った。
「行こう、お母さん」
――完。
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舞台のあと
幕が下りても、美奈代の涙は止まらなかった。
「悟……かおるを助けてあげたね。ありがとう」
悟も静かに涙をぬぐった。
少しして、美奈代は顔を上げると真顔になり、ぽつりと聞いた。
「ねえ、クリスとレア……あのシーン、いる?」
悟は笑わず、ただ黙って前を見ていた。
かおるの追悼劇が無事終わり二人はあの時のあの夕日の教室に戻った。
劇の後のこの場所からすべては始まったんだ。
すると彼の携帯が震えた。画面には 吉川刑事 の文字。
> ――悟くん、吉川です。
私は実家の京都に異動になりました。
残念ながら、かおるさんの追悼劇を見ることはできませんでしたが、無事に終わりました
か?
君たちから、白黒つけるだけが刑事の仕事じゃないことを学びました。
美奈代さんにもよろしく。
それから……荒川文庫大賞受賞、おめでとう。
これからも頑張ってください。
横から画面を覗いた美奈代が、眉を吊り上げた。
「……荒川文庫大賞、受賞? なにそれ」
「い、いや、その……まだわからなかったから、美奈代には……」
「やるじゃない、悟! おめでとう!すごいよ! あの賞、一年に数人しか取れないんだよ?
だから大学受けなかったんだね。本気で作家になるつもりだったんだ……」
美奈代は、ふっと微笑んだ。
「……見直したよ、悟」
悟は胸の力が抜け、椅子に座り込むと、美奈代も静かに隣に座った。
しばしの沈黙——
悟は小さく息を吸った。
「……かおるのこと、複雑な気持ちはあるけど、ひとまず解決した。
でも、僕にはもうひとつ、解決しないといけないことがある」
「え? なに?」
「美奈代……僕には君が必要だ。ずっと、一緒にいてほしい」
美奈代の瞳が、大粒の涙で満ちた。
「……うん」
彼女は静かに悟の胸に身を寄せ、悟はそっと抱きしめる。
西の空には夕陽が差し込み、二人の輪郭をやさしい光で染めた。
そして悟は、涙の跡の残る美奈代の顔をまっすぐ見つめ言った。
「僕はここから横浜の出版社に通う。美奈代は東京の大学へ行くんだよね。離れても……ま
た会えるよね」
「え? 私、実家から通うよ」
「えっ?」
「東京なんてすぐじゃん」
悟は思わず吹き出した。
「そっか……そうだよな」
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春になったある日。
「おはよう」
「おはよう」
それは、何も変わらない朝の挨拶。
けれど二人はもう、昨日までの二人ではなかった。
――完。




