第7話
「……ん?」
数行を読んだ瞬間、胸がざわついた。
視界がぐらつき、ページをめくる手が震えた。
「よしさん、帰ってからゆっくり読めば――」
誰かが声をかけた。しかし、その声はもう耳に届いていない。
額から汗がじわりと滲み、背筋に冷たい震えが走った。
――恐怖、なのか。
次の文字を読む。
その先の地獄を目で追うほどに、心が締め付けられる。
これは日記という形を借りた、叫びであり、証拠であり、悲鳴だった。
やっと搾り出された言葉は、掠れ、震えていた。
「……僕は。僕は……今まで、こんな恐ろしい日記を読んだことはない。
いや、物語でも見たことがない。
こんなことが……現実に……あるのか………」
吉川刑事は拳を握りしめた。
震える指が白くなるほど、強く、強く。
そのまま、立ち尽くした。
机の引き出しから見つかった日記を読み終えると、吉川刑事はその場に崩れ落ちた。
床に手をついたまま、肩を震わせて、声にならない息を吐く。
「……こんなものが、この世に……」
震える手でページを閉じると、涙がぽたり、日記の表紙に落ちた。
その後の捜査本部で、署長席の隣に置かれた資料が静かに開かれていた。
一課長の柊が、無言でページを繰っていく。頰の筋肉が痙攣し、やがて椅子をゆっくり回
転させ、背を向けた。涙を隠すためだった。
「……悲惨だな。こんな闇が、この街の中にあったとは」
長い沈黙のあと、背中を向けたまま柊が言った。
「吉川。……この日記、例の二人に見せるつもりか?」
吉川は答えられず、拳を握りしめたまま、しばらく動かなかった。
やがて搾り出すように言う。
「……迷っています。
あの子たちが、知らなくてもいい苦しみも……世の中には、あるんじゃないかと」
そこまで言うと声が途切れ、涙が頬を伝った。
翌日の夜。
居間のテレビで、ニュース番組に急な速報テロップが流れた。
《著名画家・二ノ宮構造氏 妻および元執事殺害の疑いで逮捕》
「……うそ……」
美奈代の喉が締めつけられた。息が浅くなる。
かおるのお母さんは――殺されていた。
震える手で悟に電話をかけたがつながらない。
ただ、短く「ニュース見て」とだけメールを送った。
震えを押さえるためにリモコンを握り直し、別の局へと切り替える。
画面には、二ノ宮邸の前から中継するアナウンサーの姿が映った。
「二ノ宮構造氏の妻・君枝さんは数年前より行方不明となっており、海外へ渡航後、消息が
途絶えていました。君枝さんの母親が鶴見台署へ捜索願を出しておりましたが、このたび不
法就労ビザの偽造ブローカーが逮捕されたことにより、君枝さん名義の偽造パスポートが
見つかり、二ノ宮構造氏の依頼であることが判明しました」
スタジオのキャスターが、険しい表情で続ける。
「自宅を家宅捜索した結果、庭から白骨化した二体の遺体が発見されました。DNA 鑑定に
より、君枝さんと二ノ宮家に仕えていた元執事と判明。屋内からも二人の血痕が見つかり、
構造氏は取り調べの中で殺害と遺棄を認めました」
「……埋められて……たの?」
美奈代の声が震えた。指先が冷え、体が強張る。
画面の向こうで、記者が続けた。
「また、先日自死された娘・二ノ宮かおるさんの部屋から日記が発見されており、鶴見台署
はその日記を重要な証拠となる可能性があるとして慎重に調べを進めています」
その言葉が胸に刺さる。
日記――かおるの最後の声。
美奈代は両手で口を押さえ、静かに泣いた。
その夕刻、午後六時のニュースが流れているころ──悟は、鶴見台署の面会室で吉川刑事と
向き合っていた。テレビで報道されれば、間違いなく美奈代が連絡してくる。悟はそれをわ
かっていた。
吉川は机に書類を広げ、静かに口を開いた。
「構造が……君枝さんと元執事を殺害しました。そして、DNA 鑑定も終わっています。か
おるさんの本当の両親は、あの二人です」
淡々と告げられた事実に、悟は息をのんだ。やはり。胸の奥でくすぶっていた違和感が、確
信に変わっただけだった。
「刑事さん、最初に……『ウロタサチコの裏取り』をしたいと。それってもう確認したと、
前に言いましたよね」
「うん、そうだね。もちろん、三人の関係から見れば──構造から虐待を受け、それが自殺
の引き金になったと考えるのが自然だ。悟くんも、そう思うだろう?」
「……はい。そうだと思います」
「ただね、状況はもっと複雑だった。……それは、この日記を読めばわかる」
吉川は分厚い封筒を指先で押した。封筒の中身──それが、すべてを壊す。
「そんなに、怖い内容なんですか?」
悟の問いに、吉川は瞬きを一つし、静かに答えた。
「……ああ。正直、見せるかどうか迷っている。君たちに、知らせないままにしたほうがい
いのかもしれないほどだ」
悟は視線を落とし、考えた。美奈代の顔が浮かぶ。見たいと言うに決まっている。でも……。
「まず、僕が読みます。かおるとは……ずっと関わってきた。知りたいです」
吉川は一瞬だけ悟の眼を見つめ、ゆっくりと日記を差し出した。
「わかった」
悟は深く息を吸い、ページを開いた。
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―日記―
今日、お父さんに褒められた。
「良い絵を描いた」って。
才能がある。やっぱり私の子だと。本当に嬉しい。
絵の名前はなんだ?って聞かれて
『小麦色のブルー』って答えた。
夏でよく焼けた肌と、海の青を対比させた。
でも、この少女の心は、なぜかブルー。
お父さんは「なるほど」と喜んで、夜は外食に出かけた。
お肉がとても美味しくて、とろけそうだった。
でも──お母さんのオムライスのほうが好き。
お母さんはいないけど、私は寂しくない。
だって、海外に音楽留学してるんだもの。
夢を追いかけられる大人って、本当にすごい──ふふっ。
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悟は息を止めた。
ごく普通の日記。けれど──ここに書かれている「母親」は、すでにこの世にいない。
悟は次のページをめくった。
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よかったね。褒められて。
才能たっぷりだもんね。うらやましいよ。
ご馳走も食べられたなんて、最高じゃない?
──でもね。お母さんのオムライスのほうが良いなんて
そんな贅沢、言ったらダメだよ。
おやすみ。
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「誰だ……?」悟はつぶやいた。
姉?友達?聞いたこともない。交換日記……?
続くページに、答えは書かれていた。
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あなた誰?
怖い。どこから入ってきたの?
なんで私の日記、勝手に見てるの?
お父さんに言う……!
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悟は手を震わせた。自室に侵入されていると怯える文面。完全に“第三者”を想定して書かれ
ている。
しかし、次のページが、世界を反転させた。




