第6話
――ついに。
事件が動いた。
そう思った矢先。
悟がぽつりと呟いた。
「あの構造さん……かおると、似てないです。顔も、雰囲気も……親子らしく感じませんで
した」
美奈代も、はっと息を飲んだ。
そう言われれば、確かに。
「それに、構造さんから、繊細さを感じなかった。あんな絵、描ける人には……」
言い終えた瞬間、吉川は立ち上がった。
「ありがとうございました。十分です。ここは私が出しておきます。ごゆっくり」
そう言うと、嵐のように席を離れ、扉の向こうに消えた。
「……なんだよ、あの刑事。人の話否定したり聞いたりして、用が済んだら帰るとか。なぁ、
美奈代」
悟が文句を言いながら席を移ったが、美奈代は静かに、深く沈んでいた。
「もしかして……」
「え?」
「悟が言った通り……構造さんとかおるは、本当の親子じゃない」
悟は即座に否定した。
「いやいや! 適当に言っただけだよ!」
「だとしても……それが自殺の動機になる? それとも、殺されたってこと? どうしても、
しっくり来ない……」
「他殺は無理だって。遺書も誰かに書いてもらっただけなら……」
悟はそう言いながらも、自分の心がざわついているのを隠しきれなかった。
どう考えても、何かがおかしい。
だが、その“何か”にまだ届かない。
冬の風が窓を揺らした。
喫茶店の時計が、静かに秒を刻んでいた。
――事件は終わっていない。
二人はそれだけを確信しながら、席を立った。
あれから特に動きもないまま、季節は二月へと移っていた。
冬休みの余韻も消え、卒業式までのカウントダウンが始まっている。
美奈代は東京の クリス女子学園大学 に進学が決まっていた。横浜の自宅から通える、ほ
どよい距離。しかし隣を歩く悟には、いっこうに進路が見えてこない。
「どうなるんだろうね?」
「かおるのことか?」
「うん、それもだけど…悟。あんたのことだよ」
「え?俺?」
「もうすぐ卒業でしょ。大学どこも受けてないし…どうするつもり?」
悟は頭を掻きながら、曖昧に笑った。
「え〜っと…とりあえず、しばらくアルバイトでも…」
「……はああ?」
美奈代はわざと大きくため息をつき、悟をにらんだ。悟は困ったように笑うしかない。美
奈代には、進路よりも悟に もう一つ「はっきりさせてほしいこと」 があったが、それはま
だ口にできなかった。
二人はいつものように、家の近くで別れた。
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別の場所。そのころ。
「はい、捜査一課、吉川です」
受話器越しに、聞き慣れた声が弾んだ。
『よしやん!いい知らせだ。ちょっと来てくれ!』
吉川は無言で電話を切り、組織犯罪対策課へ歩き出した。
「おう、よしやん。例の 不法就労の偽造パスポート のブローカーな、名前の中にこんな人
物がいた」
刑事は用紙を差し出す。
──《二ノ宮君枝》
「……!」
「お前が追ってたの、ずっと覚えてたからさ。住所も、静岡のあの豪邸の住所だ」
「依頼者は?」
「二ノ宮構造 だよ」
吉川は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……友達は持つもんだな。ありがとう」
それだけ言うと、吉川は一課へ戻った。
これで、構造の家に 捜索令状を請求できる。
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家宅捜索、開始。
行方不明の妻を「渡米したように見せかけた」偽造パスポートの証拠。
それによって 殺害の可能性 が浮上する。
令状が下り、警察犬が敷地に投入された。
その間、構造本人は既に鶴見台署で身柄を押さえられ、偽造パスポート依頼の容疑で取り調
べを受けている。
豪邸の内部も徹底的に調べられ、床板や壁から反応が出た。
「血痕、発見しました! 人のものか鑑定に回します!」
さらに、小さなアクセサリーが見つかった。
「ピアス……女性物ですね。年代、確認します」
だが、決定打は外にあった。
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「よしさん!警察犬がここをしきりに示してます!」
庭の端。大きな木の根元。
掘っていくと──冷たい土の中から、それは姿を現した。
白骨化した腕。
「……遺体だ。もう一体、あります!」
二つの遺体。
おそらく 母・君枝と、前の執事。
鑑識、立ち会い、周囲は凍りついた空気に包まれた。
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謎の部屋へ……
吉川は家の中へ戻りながら、思い出していた。
──「迷路みたいな廊下の先に、小窓しかない部屋に閉じ込められた」
悟と美奈代の証言だ。
渡り廊下。曲がり角。長い廊下。突き当たり。
吉川はゆっくりドアノブに手をかけた。
カチ…
扉は重く開いた。
窓のない密室に、小さな机。鍵のかかった引き出し。
吉川の胸に冷たい戦慄が走った。
──この部屋は、「何をするため」にあったのか。
物置にしか見えなかった。
急ごしらえの客室と言われればそうかもしれないが、どう見ても無理やり整えた痕跡がそ
こかしこに漂っている。バランスの悪いソファーの配置、場違いな小さなテーブル。吉川刑
事は周囲に目を走らせ、机を両手で押してみた。
動かした瞬間、壁に家具の跡がはっきり残った。
――この机は、以前からここにあった。
ソファをどけると床が露わになり、深く削れた傷だらけの木目が浮かんだ。その隙間を、赤
黒いシミが縫っていた。
「…血痕か? 鑑識、こっちも調べてくれ」
鑑識員が駆け寄る間、吉川は部屋奥の小窓へ向かった。
顔がようやく入るほどの狭い窓。強引に押し上げ、恐る恐る覗き込むと――そこに広がって
いたのは、断崖絶壁と荒れ狂う海だった。
風が一気に吹き込み、頬を刺す。
表側の庭からは想像もできない。裏側から見れば、この部屋はまるで外界から切り離された
隔離牢そのものだった。
──監禁部屋。
沖田と佐々木が恐怖を感じたのも当然だ。
ここが、二ノ宮かおるの“部屋”だったことは間違いない。勉強などさせられていたというよ
り、軟禁生活と呼ぶべきか。
床の傷。血痕らしきシミ。
この部屋で、何が起きていたのか。
吉川は机の引き出しをひとつずつ開けていった。上段、中段……何も入っていない。最後の
引き出しに手をかける。
――鍵がかかっている。
「バールを頼む」
工具を受け取ると、引き出しの縁に差し込み、一気にこじ開けた。
鋭い音が鳴り、木の破片が散る。その奥から、厚手のノートが一冊、ゆっくりと姿を現した。
「日記…?」
薄い埃を払い、最初のページをめくる。上部には日付。書かれている文字は幼いが丁寧で、
間違いなく少女の筆跡だった。
――今日、お父さんに褒められた。「良い絵を描いた」って。
才能がある。やっぱり私の子だと。本当に嬉しい。
絵の名前はなんだ?って。
『小麦色とブルー』
小麦色とブルー? どこかで聞いた気がする。歌のタイトル…?
吉川の脳裏をかすめたが、思い出せなかった。ページをめくる。
――夏でよく焼けた肌と、海の青を対比させている。
でもこの少女の心は、なぜかブルー。
父は「なるほど」と喜び、夜は外食に出かけた。
肉がとても美味しくて、とろけそうだった。
でも、お母さんのオムライスの方が好き。
お母さんはいないけれど、私は寂しくない。
だって海外で音楽留学してるんだもの。
夢を追いかけられる大人って、本当にすごいと思う──ふふっ。
平穏な日常を綴る、何の変哲もない日記。
だが吉川は、その平穏の裏に潜む違和感を嗅ぎ取った。
次のページを、何気なくめくる。
――そして、吉川は息を呑んだ。




