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コーヒーとトースト

「ごめんなさい、思ったより長引いちゃって。」そう言うと彼女は嬉しそうに微笑むだけで何も言わずに、自分の座っている隣の席をトントンと叩いた。察した俺は真っ先に席に座った。


僅かな沈黙をマスターが破った。「何も食わねぇでお前が来るのずっと待ってたんだぞ?」驚いたけど彼女らしかった。コーヒーくらい気にせずに飲めばいいものを、健気にずっと待ってくれていた。「ずっと待ってたんでお腹空いちゃいました。コーヒー飲みたいです。」そう言った直後にマスターが微糖とブラックのコーヒーをサッと出した。


「ほら早く飲みな。あと、これは俺からのサービス。」マスターは後ろにあるトースターから、ピザトーストを出してくれた。彼女はさらに目を輝かかせた。「美味しそう、篠塚さん、半分こしましょ。」そう言って彼女は出来たての熱いピザトーストを半分にちぎった。


2等分にするなり、彼女はトーストにかぶりついた。その姿は小動物のようで可愛らしかった。彼女は両手でトーストを口に運びながら、ふと首を傾げた。「篠塚さん、今日顔お疲れですね…。」気付かぬうちに心配をかけてしまっていた。


「…え?やっぱり分かりますか?」気付けば溜まっていた愚痴がこぼれてしまっていた。「やっぱ最近キツいんですよね。年末に向けて収録詰まってて局動き回らなくちゃいけなくて。」困り果てて思わず笑みがこぼれた気がした。


言ってから、しまったと思った。彼女はコーヒーのカップを両手で包みながら心配そうに聞いていた。不思議と安心感が込み上げてきた。「篠塚さん、頑張りすぎてますよ。私、分かります。」


その言葉が特効薬のように心と身体に沁みた。身体の心配をせずにがむしゃらに働いたこの数年間で身体に気を遣われることが記憶に無かった。正確には何度かあったのかもしれないけど、こんなに記憶に残るほど心を打たれたのは初めてだった。俺が生きていくには彼女が居ないといけないんじゃないか、と思ってしまった。


その時、彼女が小さく咳をした。噎せたような咳ではなく、病的なものだと分かるような咳だった。「…ごめんなさい、ちょっと、喉が。」「大丈夫ですか?あまり無理なさらないでください。」「大丈夫です。ちょっとむせちゃって。」そう笑う彼女の顔は、どこか赤くて少しだけ弱々しく感じた。


いつものように会話を楽しんだが、やはりいつもより万全には思えなかった。特徴的な目元に力がなく、なんだか心配になってしまった。彼女がお手洗いに行った時、「なぁ、多分お嬢ちゃん体調悪ぃみてぇだぞ。」とマスターも気づいているようだった。「もしかしてさ、来た時に寝てたのもそういうことかな?」「んー、多分そうだろうな。俺もさっき暖房つけたんだよ。あの子ずっとコート着て寒そうにしてたからよ。」俺はきっと彼女に無理をさせていたのかもしれない。本能的にそう思った。


「なぁマスター、ちょっと家戻っていいか?車出したくて。」この時点で俺は、彼女を駅まで行かせることも、車を出すために家の方まで行くことも眼中になかった。「あぁ、もちろんだ。あの子には説明しておくから、早く行ってこい。」俺はコーヒーのお代だけ置いて店を飛び出た。


自分が分からなかった。本来走って車を取りに行くなんて絶対したくない。いつまでも面倒臭がりで、自分のことを優先して生きていたのに、なんで俺は車を取りに走って行ってるんだろう。前みたいに歩いて行っても良かったのに。なのに、彼女を前にすると全部そのことを忘れる。その時、前に溢れ出た言葉を思い出した。あの時は嬉しさで気が動転してたからだと思ってた。けど、今確信した。


俺、あの人が好きだ。


やっとこさ家に着いて、車に飛び乗った。夜で人が少ないことを理由にいつもよりかっ飛ばした。この数分しか離れていないけど、早くあの人に会いたい。今すぐに顔を見たい。そう思ってるうちに店にまた戻った。俺が居ないうちに体調が悪化してたらどうしよう。さらにぐったりしていたらどうしようと思って真っ先にドアを開けた。


すると引き戸の目の前に彼女が居た。必死だった俺は腰が抜けそうになるほど驚いた。その姿に彼女は笑った。「ふふふ、ごめんなさい。早く来ないかなぁって待ってたんです。」体調が悪化している様子はなさそうで一安心した。その様子を見たマスターが笑って、「お前たち、体調気をつけるんだぞー。」と言って俺達は店を出た。


車に乗り込んでゆっくりと走り出した。さっきまでの速さが嘘のようにそれはまたゆっくりと。赤信号に当たって車を停めた。会話が一旦途切れて沈黙が続いた。「アリンさん、俺待っててくれて嬉しかったです

。」最近の俺は素直に言葉に出してしまう。今のも例外じゃなかった。


「私もです。嬉しかったですよ。車で迎えに来てくれて。」車内が幸せに包まれた。この先、もし一緒に居れることがあればこんな日々が続くのかと思うと、もう他に何も要らなかった。と、そう思っているとハンドルから離した左手に彼女の手が触れた。最初は電撃が走ったように驚いた。顔には出さなかったつもりだ。


だんだんと指先が俺の指先に絡まるように触れ合い、気がつけば彼女の手を握りしめていた。彼女の体温が火傷しそうなほどに伝わってきた。俺は今、好きな人と手を繋いでいる。それ以外考えられなかった。なにか話すことも、ADとアーティストであるということもどうでもよくなった。


そこからは何も話さずにただずっとお互いの手を握っていた。彼女の顔をちらっと見ると、恥じらいのある笑顔をしていた。思わず心臓の鼓動が早まった。彼女の家の近くに着くと、彼女は少し名残惜しそうに手を離した。そして、「今度、2人とも休みの日に遊びに行きたいです。」と言った。


「じゃあ、来週の水曜日とかどうですか?」「はい、大丈夫です。楽しみにしてますね。おやすみなさい。」と言って車を降りた。


左手が寂しさを覚えた瞬間だった。

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