エスプレッソ
運転が終わって彼女の家の近くに着いた頃には、彼女はぐっすりと寝ていた。「アリンさん、着きましたよ。」彼女の肩を軽く揺すってそう言うと、彼女は目を覚まして伸びをした。「ありがとうございます。すっかり寝ちゃいました。」
彼女は膝に乗せたカバンを掛けて車を出る支度をした。楽しかったという思いが込み上げると同時に、この時間が終わって欲しくないという思いが勝るように強くなった。「今日すっごく楽しかったです。帰り道お気をつけくださいね。」「はい、ありがとうございます。おやすみなさい。」
車のドアを開けて彼女が外に出た時、「あのっ…!」とまた思わずに声が出た。振り返った彼女はきょとんという顔で首を傾げていた。「また行きましょ…?いつでも声掛けてください。」彼女は笑って「はい!また誘いますね!」と言って手を振って家へと帰っていった。あの笑顔はいつもの笑顔と少し違って、安心感や期待を含んだような笑顔だった。彼女のまだ見た事ない表情に心動かされた気がした。
帰りの車内は余韻が果てしなかった。暗がりが広がる帰り道も目には見えない街明かりが光り輝いているように見えた。仕事以外でも彼女と会えるきっかけが出来たと思うだけでこれからの毎日が楽しみになった。
翌日からも生放送や収録が続いたり、早めに年末に向けての仕事も増えてきて忙しさは収まることを知らないように俺に襲いかかってきた。彼女も忙しそうで、テレビで見ない日は無く、連絡する余裕も無いようだった。けれどテレビに出演する彼女を見るだけであの日の情景を反芻して激務を乗り越えられた。
そして火曜日になると、ラジオの生放送で彼女のグループが来るのでその日は朝から元気が出てきた。と言っても、職場でガッツリ話すのは流石にまずいと思い軽く目を合わせるくらいしかできなかった。けれどそれだけで十分すぎるほどに嬉しかった。
長い収録が終わって、残りの作業も終わらせてロビーの自販機に向かった。今日はエスプレッソの気分だった。コーヒーを手にして燃料タンクに注ぎ込むように飲み干した。すると同じタイミングに彼女達がエレベーターから降りてきて帰るところだった。思わず目で追っていたら、流石のオーラを漂わせながら颯爽と出口まで歩いて行った。
すると1番後ろを歩く彼女がこちらに気づいて嬉しそうに小さく手を振った。心臓が口から飛び出そうなほど嬉しかったが、職場ということを考えて小さく手を振り返した。その日は家に帰り、薄手のコートを脱いで乱雑にソファに投げ捨てた。コーヒーで誤魔化していた疲労感がどっと重みになって眠気が押し寄せてきた。
風呂に入ったり、夕飯を食べたりとやろうとしてることは沢山あるのにソファに根が生えたように動けなかった。携帯を片手に瞼の重厚感を感じながら眠りへの一途を辿ろうとしていた。視界が暗く染まる直前に携帯が揺れた。
瞼をこじ開けて携帯を見ると彼女からの電話だった。先程まで生えていた根は絶えて、俺にもたれかかっていた重さを取っ払っえた感覚があった。少しの緊張感を携えながら通話ボタンを押した。
「もしもし、お疲れ様です。」できるだけ疲れを感じさせないような声色で電話に出た。「お疲れ様です。お時間大丈夫でしたか?」彼女の声がさらに疲れを忘れさせた。「大丈夫ですよ。こんな時間にどうしました?」「あの、明日の夜大丈夫でしたらまた一緒に行ってほしいです。」
この言葉が何よりも嬉しいことはもはや言うまでもなかった。「はい、大丈夫ですよ。俺も行きたいです。」素直に今の気持ちを伝えるように言った。「ほんとですか!じゃあ明日待ってますね。」彼女の声がより一層高まったのが分かった。その約束をすると電話が終わった。
翌日、職場で早めに仕事を終わらせようと取り掛かっていた。自分の担当のする番組の収録が続いていたが、滞りなく何もトラブルも起こらずに終わった。番組のメールをある程度確認すれば今日の仕事は終わりだった。時刻は19時を回り、帰り支度をしようとしていると上司の笹山さんが来た。「篠塚ごめん、ちょっと大丈夫?」「あ、はい。お疲れ様です。どうなさいました?」笹山さんの顔色が少し悪く、覇気がなかった。
「この後俺さ、機材のセッティングあるんだけどちょっとどうしても頭が痛くてさ…」「えぇ、大丈夫ですか?」「いや…ちょっとすまないけど代わりに行ってくれないか…?」笹山さんは嘘をつくような人でも無いし、変わることに関して疑念や後ろめたさは無かった。
けれどどうしても彼女との約束が脳をよぎる。誘ってくれと言っておいて頂いた誘いを断る羽目になりそうで、かなり躊躇った。だが見過ごしにすることはもっと出来なかったため了承した。スタジオへの移動中マスターと彼女に電話を入れた。マスターは快く了解してくれて、彼女には「大丈夫ですよ。無理なさらないでください。待ってますから。」と言ってくれて先に喫茶店で待ってもらうことになった。
俺はパパっと機材のセッティングを終わらせて、一刻も早く収録が終わるのを待っていた。疲れで重くなった瞼をどうにかこじ開けながら、芸人のラジオ収録を聞いていた。
収録が終わって、機材の撤収をセッティングよりも倍くらいの速さで終わらせた。中途半端に残ったメールを整理して、速やかに局を出た。こういう時に限ってすぐに来ない電車に苛立ちを覚えながら次の電車が来るのを待っていた。彼女に連絡をすると、「分かりました。私もはもうすぐ喫茶店に着くので来るの待っていますね。」と返ってきた。
電車で抑えられない興奮を携えて駅への到着を待った。こんなにも彼女に魅了されているのかと改めて再認識させられた。ぼーっとしていればすぐに駅に着くはずなのに今日は比べ物にならないくらい長く感じられた。
ようやく駅に着き、電車を飛び降りると、周りの喧騒を切るように喫茶店までの道を走った。丸1日仕事をしたとは思えぬ速度で走る自分に驚きながらも足を動かした。
店のドアを少し強めに引いて店に転がり込むように入店した。「お待たせしましたっ……」と店に入るとマスターが手招きしている前に机に突っ伏して眠っている彼女が居た。俺はあの日の車内のように優しく彼女を起こすと、にんまりとした笑顔で「待ってました。」と告げた。俺の顔が一気に笑顔になるのがわかった。




