ブラックと微糖
「あの、篠塚さん。そこの喫茶店のコーヒー…あたし、一緒に飲みに行きたいです。」「…え?、俺と?」思わずその声が溢れ出た。彼女はコーヒーを両手で持ちながら少しモジモジしてこちらを見ていた。
俺はスタッフの人に少し待ってくれと了承を得てから、彼女の元に戻った。「あの、アリンさんのお時間がある時ならいつでも大丈夫ですよ。俺で良ければ。」困惑しながらも言葉をどうにか紡いだ。
「じゃあ、今日のライブが終わったあと…篠塚さんお時間ありますか…?」彼女がいつも見せない不安そうな姿は新鮮でどこか儚げがあった。承諾すると彼女は目の輝きを取り戻して、満天の笑顔を見せた。彼女はズボンのポケットからスマホを出すなり、「そしたら、私いったん帰ってから行くので…連絡先、教えてほしいです。」
俺は流れに任せて教えようとしたが、冷静になって考えた。いくら彼女からのお願いでも、局員がデビューしたてのアーティストと連絡先を交換していいのか。決して不純な理由でも、業界のタブーに踏み入れようと思って交換する訳では無いが、一般的に考えるとやはり良いとは言えない。
そう躊躇ってふと彼女の方を見ると俺の連絡先を待つ目でこちらを見ていた。その瞬間に冷静になった俺の考えは簡単に消えて、連絡先を教えてしまった。どうしようと思っていたらスタッフに呼ばれていたことを思い出し、話を終えると彼女と別れた。
ライブが始まり、sweet orbitのステージを見た。デビューしてまだ2年も満たないということを忘れるほどの圧巻のパフォーマンスだった。ステージ上の彼女はいつ見ても輝いていて、先程まで俺と話していたのが信じられないほど遠い人物のように見えた。
ライブが終わり撤収作業が始まると、会場裏は一気に慌ただしくなった。俺は仕事をこなしながらも、どこか上の空でケーブル類を整理していた。彼女の「一緒に行きたい」という言葉が胸の中で重低音のように反響していた。
終演から20分ほど経って仕事が一段落つくと、スマホを確認した。画面には見慣れない名前からの通知が灯っていた。
『アリンです。今帰る用意してます。篠塚さん駅前で待ち合わせできますか?』彼女の言葉は画面上でも優しさが溢れていて疲れきった体に染み渡った。
『大丈夫です。〇〇駅の東口で待ってます。』『撤収に時間かかりそうなのでごゆっくり準備なさってください。』
学生時代からこのような経験が疎い俺にしては、いい返信ができたと思う。これからまた彼女に会えると思うと、残っている撤収作業が何も酷で無くなった。作業が終わり、手荷物をまとめてから俺は会場を後にした。
帰りの電車に向かう前に、喫茶店のマスターに電話を掛けた。何せ着く時間帯には閉店の時間を過ぎると思ったので、少し無理を言って閉店時間後に行くことを伝えた。マスターは快く承諾してくれて、より気持ちが昂った。
夜も深けてきて、乗客も少なくなってきた電車に乗りこみ自宅の最寄り駅に向かっていると同時に、先のことでちょっとした不安が込み上げてきた。喫茶店でどんな話をすればいいのか、今更引き返すことも出来ないが、本当に彼女と2人で行っていいのか、こういう時店を出てからはどうすればいいのかと挙げだしたらキリが無いくらいの不安が押し寄せてきた。
電車に揺られながら、胸の奥にじわじわと緊張が広がっていった。その時スマホが震えた。
『もうすぐ駅に着きます。東口で大丈夫ですか?』
短いメッセージなのに妙に心臓が跳ねる。逃げられない。でも、行きたい。そんな相反する気持ちを抱えたまま返信をすると、深呼吸をして駅に降り立った。
駅前の街頭下で待っていると、コツコツと足早に近づいてくる小柄な女性の影があった。彼女は小さく手を振りながら、小走りで近づいてきた。「篠塚さーん、お待たせしました。」
黒いバケットハットを深くかぶり、マスクをしていたが、見覚えのある目元の笑顔で誰かはすぐに分かった。「アリンさん、ライブお疲れ様でした。」
「はい、ちょっと流石に疲れちゃいました。でもすごい楽しみでしたよ。」その小さな声に、不意打ちに心臓が跳ねた。
「喫茶店、近いんですか?」「すぐですよ。ゆっくり歩いて五分くらいです。」「よかった、ヒールで来たので、走れないです。」そう言って嬉しそうに笑うと、彼女の歩幅が俺に自然と合わせられているのがわかった。飲み屋帰りのサラリーマンやライブから帰る若者の声で少し騒がしく、2人だけの会話はそのざわめきに少しだけ包まれた。
「アリンさん、ライブすごかったですね。」「ありがとうございます。でもちょっとなんだか緊張してしまいました。」当然かもしれないが、あの圧巻のパフォーマンスをしていた彼女からそんな言葉が出るとはなんだか意外だった。「アリンさんも緊張されるんですね。」「ありますよ。だって…」少し言葉を止め、彼女は前を向いたまま続けた。
「だって終わったら…篠塚さんとコーヒー行く、でしたから。」その横顔を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに、大きく揺れた。俺は動揺を隠すように笑いながら会話を返した。喫茶店の看板の灯りが遠くに見えた。
その暖かい光が、まるで2人を迎えてくれているようだった。
扉にはCLOSEの札があるが、勝手に入ってくれと言われていたのを思い出してドアを開けた。扉を開けた音と同時にマスターがカウンターに飛び出してきた。「おぉいらっしゃい。随分遅かったな。」マスターはそう言うとカウンターの席に案内した。
「悪いねマスター、急に無理言っちゃって。」「迷惑だったなぁ。週末くらいゆっくり寝たかったぜ。」マスターは悪いような笑顔でそう言うと彼女も小さく笑っていた。「んで?こんな時間にお嬢さん連れてどうしたんだよ?」マスターがそう言うと、彼女はマスクを取って挨拶をした。
「そうかそうか、いやぁでもごめんな、おっさん若ぇアーティストとか知らんもんでな。」そう言いながら彼女とマスターは楽しそうに話していた。見慣れない光景に新鮮味を感じて、やはり来てよかったと心から思った。
「で、注文はいつものでいいか?」「じゃあ微糖のコーヒー1つ、俺はブラックで。」勝手に注文してしまったが、彼女は何も言わずそっと微笑んでくれた。その後は、今日のライブの話や、影響を受けたアーティストの話をして盛り上がった。その間もマスターは颯爽と2人分のコーヒーを淹れ、見慣れたコップに注いで俺達の前に差し出した。
彼女は軽く手を合わせて小さくいただきますと言うと、コーヒーを口にした。1口飲むと彼女は、口元に手を当てて驚きを含んだ笑顔でこちらを見た。「すごく美味しいです。あたし、こんな美味しいコーヒーはじめて飲みました。」その言葉を聞いて彼女にこの店を紹介して良かったという気持ちが溢れた。学生時代、こんなことに縁がなかった俺が初めて味わったこの感情が勝手に笑顔を作らせていることに気づいた。
「おおそうか。この歳になってそんな絶賛を貰うとは思ってもみなかったな。」マスターはそう言うと、俺の頭をパシッとはたいた。「痛っ!何すんだよ急に!」「だははっ!お前も見惚れてねぇで早く飲めってんだよ。」「はっ…!見惚れてなんか…」そう言うと彼女もクスクスと笑い始め、つられて俺も笑った。
そうしてコーヒーを嗜みながら、彼女と色んな話をした。こんなに楽しい時間は初めてだった。いつも1人の時間を味わっていた店内は、ガラッと変わったように全てが新鮮だった。気がつけば時計は0時近くを指していて、店を出る準備を始めた。
「出る前にお手洗い行ってきます。」彼女が椅子から降りて、トイレへと向かった。するとマスターが口を開いた。「おい、お前さんあの子のこと好きだろ?」
その言葉に心臓がドクリと脈を打つ。「いや…そんなこと…」「嘘つくなって!バレバレなんだよ。見てりゃ分かる。」
自分としては隠していたつもりだったが、やはりマスターには全て見透かされていた。「うん…まぁな。」「ほら見ろ。まぁお前が連れてきた時点で何かしら特別な子だとは思ってたよ。」図星で心は荒れているようだったが、恋心を打ち明けられたことにはあまり満更では無かった。
「でも多分だけどよ。あの子もお前のこと好きなんじゃねぇか?」「え?」「うーん、俺にも正確なことは分かんねぇけど、話してるの見たらすげぇ楽しそうだったけどな?」完全にこの時、自分が浮かれはじめてることに自分でも気づいていた。けれどそんなのどうでもいいくらいその言葉が嬉しかった。
「ま、あんましくじるなよ。お代要らねぇから、支払い済ませたことにしておけ。」「え、いいの?」「うーん、その代わり吉報は聞かせてくれよ。」そしてすぐに彼女がトイレから戻ってきた。支払いを済ませた話をして、マスターに礼を言って店を出た。
「アリンさん、終電無いんで俺が車出しますよ。」「え、いやいやそんな申し訳ないですよ。」「いいんです。俺の紹介で来てもらっちゃったんで。ADとして送らせてください。」そう言うと彼女が嬉しそうに「でしたら…お願いします。」と言った。
自宅に着くまでの道中、行きの道と同じように帽子を被った彼女と話した。「篠塚さん明日もお仕事ですけど大丈夫でしょうか?」「大丈夫ですよ。まぁ今日午後居なかった分少しだけ仕事の量増えちゃうんですけど。」「ふふ、明日も大変そうですね。」何気ない会話だけど、すごく特別に感じた。きっとこの会話はいつまでも忘れないと思う。
「僕もいつかはマスターみたいにコーヒーを淹れてゆっくり過ごしたいです。」「いいですね。そしたら私コーヒー飲みに行くと思いますよ。」現実味を全く帯びていない理想の話にも彼女は楽しそうに返してくれた。けれど、俺が喫茶店でコーヒーを淹れているとこに彼女がやって来てくれると考えると、その未来があまりにも素晴らしすぎて、何故か、涙が出そうになった。
車に乗り込むと、助手席に彼女が座った。初めて助手席に人が居ることにも嬉しかったのに、その相手があのアリンだと思うと嬉しくてたまらなかった。その後も、終わりが見えないくらいに話をしていたら彼女がこう言った。「おかしいですね。コーヒー飲んだのに眠たくなってきました。」「きっとライブでお疲れなんですよ。ゆっくり休んでください。」
そう言うと少し微笑んだ後に、彼女は眠りについた。信号待ちの時にふと横を見ると、穢れのない寝顔の彼女がいた。思わず俺は小声で「好きです」と言ってしまった。無自覚に声に出たことに自分でも驚いた。信号が変わり前を向いた時、彼女がまた少し微笑んだように思ったが、きっと気のせいだ。




