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カフェオレ

ふと点けたテレビには、燦然と輝きながら歌う彼女が映っていた。濃いめに淹れたはずのコーヒーが、心做しか薄まったように感じた。


24歳の頃だったろうか。専門学校を卒業した俺はラジオ局に就職した。入社3年目とは思えないほどの仕事をこなす日々は、いとも簡単に過ぎ去っていった。


何せ俺の担当は日本で1番有名であろう番組のADだったため、息が切れるほど多忙であることは仕方の無いことだった。大量な台本の原稿コピー、膨大な量のメール選び、企画リサーチや作家のアシスタントと、数えればキリがない量の仕事を捌く必要があった。


そんな仕事を繰り返していれば、ミスをすることなんか珍しいことでは無い。彼女と出会った時だって、そうだったと思わず思い出してしまった。初めての出会いは彼女がメンバーとして加入していたガールズグループがパーソナリティで出演した時だった。


デビューしたばかりだった彼女達は、ファーストシングルが大ヒットし、様々な音楽番組やバラエティ番組に引っ張りだことなった。旬の芸能人には颯爽とオファーをするうちの番組にはデビューした時から声を掛けることを見込んでいた。


彼女達が局に到着すると、ADの俺に挨拶を交わした。「アリンです。よろしくお願いいたします。」ハン・アリン、ガールズグループsweet orbitのメンバーで、唯一韓国出身の23歳。学生時代日本に来てから日本語の勉強に勤しみ、圧倒的な歌唱力でデビュー当時からファンからの指示を得ている。日本人ウケしそうなショートヘアに艶やかなピンク色が印象的だった。


台本の確認をする時に飲み物を買いに行くのが俺の仕事だった。もちろん演者を待たせる訳には行かないため、この移動は常に全速力が求められる。たまたま演者の希望した飲み物が局の自販機で済む物だったため、大急ぎで自販機のあるロビーに走った。


頼まれたのはミルクティー、緑茶、レモンティー、ブラックコーヒーだったはず。急いで小銭を投入口につぎ込み飲み物を手に取ると、先程よりは少し遅めに収録スタジオへと戻った。


飲み物をそれぞれの台本の横に置いていると、彼女は神妙な顔をした。「アリン、どうしたの?」とメンバーの子が聞くと、彼女は「これ、ブラックのコーヒーですか?」と達者だがどこか癖のある日本語を駆使して質問した。


「あ、もしかして…ブラックじゃなかったでしたっけ…」思わず言葉が震えるように詰まった。そう言うと他のメンバーの子が「アリンはカフェオレじゃなかったでしたっけ?」と言うと全身から冷や汗が出た。生放送はもう間もなくなのに、俺のミスで時間を押すことは許されない。今からもっと早くカフェオレを買うことしか許された道はなかった。


「申し訳ございません!すぐに買ってきます!」と気づいたら口に出ていた。けれどその言葉を遮るように、「あたし、ブラックのコーヒー飲んでみたかっただから大丈夫ですよ。ありがとうございます。」と彼女の言葉に救われてしまった。


彼女が1口ブラックコーヒーを口にするとお手本のように眉間に皺を寄せて、舌先を出して苦味にやられていた。「うん、なんだか大人な味で美味しいです。苦かったけど。」と微笑む姿がミスをした分際ながら可愛いと思ってしまった。


生放送が始まると、彼女達の軽快なトークで盛り上がった。その最中も彼女はカップを手に取り、口にしては同じような表情でコーヒーを嗜んだ。どこかコミカルな表情が俺の心を笑わせたが、同時に申し訳ないという気持ちも切り離すことができなかった。


ディレクターブースとスタジオを隔てるガラスから様子を見ている俺は、気がつけば彼女に視線を引き寄せられていた。目が合うと彼女は、溢れんばかりの笑顔でこちらを見つめてくれた。


生放送が終わったあと俺は彼女の元へ行き、改めて飲み物の件を謝った。「アリンさん本当にすみません。良かったらこれどうぞ。」俺は謝罪の意を込めて、彼女が本来希望していたカフェオレを渡した。


彼女は少し驚いたように「ありがとうございます!でもブラックのコーヒーもいつも飲みませんから初めてで美味しかったです。」と笑顔で語りかけた。「では、またお願いします。」そっと微笑んだ後に俺はそう言うと、彼女は嬉しそうに小さくお辞儀をして局を後にした。


その日の帰り、自販機に寄るとポケットから小銭を取り出しボタンを押した。普段微糖を飲んでいたが、その日のブラックコーヒーはいつもより深みがあって美味かった。すると後ろから声がかかった。


「篠塚!ちょっといいか?」声の主は技術部の柏田さんだった。「あ、柏田さん。お疲れ様です。どうしました?」柏田さんは元々俺と同じ制作部ので、2年目の頃に技術部に異動した俺の数少ない知り合いの先輩。「いやぁ久しぶり。お前、ちょっと痩せたか?」柏田さんはそう言って笑い飛ばすと、目元の縁なしメガネをクイッと直した。「ここ最近激務で。忙しくさせてもらってます。で、どうかしました?」


そう言うと柏田さんは脇に挟んでいた書類を手に持って少し険しい顔で話し始めた。「そうそう、篠塚ってさPAできたっけ?」「え、まぁ専門学校の時にやってたんで、出来ますよ。」


PAは音響機器の操作を指す言葉で、ライブの音響機器の設置や、バンドの楽器のバランスをとるために調節仕事の意味である。「あー良かった。もし出来ればさ、金曜のこの仕事代わりに行ってくれないかな…?」柏田さんが差し出したのは当局主催の音楽ライブのスケジュールだった。


「金曜なら…午前中には仕事終われるんで大丈夫っすけど…なんで俺に?」正直、PA知識のあるADは俺の他に居ないという訳ではない。「あぁ、俺その日に前乗り決まってさ、あとそれにここ見てよ。」柏田さんが指さしたのは出演者の記述の文だった。「sweet orbitってさ、篠塚の生放送出てたじゃん?急に顔馴染み無いADに頼むよりはお前の方が良いかなぁ?って。」その理由に俺は思わず少しニヤけた。なんだか柏田さんらしい理由だった。


「じゃあ金曜、よろしくな。終わったらなんか奢るわ。」「あざます。前乗り頑張ってください。」そう言って柏田さんと別れ、コーヒーを一気に飲み干して残りの仕事を終わらせた。


金曜日の午後、俺は仕事を終わらせてライブ会場へと向かった。久しぶりに触る音響機器の数々は扱いが難しかったが、学生時代に触ったものとあまり大差は無く順調に準備が進んだ。出演者が続々とライブ会場に到着し、リハーサルが着々と進んでいった。


リハーサルが終わって遅めの昼休憩が始まると、俺は水分補給のために自販機に向かった。ボタンを押してコーヒーを手に取ると後ろから名前を呼ぶ声がした。

「篠塚さん。」振り返るとそこに居たのは彼女だった。


「あぁアリンさん。どうも。」軽めの挨拶とは裏腹に、心臓の脈拍が早くなっていくのを感じた。

「最近よく会ったりしますね。」彼女は目元をくしゃりとさせて笑った。「そうですね。僕も今日急遽来ることになったんです。」ことの経緯を説明している時も彼女は楽しそうに笑ってくれた。


すると彼女は自販機に向かって財布を取り出した。

「あ、俺出しますよ。」仕事の癖かもしれないが、演者に飲み物の金額を出させるのがなんだか嫌だった俺は咄嗟にそう言った。彼女は「そんな、悪いですよ」と言ったが、受け流すように俺が自販機に小銭を入れると彼女も受け入れたようで、「じゃあ…ご馳走になります。」と言い、ガタリと落ちた微糖のコーヒーを小さくしゃがみこんで取り出した。


「この間のラジオの時に飲んでみてから、あたしブラックのコーヒーハマったんです。」そう言われて、根底に少しだけ残っていたあの日のミスによるモヤモヤが一気に晴れた気がした。「でもちょっと苦いですから、あたし最近は微糖のやつ飲んでます。」その笑顔は本当に輝かしくて、心から可愛いと思った。それは芸能人だからとかそういうものではなく、恋心による感情だと、今でも思っている。でないとこんなに心が動かされることは今までに無かった。


「俺も微糖が1番好きです。今は眠かったんでブラックですけど。」そう言うと彼女はまた目元をくしゃりとさせて優しく口を抑えながら笑った。「篠塚さんはコーヒーよく飲んだりされるんですか?」「えぇ、よく飲みますよ。自分の家の近くに好きな喫茶店があって。そこのマスターが淹れるコーヒーが美味しいんです。」彼女は聞き入るように首をこくこくと頷いて話を聞いていた。


話をしようとする彼女を遮るようにスタッフが俺を呼ぶ声があった。それを聞いた俺はコーヒーを飲み干して缶をゴミ箱に捨てて、彼女に「すみません、呼ばれちゃって。ライブ頑張ってください。」と言って向かおうとした。すると彼女は俺の背中に声をぶつけた。


「あの、篠塚さん。そこの喫茶店のコーヒー…あたし、一緒に飲みに行きたいです。」

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