華麗なる剣士と過酷なる時代
時は江戸時代。元号はわからぬ。
地方のとある小国では、今にも百姓一揆が起こりそうな気配があった。
二人の小さな子どもが月明かりの下、薄暗い山道をとぼとぼと歩いている。
「兄ちゃん、腹減っただ……」
「しゃべるでねぇ。もっと腹が減るだぞ」
兄は七歳、妹は五歳。
ただ行く宛もなく彷徨っているのであった。
「これからどこ行くの?」
問いかける妹に、兄は何も答えない。
地獄という言葉が頭に浮かんだのを、ただ目を閉じてかき消した。
傍らの茂みが音を立てて揺れた。
山犬か狼か──兄は妹を背に守り、その方向を睨みつける。
「おっ?」ととぼけた声を漏らしながら現れたのは、鼠色の着流し姿の男であった。肩から血を流していた。
「おまえ、誰だっ!?」
男の子が勇ましく睨みつける。が、肩の傷に気がつくと、すぐに心配そうな声を出した。
「け……、怪我してるの?」
「おまえらこそ……。なんで童がこんなところをうろついてるんだよ?」
男は邪気のかけらも感じさせない笑いを漏らす。
兄の後ろから、妹も心配そうに声をかけた。
「だ……、大丈夫? おじさん」
「ハハハ……。優しい子だな。平気さ。もうすぐお姉さんが薬を持って来てくれるんだ」
男は気の抜けるような平和な笑い声とともにそう言うと、二人に聞いた。
「ところでオマエら、腹減ってねーか?」
「えっ?」
「何か食べ物、持ってるのっ?」
男が怪我していないほうの腕を前に出した。そこに握られているものを見て、兄妹が体を硬直させる。
「カレーって食い物を知ってるかい?」
手に持った鍔のない刀を、男が鞘から抜く。
「俺の剣は、斬ったものを何でもカレーに変えることができるんだ」
すぐ側に生えていた木の枝を、男が斬った。一瞬にして六つの木片が輪切りにされ、降ってきた。
ぽとり──男が輪切りにした木片を手で受け止める。
それはみるみる姿を変え、馬鈴薯と人参、そして雉肉となり、すぐに香ばしい湯気を立てながら、男の両手の中で、兄妹が見たこともない美味しそうな汁料理に化けた。
「ほら、食いな」
男の両方の掌に、カレーがあった。不審な、仙術のようなものを使う男の奇行に、しかし兄妹は喜びの声をあげた。
「わあっ!」
「食いもんだ!」
右手に兄、左手に妹が、樹液に吸いつくカブトムシのように吸いつき、夢中でカレーを啜った。
「どうだ? うまいか?」
「おいしいっ!」
「こんなうまいもんがこの世にあっただか!」
「そうかそうか……。へへっ」
遠慮なく自分の手を握ってカレーを貪る兄妹を見ながら、男は嬉しそうに、くすぐったそうに笑った。
足音が近づいてきた。
忍者の足音は兄妹には聞こえない。しかしそれが遠くにあるうちに聞き取っていた男は、その名を呼んだ。
「おくみん! 薬はあったか?」
おくみんと呼ばれたくノ一が返事をする。
「薬は持って来ましたよー! ウンコさま」
兄妹が可笑しそうに顔を上げた。
「ウンコさま?」
「おじさん、ウンコって名前なのー?」
「俺の名前はウンコじゃねぇ!」
口の周りをカレーまみれにした二人に、男は言い聞かせた。
「俺は橘ウコン! カッコいい名前なんだ!」
くノ一が聞く。
「あら。ウンコさま、その子どもたちは?」
「ウンコって言うなあああー!」
◆ ◇ ◆ ◇
カレーを食べ終えると、兄妹はぐったりしたようにその場に寝転んだ。
慌ててウコンが聞く。
「おっ……おい? 大丈夫か、おまえら?」
「大丈夫だよう……」
「久しぶりに食いもん口にしたからぁ……力抜けちゃっただぁ……」
ほっと安心して、ウコンが聞く。
「おまえら、名前は?」
男の子が名乗った。
「正太」
女の子も続けて名乗った。
「花っていうだ」
「そうか……」
聞いてはならないと思いつつも、ウコンは聞いた。
「おまえら……両親は?」
疲れた顔をして、正太が言った。
「おっ父も、おっ母も……おらたちを逃がして……役人に連れて行かれただ」
正太の目は、連れて行かれた後の両親がどうなったのかを、知っている目であった。
「そうか……」
ウコンはそれだけで理解した。
「おまえたちの両親は……おまえらになんとか生きてほしかったんだな」
ウコンは知っていた。
藩主、時沢五味右衛門は圧政を敷いていた。重税を課し、特に百姓からは重い年貢を巻き上げていた。
それに反抗して百姓が一揆を起こすのを恐れ、少しでも逆らう者があればすぐに連行し、見せしめとして処刑しているのであった。
疲れ切っていたのであろう。正太も花も、すぐに気を失ったように眠りについた。
正太はウコンの膝の中で、花はおくみんの胸の中ですやすやと眠った。
正太の頭を撫でながら、ウコンが言う。
「こんな年端も行かねぇ子どもが苦しむような時代は……間違ってる」
花を抱きしめながら、おくみんが答えた。
「やっぱり世直しが必要なんですかねぇ……」
「このままじゃいけねぇのは確かだ」
「葛屋さんにお任せすれば、良い時代がやって来るのでしょうか?」
「わからねぇ……」
ウコンは飄々とした面持ちの商人の顔を思い浮かべながら、言った。
「少なくともあの人は、時代を変えるだろう。その力を持ってなさる人だ。ただし──、それが良い時代になるか、さらに悪い時代になるかは……」
正太がねごとを言った。
ウコンの着物を強く握りながら──
「おっ父……。おっ母……。会いたいよ……」
◆ ◇ ◆ ◇
葛屋金七郎は時代を変えようとしていた。
彼はいつも飄々とした顔をして、しかし裏では何を考えているか読めない人物であった。
浪人・橘ウコンは彼の協力者であった。酷い時代に変革をもたらしてくれる人物と信じ、彼に敵対する者をことごとくカレーに変えてきた。
しかし、最近では葛屋のことを信じられなくなっていた。
葛屋にとっては金こそすべてだ。
その金力に物を言わせ、世直しを行おうとしている。
ただし、自分の邪魔となる者は、それが権力者であろうと弱き者であろうと、容赦なく切り捨てる。
葛屋にとって小さな命など取るに足らないものであった。
「「ウンコのおじさん」」
正太と花が、口を揃えて自分をそう呼んだ。
「またカレー、出して!」
正太も花も、遠慮がまったくなかった。
しかし子どもというのは遠慮がないほうがかわいいと、ウコンは思うようになっていた。
「へへ……。今日は思いっきり甘口にしてやろう」
ウコンが剣を振るうと、岩が音を立てて崩れ、カレーの王子様に変わって、お椀の中へなだれ込んだ。
「「わぁい!」」
二人は喜んでカレーに夢中になる。
飽きたとか、他のものが食いたいとは一度も口にしなかった。
ウコンもおくみんも、二人のことを自分の子どものように思うようになっていた。
ある日、ウコンが町で葛屋から依頼された仕事に向かっていると、後ろから呼び止められた。
「「ウンコのおじさん!」」
「あっ! おまえら……、ついて来たのか」
振り返ると正太と花が、立てかけられた材木の陰から手を振っていた。
「おじさんはこれから危険な仕事なんだ。ついて来ちゃいけねぇ。あとで迎えに来るからこのへんに隠れてな」
そう言いつけて、葛屋のところへ向かった。
「ウコンさん……、今日で時代が変わるで?」
海の向こうを見つめながら、葛屋金七郎は言った。
「藩主による圧政は今日で終わりを迎える。そして、ワイの時代がやって来るんや!」
ウコンは聞いた。
「何をする気だ、葛屋さん?」
「町に火をつける」
葛屋は楽しそうに言った。
「もう始まっとるで? 藩主の資金源をすべて燃やして、金の力でワイが取って代わるんや」
「火を……? 罪もない町人の家も燃やす気か?」
「町人の家燃やしたって藩主にはダメージあらへんがな」
葛屋は笑いながら、言った。
「材木や。藩主は今、材木を買い占めて、町を新しくしようとしとる。それをすべて燃やしてやりゃあ、大ダメージ間違いなしや」
「材木……だと?」
ウコンは慌てて駆け出した。
「正太! 花!」
駆けつける先に、火の手があがっていた。
あの材木置き場に二人は隠れているはずだ。
「無事でいてくれ……っ!」
「ウコンさま!」
材木置き場に辿り着くと、おくみんが悲鳴のような声をあげた。
「正ちゃんと花ちゃんが……中に!」
葛屋の手下が点けたのだろう、炎に包まれた材木の中から、二人の声がした。
「ウンコのおじさん!」
見ると炎に囲まれて、二人が自分の名を呼んでいる。
正太は妹を抱きかかえて、縋るような目でこちらを見つめていた。
ウコンは剣を振るった。
二人を焼き尽くそうとする炎を、カレーに変えようとしたのだ。
しかし炎は揺るがなかった。
今にも幼い兄妹を包み込もうとしている。
炎を斬ったことがウコンにはなかった。
斬れるものとも思えなかった。
実際、斬ったもののそれがカレーに姿を変えることはなかった。
いや……
待て……
落ち着け、橘ウコン──彼は考え方を変えた。
彼は斬ったものを、己のイメージ通りのカレーに変えることができる。子どものためには甘口カレーを、自分のためにはそこそこ辛いカレーを出すことができた。
炎を甘口カレーに変えようと思うから出来ぬのだ。
炎のような辛さの、シャバシャバのインドカレーをイメージして──
斬る!
炎が超激辛でシャバシャバなカレーに変わり、正太と花の体に降り注いだ。
「うわーっ!」
「痛いぐらい辛い!」
真っ茶色になった二人に駆け寄り、ウコンは抱きしめた。
「辛い! 辛い!」
「痛い! 痛い!」
パニック状態になっている二人に、ウコンは優しい言葉をかけた。
「おうち、はちみつ、カレーだよ」
気絶した二人の子どもを抱きかかえ、ウコンは天を見上げた。
「俺は……この世を甘口カレーに変えてやる! 葛屋にももう従わぬ! 俺がこの世を直すのだ!」
おくみんが寄り添い、言った。
「激辛カレーが好きなひとにも住みよい世の中にしておくんなまし!」
「もちろんだァーッ!」
ウコンの形相は、さながら印度の咖喱神であった。
「こんな時代を……! 俺は許さぬ! 子どもが安い値段でカレーの王子様やお姫様を食えぬ時代など、俺が許さぬ!」
藩主にも葛屋にも、任せてはおけなかった。
ウコンは激怒した。