9話目
それからというもの――
ティチェルリスは食堂に姿を見せなくなった。
食事を摂ることすら、どうでもよくなった。
空腹を感じないわけではない。でも、何を食べても味がしない気がした。 だったら、無理に食べる必要なんてない。
何もない部屋に引きこもり、ただぼーっと時間が過ぎるのを待った。
ぼんやりと天井を見つめる。 耳に入るのは、自分の呼吸音と、時計の秒針の音だけ。
もう何日経ったのかもわからない。 夜が来て、朝が来て、また夜が来て――それを繰り返しているだけ。
すべてを失った気分だった。
もう、大切なものは何もない。 もう、取り戻せるものなんて何もない。
(……私は、何のためにここにいるんだろう。)
そんなことを考えたところで、答えが見つかるはずもなかった。
ふいに、**キィィ――**と、控えめなドアの開く音がした。
目だけを動かしてそちらを見ると、そこにいたのは――ビトリアンだった。
「……何よ。何しに来たのよ。」
力のない声で呟く。 顔すら向けず、ただ言葉を投げるだけ。
彼は何も言わず、ただ静かに部屋に入り、ベッドの端に腰を下ろした。
(……気持ち悪い。)
心がざわつく。 でも、それを表に出す気力もない。
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。)
彼がすぐそばにいる。 こんなにも近くにいるのに、まったく感情が見えない。
拒絶したいのに、拒絶する力すら残っていなかった。
(どっか行ってよ……。)
そう思ったが、口には出さなかった。
時間だけが、ただ無為に過ぎていく。 ――――
ある日、いつものようにぼんやりしていた。
ベッドの端に座るはずのビトリアンの姿はなかった。
珍しい。
いなくても別にどうということはない。 むしろ、その方がいいはずなのに――。
違和感だけが、胸の奥にぽつりと残る。
だけど、それすらどうでもよかった。
虚ろな目でぼんやりと壁を眺めていると――
突然、体がふわりと宙に浮いた。
「……?」
思考が追いつかないまま、気がつけば抱き上げられていた。
(……どこに、連れていく気よ。)
そう聞く気力すら、もうなかった。
ただ、無抵抗のまま彼の腕の中で揺られる。
廊下を歩く音。 階段を下りる音。 扉が開く音。
そして――。
外の風。
ビトリアンの腕に抱かれたまま、中庭へと運ばれていた。
見上げると、灰色の空が広がっている。 けれど、もう雪は降っていなかった。
彼は静かに私を地面に降ろし――
そのまま、地面に掘られた穴の中へとゆっくりと埋めていった。
「……」
首から下が、しっかりと土に包まれる。 かつて雪の中に埋められたときとは違い、冷たさはなく、ほんのりとした温かみを感じた。
自分の体温が土に吸われ、じんわりと馴染んでいくような、不思議な感覚。
「……意外……土の中って、温かいのね……初めて知ったわ。」
呟いた言葉は、驚くほど無感情だった。
その瞬間、ビトリアンがそっと私の頬に触れた。
指先が、そっと頬をなぞる。
まるで、機嫌を直せとでも言うように。
「……」
ふと彼の顔を見上げると――。
ビトリアンは、切なそうな表情をしていた。
(……そんな顔も、できたんだ。)
彼の感情が読めない。 これまでずっと、彼は何を考えているのかわからなかった。
でも、今だけは――彼の中に"何か"が確かにあると、そう感じた。
(結局……彼は何がしたかったんだろう。)
彼は、何も言わない。
けれど、私は静かに問いかけた。
「……もうしない?」
ビトリアンは、ゆっくりと頷く。
「もうしない。」
そう言った彼の声は、どこか柔らかく響いた。
それを聞いた瞬間、私の心の奥で何かが静かに収まった。
燃やされたものは、戻ってこない。 失ったものは、もう手に入らない。
それでも――
「……わかった。」
そう答えた。
それが何を意味するのか、自分でもよくわからなかった。
けれど、それでいいと思えた。
風が、頬を撫でる。
遠くで、小鳥のさえずりが聞こえた。
ビトリアンは、ただ静かに私を見下ろしていた。
――———————
――—————
お風呂場――
湯気が立ち込める浴室。
温かな湯が肌を包み込む感触。
ティチェルリスは、何も考えずに湯船に身を沈めた。
いや、"何も考えたくなかった"。
湯の温度は、ちょうどいいはずなのに、体の芯から冷え切ったままだった。
使用人たちは、そっと彼女の銀髪を梳き、優しく背中を擦る。
「奥様……」
名を呼ばれる。
けれど、その声は遠く感じた。
(今まで……どうして、あんなに無邪気でいられたんだろう。)
埋めたり、いたずらしたり、ふざけたり。
笑って、驚かせて、からかって。
ビトリアンがどんな人間なのかも知らずに――。
それが、今は恐ろしく思えた。
(私は、何も考えなかった。)
ただ楽しいことだけを求めていた。
自分の世界を、彼に押しつけていた。
だけど――
(ビトリアンが無感情なのは……)
その"先"を考えるのが、恐ろしかった。
彼が、どうして何も感じないのか。
どうして、あんなに冷たいのか。
どうして、すべてを淡々と受け入れるのか。
もし、それを知ってしまったら。
私の知っている"ビトリアン"は、もう変わってしまうかもしれない。
けれど――
(痛みを知って、はじめてわかった。)
無感情なわけじゃない。
何も感じていないわけじゃない。
彼は――"そうならざるを得なかった"のだと。
「……っ」
ぎゅっと拳を握る。
自分が知らなかっただけで、彼の中にはきっと何かがある。
それを知らないままで、終わらせたくなかった。
―――――———
――———
お風呂から上がると、ティチェルリスはまっすぐ図書室へ向かった。
濡れた髪を拭きながら、冷たい廊下を歩く。
火照った肌とは裏腹に、心の中はひどく冷静だった。
向かったのは、ガーナンドブラック家の歴史を記した本が並ぶ書架。
ずらりと並ぶ分厚い本の背表紙を指でなぞる。
(この家が、どんな歴史を歩んできたのか。)
(ビトリアンが、どうしてあんな風になったのか。)
今まで考えもしなかったことを、今は知りたくてたまらなかった。
手に取った一冊を開く。
古いインクの匂い。
歴代当主たちの名前が刻まれたページ。
そこに並ぶ"ガーナンドブラック"の歴史。
淡々と記された文字を、食い入るように読む。
まるで、答えを探すかのように――。
――———————
――—————
それから何日も、ティチェルリスは図書室に篭り、本を読み漁った。
分厚い歴史書、家系図の記された巻物、古びた手記。
指先がインクの染みついた紙をめくるたびに、知らなかった事実が次々と明らかになっていく。
(ガーナンドブラック家の歴史……)
この公爵家は、代々"雷"の力を有していた。
その力は、一族の誇りであり、また呪いでもあった。
ページをめくるたび、記されているのは"不完全な力"の話。
ガーナンドブラック家に生まれる者たちは、みな雷の力を持つ。
しかし、それはいつも"不安定"だった。
理由は――
(母親の能力と、混ざるから……。)
この家系は、血統を維持するために長く"同族婚"を繰り返してきた。
しかし、それでも"混ざり合う"ことを完全に防ぐことはできなかった。
異なる力が影響し合い、能力が暴走することも多かった。
力を制御できず、自分自身を焼き尽くす者もいた。
記録には"制御不能となり、処分"とだけ書かれた者たちの名前もあった。
ティチェルリスは、ページをめくる手を止めた。
(……処分、って。)
ぞくりと背筋が冷える。
何の感情も込められていない冷たい文字。
まるで"人間ではなく、実験体だった"とでも言わんばかりの扱い。
この家で生まれた者は、力を制御できなければ生き残れなかった。
そして――
研究の末、生み出されたのが――
(……私が受けた"訓練"……。)
ティチェルリスは、自分の指先を見つめる。
傷はない。
けれど、心の奥にこびりついた痛みは、消えずに残っていた。
(これは……ただの訓練、だったの?)
あの絶望の日々。
何もかも奪われ、壊されて、心を削られた時間。
すべては――"能力を制御するため"のものだった?
信じたくなかった。
けれど、目の前の本には、そう書かれている。
「……っ」
ぎゅっと本を握りしめる。
(こんなの……ただの拷問じゃない。)
"心を壊す"ことで、力を抑える。
"痛みを知る"ことで、力の使い方を学ぶ。
――それが、この家で代々続けられてきた"訓練"だった。
ティチェルリスは、ゆっくりと息を吐いた。
頭が、痛い。
心臓が、妙に重い。
知りたかったはずのことを知ったのに、息苦しさが増していく。
その時――
ふと、視界の端で何かが動いた。
顔を上げると、すぐそばにビトリアンがいた。
彼は、静かに立っていた。
ティチェルリスが本を開いた机の隣。
そこに、何も言わず、ただ"いた"。
ティチェルリスは、眉をひそめる。
(……また、いる。)
気づけば、ビトリアンはいつも近くにいた。
何を言うわけでもなく、何かを求めるわけでもなく。
ただ、彼は静かに側にいた。
ティチェルリスが次の本を探して手を伸ばした時――
ふと、ビトリアンが代わりにその本を取って、彼女の前に差し出した。
ティチェルリスは、驚いた顔で彼を見た。
彼は何も言わない。
ただ、無言のまま本を差し出すだけ。
「……」
ティチェルリスは、その本を受け取る。
そして、ビトリアンの顔をじっと見た。
(なんで……?)
どうして、何も言わないの?
どうして、何も聞かないの?
どうして、ただ"側にいる"の?
彼の表情は、相変わらず無感情だった。
けれど――
その青い瞳の奥に、わずかに"何か"が揺れているような気がした。
それが何なのかは、わからなかった。
けれど、ティチェルリスは、何も言わずに再び本を開いた。
ビトリアンは、それを黙って見守るように――ただ、隣にいた。