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8話目

翌朝――。

 目の前で再び、ティチェルリスの大切なものが燃やされていく。

 昨日と同じ光景。

 けれど、心の中の"何か"が確実に削れていく感覚がした。


 炎は赤々と燃え上がり、鉄格子の向こうでは執事が淡々と荷物を投げ込んでいく。

 大事にしていたリボン、小さな手帳、思い出の詰まった手紙の束――

 昨日の時点で心が悲鳴を上げていたのに、まだ燃やされるものが残っていたことすら、もう驚きではなかった。


 ティチェルリスは奥歯を噛みしめる。


(もう……耐えられない……!!)


 怒りが、身体の内側から込み上げる。

 悔しくて、悲しくて、どうしようもなく苦しい。


 そして――


 バチバチバチッ!!!


 雷の火花が弾け、ティチェルリスの体を覆った。

 鮮烈な光が牢屋の中で暴れ、壁に向かって放電する。


 だが――


 ビトリアンは、まったく動じなかった。


 炎の熱さも、雷の衝撃も、まるで気にしていないかのように。

 彼はただ、ティチェルリスを抱きしめ続ける。


 その腕は、鉄の枷のように重く、そして熱を持っていた。

 まるで、ティチェルリスの暴走する力を、無理やり押さえ込むかのように。


「……っ……!!」


 苦しい。

 悔しい。

 涙が、溢れそうだった。


 そして――


 ティチェルリスの"大事なものの一部"が、完全に燃え尽きた。


 ふわりと舞い上がる、白い灰。

 ひらひらと空中を漂い、やがて床へと落ちていく。


 視界が、真っ白になった。


 何も考えられない。

 何かを叫ぶ力すら、もうなかった。


 その時、ビトリアンがぽつりと呟いた。


「……今日はここまで。」


 その言葉とともに、ティチェルリスの体がずるずると引っ張られる。


「ちょっと!?」


 力の入らない体は、抵抗する間もなく、ベッドへと引きずり込まれた。

 彼女の銀髪が静電気でふわりと揺れ、皮膚の上を細かい電流が駆け巡る。


 それでも、ビトリアンは離さない。


 彼の腕は、さっきよりもさらに強くなった。

 まるで、雷の力さえも封じ込めようとするかのように。


「放しなさいよ!!」


 ティチェルリスは叫んだ。

 しかし、ビトリアンの青い瞳が、ふと微かに光を宿す。


 けれど、その表情に"怒り"はなかった。

 ただ、淡々と、"作業"をしているような顔をしている。


(この男……!!)


 怒りと恐怖が入り混じる。

 ティチェルリスの体温が急激に上昇し、蒸気が立ち上った。


(もういや……こんなの、もういや……!!)


 全身が爆発するかのように、力が暴走しそうだった。


「……嫌がらせがしたいの?」


 かすれた声で、ティチェルリスは言った。


 けれど、もう怒る気力もなかった。

 何もかも奪われた後では、何も感じなくなってしまっていた。


 そんな彼女を見下ろしながら、ビトリアンはしばらく無言で彼女を見つめ――


 一瞬、何かを考えるように目を伏せた。


 そして――


 優しく微笑んだ。


「……っ!!」


 ティチェルリスの瞳が、揺れる。


(……なに? なんで笑うの?)


 恐怖と混乱で、心臓がバクバクと鳴る。

 鼓動が速くなり、喉の奥がひどく詰まるような感覚に襲われる。


 すると、ビトリアンはゆっくりと手を伸ばし――


 ティチェルリスの頭を撫でた。


「……っ!!」


 ゾワリと鳥肌が立つ。


 まるで、哀れみでもするかのように、彼は優しく、優しく撫でる。

 ゆっくりと、何度も、何度も。


「……な、なんなの……こわい……さわらないで。離れて……」


 彼女の声は震えていた。


 そして――涙が溢れた。


 ビトリアンは、そんなティチェルリスの姿をただじっと見つめ、


「……訓練。」


 と、静かに言った。


「何が訓練よ!!」


 ティチェルリスの怒りが弾ける。


 バチバチバチッ!!!


 再び、雷の力が溢れた。

 けれど――


 次の瞬間。


 ビトリアンはティチェルリスの額に、そっと キス を落とした。


 チュッ。


「……!!?」


 ティチェルリスの思考が、衝撃で止まる。


 動けない。

 何が起こったのかわからない。


 ビトリアンは、彼女を抱きしめながら、優しく、優しく頭を撫でる。


 なで、なで。


 まるで子供をあやすような、落ち着かせるような、静かな動作。

 けれど、それが余計に不気味で、理解できなくて――怖い。


「……っ……」


 ティチェルリスは、どうしていいかわからず、ただ泣くことしかできなかった。



翌日も――

 その翌日も――


 ティチェルリスの大事なものは、無慈悲に燃やされ続けた。


 美しく繊細な刺繍が施されたドレスは、炎に呑まれて黒く縮み、崩れていった。

 子供の頃から大切にしていたぬいぐるみは、焦げ、弾け、最後には無惨な灰になった。

 兄からの手紙は、燃え尽きる寸前までかすかに文字を残していたが、最後にはただの白い灰に変わった。


 燃え尽きるたびに、ティチェルリスの心も少しずつ削られていく。

 悲鳴をあげる気力すら、もうなかった。


 最後に残されたアクセサリーたちは、燃やされることはなかった。

 代わりに、売却証明書を突きつけられた。


「……売った……の?」


 虚ろな声が、牢獄に響く。


 執事が無言で差し出した書類には、公爵家の印と、確かに彼女の持ち物が"貴金属類"として売却された記録が残されていた。


(……何も……残らない……)


 今まで大切にしてきたものが、一つ残らず消えていく。

 それが何日続いたのか――もう数えることすら無意味だった。


 心が、しんでいく。


 絶望が、深く深く沈み込んでいく。


 目の前で燃え尽きていく記憶を見ても、もはや涙すら出てこなかった。


(……なんなの……)


(……楽園だったじゃない……)


 結婚してからの日々は、それなりに楽しかったはずだった。

 屋敷の使用人たちは優しく、温かく迎え入れてくれた。

 食事もおいしく、好きなことをして過ごせた。


 なのに――


 今は、冷たい石造りの牢屋で、身一つの状態で押し込められている。


 お風呂にも入れない。

 着替えもできない。


 数日経ち、肌はかさつき、髪は絡まり、不快感だけが増していく。

 美しく整えていた銀髪は、すっかり乱れてしまった。


 狭い牢の中で、与えられるのは最低限の水と食事だけ。

 以前のような温かくておいしい料理ではなく、味のしない栄養食のようなものだった。


 トイレに行くときだけ、手錠をつけられ外へ出された。


 羞恥心など、とうに消え去った。

 それすら拒めば、ビトリアンの電流が走り、強制的に動かされる。


 電流は、ただ痛いだけではなく、全身を痺れさせる。

 自由を奪い、意識が遠のくほどの強さだった。


「……もう、何もいらないから……」


 呟いた声は、自分のものとは思えないほど冷たかった。


 ただ、何も考えず、時間が過ぎるのを待つ。

 いつか終わることを願うだけの時間。


 それでも――


 ビトリアンは、必ず毎日、訓練と称して抱きしめてきた。


 ティチェルリスは最初、何度も何度も抵抗した。

 噛みつき、蹴りつけ、爪を立てた。

 けれど、彼はそのすべてを黙って受け止め、決して手を離さなかった。


 そして今――


 もう、抵抗する気力すらない。


 ただ、力なく彼の腕の中にいる。

 温もりを感じるのに、それは決して心地よくなかった。

 むしろ、何日もお風呂に入れず、汚れた自分を抱きしめられることの方が、今は不快で仕方がなかった。


(もう……触らないで……)


 けれど、そう願うことすら、口に出す気力がなかった。


 何もかもが、奪われていった。


 怒る気力も、悲しむ力も、すべて削られて――


ティチェルリスの心は、ただただ沈んでいくばかりだった。


――——————

――————


翌日も、燃やされる光景は変わらなかった。


 もう、ティチェルリスは何も感じなくなっていた。

 抵抗しても無駄。

 叫んでも、泣いても、奪われるだけ。


 心はとうに壊れかけていた。


 けれど――


 その日、"それ"が運び込まれた瞬間、ティチェルリスの意識が急激に戻った。


 それは、母の絵姿だった。


 もう亡き母の、唯一の肖像画。


 幼い頃、母が優しく笑いながら「あなたが生まれたときに描かせたのよ」と言ってくれたもの。

 今では母の面影を思い出すための、たった一つの宝物だった。


 それを、鉄格子の向こうで執事がゆっくりと火のそばに運ぶのを見た瞬間――


「……っ!」


 ティチェルリスの体が、ガタガタと震え始めた。


 心臓が跳ね、喉の奥がひりつく。


 全身が燃えるように熱くなり――


「や、やめて!!」


 思わず叫んだ。


 これまで何もかも奪われてきた。

 ぬいぐるみも、手紙も、ドレスも、すべて灰にされた。


 でも――これだけは。


 これだけは、許せない!!!


「それだけは……やめええええええええええええええ!!!!」


 鉄格子に手を伸ばし、必死に叫ぶ。


 涙が止まらない。


 喉が張り裂けるほどの声をあげる。


 けれど、火は確実に母の肖像画へと迫っていく。


「いやあああああああ!!!!!」


 その瞬間――


 ティチェルリスの手から、何かが放たれた。


 それは、"水"だった。


 これまで、彼女が使えたのは"熱湯"だけだった。

 しかし、今放たれたのは――


 純粋な"水"だった。


 温度のない、澄んだ水。


 まるで涙のように透明なそれが、燃え盛る炎へと注がれる。


 ジュッ!!


 火は、一瞬にして掻き消えた。


 母の肖像画は、炎に呑まれることなく――燃やされずに済んだ。


 けれど――


 水に濡れ、ぐしゃぐしゃになり、床に落ちていた。


 それを見た瞬間――


「……ぁ……あ……」


 ティチェルリスは、声にならない嗚咽を漏らした。


 脚の力が抜け、崩れるように床に座り込む。


 涙が止まらなかった。


 大切なものが、かろうじて残った。

 けれど、それは"元の姿のまま"ではなかった。


 母の笑顔が、滲んでいた。


 それが、あまりにも辛くて――悔しくて――どうしようもなく悲しかった。


 その時だった。


「……おめでとう。」


 ビトリアンが、ぽつりと呟く。


 ティチェルリスは、びくっと肩を震わせた。


 彼はそっと手を伸ばし、ティチェルリスの頭を撫でた。


 優しく、優しく、まるで赤子をあやすような手つきで。


 だが――


 その"おめでとう"の意味が、ティチェルリスにはまったくわからなかった。


「……なにが……?」


 彼の言葉が、理解できない。


 何が"おめでとう"なの?

 何が"成功"なの?

 何が"良かった"の?


 奪われた。

 壊された。

 守れなかった。


 ――なのに、おめでとう?


 ティチェルリスは、ただ大きな声で泣いた。


どれほど泣いたかわからない。


 気がつけば、牢屋の扉は開かれ――


 ティチェルリスは、優しく手を引かれた。


 ぼんやりとした意識の中で、ふわりと広がる温かな空気を感じる。


 見上げると、使用人たちの心配そうな顔があった。


「奥様……!」


 彼らの手が、優しく彼女の体を支える。


 椅子に座らされると、すぐに濡れた髪を拭かれ、湯を張られた浴槽へと案内された。


 体をお湯に沈めると、じんわりと温もりが広がる。


 けれど――


 それでも、何も感じなかった。


 安堵も、嬉しさも、何もない。


 ただただ、虚無感だけが広がる。


(もう……どうでもいい。)


 何もかもが奪われ、涙も枯れ果て、何も考えたくなかった。


 静かに湯に浸かりながら、ぼんやりと天井を見つめる。


 いつもなら、この温かさに癒されるはずだった。

 けれど――


(何が楽園よ……。)


(ここは……地獄じゃない。)


 心の中で、そう呟いた。

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