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7話目

翌朝――。


 ティチェルリスは、何気なく食堂へと足を踏み入れた。


 ――そこで目にしたのは、とても珍しい光景だった。


(……え?)


 思わず足を止める。


 いつもなら空席のはずの食卓。

 けれど、そこには――


 ビトリアン・ガーナンドブラックが座っていた。


(え、ビトリアン!?)


 彼は、何の変哲もなく椅子に腰を掛け、静かに食事を取っていた。

 スープのスプーンを口に運び、パンを手に取る。

 まるで"それが日常"であるかのように、淡々と動作を繰り返している。


 しかし、ティチェルリスにとっては、これは"異常事態"だった。


 結婚してから何日も経つというのに、

 彼が自ら食堂で食事を取る姿を見たのは初めてだったからだ。


 いつも彼は、ほとんど食べず、屋敷のどこかでぼんやりしているのが当たり前だった。

 それなのに――。


「ビトリアン!? あなた、食事ができたの!?」


 驚きのあまり、思わず声が上ずる。


 しかし――


 ビトリアンは、ティチェルリスの方を一切見ず、ただ黙々と食事を続けた。


 青い瞳はただ遠くを見つめるように虚ろで、無表情のままスプーンを動かす。


 ――まるで"反応する必要はない"とでも言わんばかりに。


「……なによ! 無視!?」


 ティチェルリスは、むっと頬を膨らませる。


(せっかく話しかけてあげたのに!)


 椅子をがさつに引き、ドカッと座る。


 その瞬間――


 ビトリアンの動きが止まった。


 手に持っていたスプーンが宙で静止する。

 青い瞳が、ティチェルリスの方へとゆっくり向けられる。


 そして、彼はぽつりと呟いた。


「……無視じゃない。」


 そこから、わずかに息を吸い――


「おはよう。ティチェ……。」


 ティチェルリスは、固まった。


 目を見開き、動きを止める。


 さっきまで文句を言っていたのに、

 突然、彼が"愛称"で呼び、"挨拶"までしてきたのだ。


 彼が"おはよう"なんて言うのを聞いたのは、はじめてだった。


 しかも、ティチェ。


(え、今……ティチェって言った?)


 心臓が、ぎゅっと縮こまる。


 ほんの一瞬、思考が止まった後、慌てて顔をそらす。


「お、おはよう。」


 口元を押さえながら、ぽつりと返す。


 無意識に頬が熱くなるのを感じた。


(な、なんなのよ……急に!)


 いつも無反応なはずの彼が、いきなり挨拶をしてきた。

 しかも名前を呼んで。


 その違和感に戸惑いながらも、ティチェルリスはひそかに思った。


(……ちょっとは、心を動かせたのかしら。)


 そんな二人のやり取りを、食堂に控えていた使用人たちは黙って見守っていた。


 誰も言葉にはしないが、ほほえましいという感情が空間に満ちている。


―————————

――—————


 そして、食事が終わった直後。


 ティチェルリスが食後のお茶を楽しもうとしていた、その瞬間――


 ビトリアンが、すっと手を伸ばした。


 そして、ティチェルリスの手を引いた。


「えっ!?」


 突然の行動に驚き、椅子がギィッと音を立てる。


 ビトリアンは何も言わず、そのまま立ち上がり、ティチェルリスの手を引いて歩き出した。


「ちょ、ちょっと! どこ行くのよ!?」


 あまりに唐突な展開に、ティチェルリスは慌てて抗議する。


 しかし、ビトリアンは淡々としたまま歩を進め、向かった先は――


 地下への階段。


「ま、まさか……!?」


 重々しい石造りの階段が、ひんやりとした冷気をまとって続いている。


 足元の灯りが頼りない中、ティチェルリスは不安になってビトリアンの横顔を見た。


(えっ、何? もしかして私、地下牢に連れて行かれるの!?)


「ちょっと待ってよ! まさか甘い顔を見せて、私を牢屋に閉じ込める作戦!?」


 ビトリアンは、一瞬だけ足を止めた。


 そして、静かに首を振る。


「そうじゃない……。」


 淡々とした声。


「昨日、言った。訓練。」


 その言葉に、ティチェルリスはようやく思い出した。


「あ……そういえば……。」


 彼は、昨日、能力を制御するための訓練をすると言っていた。


 そして――


「牢屋の……壁は……魔法を通さないから……最適。」


 ビトリアンは、ぽつりと説明する。


「そうなの。」


 ティチェルリスは、ほっと息を吐く。


(な、なんだ……本当に閉じ込められるのかと思った。)


 とはいえ、屋敷の地下牢で訓練というのもなかなか異様な話だ。


 ビトリアンは静かに階段を降りていくが――


 その歩みは、やや重い。


 ティチェルリスは、ふと彼の様子をじっと見つめた。


(……歩くだけで、息が荒くなってる。)


 彼の胸が、かすかに上下する。

 いつもの無表情は変わらないが、どこか少し疲れているようにも見えた。


(大丈夫なの……この人?)


 ティチェルリスは心の中で呟きながらも、引かれるままに歩を進めた。


 しばらくして、たどり着いたのは、石造りの牢獄。

 しかし、妙に違和感があった。


 広い。


 そして、そこには本来あるべき牢屋の備品ではなく、大きなベッドがポツンと置かれていた。


「……なに、ここ?」


 ティチェルリスは眉をひそめながら、辺りを見回す。

 確かに鉄格子の扉があり、そこが牢屋であることに間違いはない。

 けれど、なぜか異様な生活感が漂っている。


 すると――


 カチャン


 背後で鍵が閉められた音がした。


「え!? ちょっ、ちょっと!?閉じ込められちゃったけど!!いいの!?」


 驚いて振り向くと、年配の執事が淡々とした表情で扉を閉めていた。


 ビトリアンは、そのまま静かに呟く。


「……いいの。」


「いいの、じゃないわよ!!」


 ティチェルリスは焦って鉄格子に手をかけ、執事をじっと睨んだ。

 すると、彼は黙々と何かを用意し始める。


(なにしてるの……?)


 不安になりながら、じっと牢の向こうの様子を見つめる。


 次の瞬間――ふわりと背後から抱きしめられた。


「……っ!?」


 びくりと肩を跳ねさせるティチェルリス。


「ビトリアン?」


 驚いて振り返ろうとするが、彼の腕がしっかりと体を拘束する。

 無表情の彼の腕が、強くも優しく、自分の体に絡みつく。


 手が、指が、そっと絡まる。


(なにこれ……心臓がバクバクしてる……!)


 首筋にかかる微かな吐息が、ひどくくすぐったい。

 全身が、熱くなる。


「え!? 何!? 訓練!? 訓練よね!?」


「……うん。」


 彼の声は、変わらず静かだった。


 しかし、距離が近すぎる。

 普段はあまり触れてこない彼が、今はぎゅっと抱きしめたまま、離れようとしない。


(……何が始まるの?)


 と、次の瞬間――


「始めてくれ。」


 そう言った直後、ティチェルリスの視界が大きく揺れた。


 「……え?」


 ティチェルリスの目の前で、火の手が上がった。


 最初は何が起こっているのかわからなかった。

 けれど、鉄格子の向こうで執事が淡々と"彼女の荷物"を燃やし始めたのを見た瞬間――


 全身が凍りついた。


「え? え?」


 ゆらゆらと揺れる炎。

 その中に、見覚えのあるものが次々と投げ込まれていく。


「ちょっ!? 何!? やめて!!やめさせて!!」


 ティチェルリスは思わず叫んだ。

 だが、その声は牢の外にいる執事には届かない。

 そして、彼女の身体は――ビトリアンの腕の中に拘束され、まったく動けなかった。


 ジリジリと焼かれる思い出。


 焦げた紙片がふわりと舞い、床に落ちる。


 ティチェルリスの大切な手紙が、炎に飲み込まれていくのを見て、心臓が跳ねた。


 「やめて!!」


 それは、幼い頃に兄がくれた手紙だった。

 何度も読み返し、折り目がすっかり擦り切れてしまったもの。

 それが、灰となって消えていく――。


「ちょっと!! アンタ!! 許さない!! 許さないわよ!!」


 彼女は必死に暴れようとした。

 しかし、ビトリアンの腕は強く、びくともしない。


 執事は次々と彼女の私物を燃やしていく。


 大切にしていたぬいぐるみが投げ込まれる。

 それは、母がまだ生きていた頃に買ってくれたものだった。


 焦げて、溶けていくぬいぐるみの姿が、目に焼きついた。


(嘘……やめてよ……!!)


 次に、ティチェルリスが生まれたときに父が仕立ててくれたドレスが炎に飲まれた。

 特別な日にはいつもそれを着て、誇らしげに鏡の前で回っていた。


 ひらりと舞った布が、みるみる黒く縮れていくのを、ただ見ていることしかできない。


(やめて……!やめて……!!)


 だが、誰も彼女の声を聞かない。

 ビトリアンは、ただ無言で抱きしめているだけだった。



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