52話目
――それから数週間が経った。
冬の寒さは依然として厳しく、ガーナンドブラック公爵領は雪に覆われたままだった。
白銀の景色が広がる中、ビトリアンは城内で渋々と準備を進めていた。
「……これ、派手すぎない?」
鏡に映る自分の姿を見つめながら、ビトリアンはぼそりと呟く。
彼の身に纏っているのは、深い青を基調とした豪華な礼装。繊細な刺繍が施され、肩や胸元には銀糸の装飾が煌めいている。
普段はシンプルな軍服や黒衣を好む彼にとって、これはかなりの違和感だった。
(ティチェが「たまには着飾りなさい」って言ったから……仕方なく着たけど……。)
こんなに豪華な衣装を着るのは久しぶりだった。 きっと、ティチェルリスの中では「公爵夫人としての見栄え」も大事な要素なのだろう。
(僕がシンプルすぎる服を着ると、社交界で彼女の立場が悪くなるから……とか言ってたな。)
心の中でぼやきつつも、結局彼女の言う通りにしてしまう自分に、ほんの少しだけ苦笑する。
「……。」
そのとき、不意に脳裏をよぎったのは――未来の自分が言っていた言葉だった。
『愛する人と1つになって溶けてしまいたいと…願ってしまったからでしょうね。』
(……あの時の……言葉。)
ふと、ビトリアンは鏡に映る自分を見つめながら、目を細める。
(――どうして、ティチェの体の中にいたのか?)
未来の自分にそう問いかけた時、返ってきた答え。
"愛する人と1つになって溶けてしまいたい"。
その言葉を聞いたとき、ビトリアンは思った。
(……なんとなく、わかる気がする。)
愛する人を、ただ抱きしめるだけでは足りなくなる瞬間。
もっと近くに。もっと深くに。
心も、体も、すべてをひとつにしたいと――そんなふうに思ってしまうことがある。
(でも……。)
未来の自分は、それを"実際に"やってしまったのだ。
(……いや、でもさすがに……1つになるのは、無理……。)
たとえ愛する人でも、実際に"溶けてしまう"なんてことは、考えただけで背筋が寒くなる。
触れたい。抱きしめたい。けれど、それは"別の意味で"の1つになりたいというだけであって、完全に同化するというのは、正直なところ恐ろしい。
(……それに、未来の僕……。)
思い出しただけで、ため息が出る。
『もたもたしてるから奪われるんだ。反省しろ。』
そう、今のビトリアンが未来の自分に対して思うことは――それだけだった。
(だって、僕は……。)
あの記憶を見て、"即行動"に移した。
未来の自分がもたもたしている間にティチェを奪われ、結果的に悲劇が起こったのなら――。
僕は、そんな未来を繰り返さないために、すぐに動いたのだ。
(――ティチェを迎えに行かなきゃって、即決した。)
それも、"その日のうちに"。
(王宮の舞踏会場にティチェを置き去りにしちゃったけど……。)
まぁ、その時は急いでいたから仕方ない。
ともかく、すぐにバルバータン伯爵家へ行き、契約を結び、結婚の約束を取り付けたのだった。
ティチェの父、バルバータン伯爵は驚いていたが、王命もあったため、特に問題なく了承してくれた。
(僕、よくやったよな……。)
己の胸を張りながら、ふと考える。
――たとえ、ちょっと強引だったとしても。
(……まぁ……王命が先だったから、ちょっと微妙だけど。)
実際には、王からの命令が先にあったため、完全に自分の手柄とは言えない。
けれど、それでも、すぐに動いたことは間違いではなかったと思っている。
(未来の僕よりは、マシだよな……。)
あんな悲しい未来にしないために。
ティチェを守るために。
そして――もう、誰にも奪われないように。
(……ティチェ。)
ビトリアンは、静かに目を閉じた。
(僕は、もう絶対に……君を手放さないから。)
ゆっくりと目を開き、鏡の中の自分を見据える。
青い瞳に映るのは――ただ、愛する人のもとへ向かおうとする"今のビトリアン"の姿だった。
「……ティチェ、待ってて。」
そう呟きながら、ビトリアンは礼装の襟元を正し、舞踏会へ向かう準備を整えるのだった――。
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ガーナンドブラック公爵家の広々とした玄関ホールには、煌びやかなシャンデリアの灯りが優しく揺れていた。
ホールの中央、長く優雅な階段の前に佇むティチェルリスは、静かに息を整えながら、ふと自分の姿を見下ろした。
青を基調とした、ビトリアンとお揃いの衣装。
深いロイヤルブルーのドレスは、動くたびに柔らかく揺れ、銀糸の刺繍が繊細な光を放つ。ビトリアンと並んだ時に映えるよう、デザインは彼の衣装と巧妙に揃えられていた。
(……意外と、この色、好きかも。)
ふと、胸元のブローチを指でなぞる。彼が纏う衣装の装飾と同じものが施されている。
「旦那様は、やはり時間がかかっているようですね。」
そんな彼女の隣で、侍女のダリアがくすりと微笑んだ。
「まあ……無理もないわよ。」
ティチェルリスは肩をすくめ、少しだけ苦笑する。
「ちゃんとした衣装なんて、彼が今までに着た回数は数えるほどしかないもの。」
ビトリアンは普段、戦闘用の軽装か、黒のシンプルな衣服を好む。装飾が多い衣装を着る機会など、ほぼなかったはずだ。
(だからこそ、こういう場ではちゃんとしてほしいのだけど……。)
そんなことを考えていると――
コツ、コツ――。
階段の上から、革靴が静かに床を叩く音が響いた。
ティチェルリスが顔を上げる。
そして――。
「……っ。」
一瞬、息を呑んだ。
漆黒の髪を後ろへ流し、深い青の礼装を纏ったビトリアンが、静かに降りてくる。銀の装飾が彼の鋭い輪郭を引き立て、青い瞳はいつも以上に深みを増して見えた。
月光の下で黒曜石が煌めくような、気品と威厳に満ちた美しさ。
(……やっぱり、整いすぎよね、この人。)
戦場でも王宮でも、その端正な顔立ちに感嘆の声が上がるほどなのだから、今の彼はなおさら見惚れるほどだった。
「………綺麗。」
思わず、ティチェルリスの唇から言葉が零れた。
その瞬間。
「………綺麗。」
不意に、ビトリアンの声も重なる。
二人は、同時に呟いてしまったことに気づき、はっと目を見開いた。
「……っ。」
「……っ。」
顔が一瞬で熱くなる。
そして、反射的に口元を押さえたのも――同時だった。
「……。」
「……。」
沈黙の中、見つめ合う二人。
ホールに微妙な空気が流れた次の瞬間――。
「ふふっ。」
「くすっ。」
執事のマルチェと侍女のダリアが、抑えきれない笑みを零した。
ティチェルリスはそれに気づいて、少し頬を膨らませながらも、視線をビトリアンへ戻した。
彼は、ほんのわずかに目を伏せながら、少し居心地悪そうに息をつく。
「時間……かかって……。」
そう言いかけて、ふと視線をティチェルリスの姿に落とした。
青のドレス、揃えられたブローチ。
「……ううん。」
彼は、ふっと微笑んだ。
「時間かかってごめん。……ティチェ。」
優しく呼ばれる名前。
ティチェルリスの心が、じんわりと温かくなる。
「さぁ、行こう。」
ビトリアンが、静かに手を差し出した。
ティチェルリスは、彼の手を見つめる。
――こんなふうに、彼が手を差し出すのは、ほんの少し前までは考えられなかった。
無骨で、恋愛に不器用で、それでもどこか優しくて。
変わろうとしているビトリアンの姿が、今の彼にはあった。
(……素敵よ、ビトー。)
目を細めながら、ティチェルリスはそっと微笑む。
そして、迷うことなく、彼の手を取った。
指先が触れ合った瞬間、優しく、けれどしっかりとした力がティチェルリスの手を包み込む。
「行きましょう、旦那様。」
「……うん。」
二人は、並んで歩き出した。
まるで、おそろいの青が寄り添うように――静かに、夜の舞踏会へと向かうのだった。




