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5話目

ティチェルリスは、満面の笑みを浮かべながらビトリアンの寝室へと戻ってきた。

 手には、見るからに怪しい色をした液体がたっぷり入ったカップ。


 部屋の扉を開けた瞬間、ふわりと漂うのは――


 異様な香り。


 酸味と甘味と苦味が、まるで戦争でも始めるかのようにぶつかり合い、空間全体に広がっていた。

 暖炉の温もりに混じるその香りに、すでに部屋の空気がただならぬ状態になっていることを示している。


 そんな中、ティチェルリスは何の迷いもなく、ずかずかとベッドへと歩み寄る。


「できたわよー!」


 彼女は勝ち誇ったような笑顔でカップを差し出した。


 ベッドに横たわるビトリアンの前に、そのカップが差し出される。


「さぁ、飲んでみて!」


 彼女の期待に満ちた声が弾む。


 ビトリアンは、一瞬カップを見つめた。


 淡々とした視線が、その不穏な液体をじっと捉える。

 そして――


 ゆっくりと、ティチェルリスへと目を向けた。


(……ん?)


 ティチェルリスは期待でキラキラと輝く瞳で見つめ返す。


 しかし、彼の視線には何の感情も浮かんでいない。

 まるで、ただの物体を見ているような無関心な目。


 けれど、何も言わずにカップを受け取ると――


 ゆっくりと、一口。


 ゴク……


 数秒の沈黙。


 そして――


「……まずい。」


 ぽつりと、一言。


 ティチェルリスの顔が、ぱっと輝いた。


「そう! まずいのね!」


 まるで"大発見"でもしたかのように、彼女は喜びに満ちた声を上げる。

 無感情な公爵が、感想を言った。


(やったわ、感想を言わせてやったわ!)


 まさかの反応に、ティチェルリスは大満足。

 ここぞとばかりに、もう一口飲ませようとぐいっとカップを押し付けた。


「ほら、もっと飲んで! 体にいいのよ!」


 ビトリアンは、一瞬だけ視線をそらした。

 まるで、"もう十分だ"と無言で伝えているかのように。


 しかし、ティチェルリスの強引さには抗えず、再びもう一口。


 ゴク……


 ティチェルリスは、満足げに頷いた。


「これであなたの風邪はすぐ治るわ!」


 その場にいた使用人たちは、静かに思った。


(……坊ちゃま、本当に大丈夫なのでしょうか……?)


 しかし、その瞬間――


 ビトリアンが、初めて自分の意思で動いた。


 ティチェルリスが気づく前に、ビトリアンは静かに体を起こした。

 無言のまま、ゆっくりとティチェルリスに近づく。


「……?」


 ティチェルリスは目を瞬かせた。


(あれ、珍しい……? なんか近くない?)


 次の瞬間――


 ――ビトリアンの手が彼女の頬に触れた。


 そして、ふわりと、彼の顔が近づいてくる。


 ティチェルリスの青い瞳が、大きく見開かれる。


「えっ……?」


 驚く間もなく、柔らかな唇が、彼女の唇に触れた。


……口移し。


 それは、一瞬の出来事だった。


 ビトリアンは、ただ無表情のまま、ティチェルリスの口にジュースを流し込んだ。


 ゴクッ……


 ティチェルリスは、何が起こったのか理解する前に――


 味覚が崩壊した。


「……うええええええええええええ!!」


 顔を歪め、絶叫する。


「おげぇぇぇぇぇ……!!」


 あまりのまずさに、ティチェルリスは容赦なく吐いた。


 "令嬢"とは思えぬ見事な吐きっぷり。


 その場にいた使用人たちは、全員顔面蒼白になった。


 料理長は、もはや膝をつきそうな勢いで呟く。


「お、お奥様が……!!!」


 ティチェルリスは、地面に手をつきながら、ぜぇぜぇと肩で息をする。

 口の中に残る、最悪の味。


「……なにこれ……なにこれ……」


 震える声で呟きながら、ようやくビトリアンを見上げた。


 そこには――


 フッ……


 鼻で笑う、無表情な公爵の姿。


「…………」


 ティチェルリスは言葉を失った。


 (え、ちょっと待って、今……鼻で笑った!?)


 いつも何も感じていない彼が、確かにわずかに笑ったように見えた。


(……これ、もしかして、仕返し……!?)


 ティチェルリスが驚愕していると、ビトリアンは何事もなかったかのように再び布団をかぶる。


 静かに、眠る体勢に戻った。


 寝室にいた使用人たちは、ティチェルリスの惨状を目の当たりにし、同時に絶叫した。


「坊ちゃまが動いたあああああ!!」

「坊ちゃまが笑った!? 笑ったぞ!!」

「お、お二人が……キ、キ、キスを……!?」


 屋敷中に響く、使用人たちの歓声とも悲鳴ともつかぬ声。


 ティチェルリスは、そのどよめきを聞きながら、ただ呆然と天井を見つめた。


(……なんか、負けた気がする)


 こうして、公爵の初めての"反撃"が記録された。


――———————

――————

翌朝――。


 ティチェルリスは、ぼんやりとした意識の中で目を開けた。

 しかし、視界はぼやけ、頭はズキズキと痛む。


(……なんか、すごくだるい……)


 体が重い。

 喉が痛い。

 全身が熱っぽく、じんわりと汗が滲んでいた。


 彼女はゆっくりと指先を額に当てた。


(あれ、熱い……?)


 なんとなく察する。


(……もしかして、風邪ひいた……?)


 昨日、ビトリアンに口移しであのヤバイ液体を流し込まれた瞬間が脳裏に蘇る。


「うええええええええええええええええええええええ!!」


 と、情けないほどの声を上げ、床に崩れ落ちた自分――。


(あの時……! まさか……!)


 彼女はハッと目を見開く。


(ビトリアンの風邪、うつった!?)


 熱でぼんやりとしながらも、昨日の一連の流れを思い返す。


 まずいジュースを作る→飲ませる→無理矢理口移しされる→飲まされる→菌が移る→今。


(おかしい……! 私が看病してあげるはずだったのに! なんで私がこんな目に……!)


 ティチェルリスはぐるぐると考えながら、弱々しく布団を抱きしめた。


(しかも、あれが私の初キス……!? あんな、まっずいキスが!?)


 改めて状況を整理すればするほど、心の中に謎の敗北感が広がっていく。


(負けた……完全に負けた……)


 じわじわと落ち込んでいると――


バンッ!!


 突然、扉が豪快に開かれた。


 強引すぎる入室。

 それだけで、ティチェルリスの体がビクッと跳ねた。


「……ッ!?」


 驚いて顔を向けると――


 そこにいたのは、すっかり元気になったビトリアン・ガーナンドブラック。


 相変わらずの無表情だが、どこか昨日よりも肌の血色がよく、妙にスッキリした顔をしている。


 そして――


 彼の手には、見覚えのあるカップがあった。


「え……まさか……」


 ティチェルリスの顔から、サーッと血の気が引く。


 カップの中では、異様な色の液体が、ドロリと波打っていた。

 まさしく昨日、**彼女が作った"あのヤバイジュース"**だった。


 ビトリアンは、それを静かに掲げた。


「……お前も飲め。」


 低く、淡々とした声。


 ティチェルリスの青い瞳が、カップと彼の顔を交互に見つめる。


「ちょっ、まっ……え、待って!?」


 弱った体では逃げることもできず、布団にくるまったままじりじりと後ずさる。


「いや、だって……あれ、すっごくまずかったじゃない!? ねえ、わかるでしょ!? 自分で飲んだんだから!!」


 必死に抵抗を試みるが、ビトリアンは微動だにしない。


「飲んだ。まずかった。」


「でしょ!? ならわかるじゃない!?」


「……でも、治った。」


「え?」


 ティチェルリスは、一瞬動きを止めた。


 確かに、目の前のビトリアンは昨日のぐったりした様子とは見違えるほど元気になっている。

 熱も引き、喉の痛みもないのだろう。


(まさか、本当に効いたの……?)


 驚きと疑念が交錯する中――


「だから、お前も飲め。」


 そう言うなり、ビトリアンは彼女の腕を掴んだ。


「えっ、ちょっ……!」


 ティチェルリスは抵抗しようとするが、風邪で弱った体では力が入らない。


 次の瞬間、ビトリアンの手が彼女の体をぐいっと引き起こした。


「わわっ!!」


 瞬時に姿勢を正され、もたれかかる形でビトリアンの胸元に引き寄せられる。


 顔が近い。

 心なしか、昨日よりも彼の体温を感じる距離。


 そして――


 カップが、静かに唇へと近づけられる。


「……無理矢理飲ませたのは、お前だろう。」


 ティチェルリスの顔が凍りつく。


 (あ、これ、完全に仕返しの流れじゃん……!!)


「ちょっ、待って待って!!」


 もがくも虚しく、カップが傾けられる。


 ゴクッ……ゴクッ……


 喉を通る、昨日と変わらぬ絶望の味。


 ニンニクの刺激、レモンの酸味、ハチミツの甘さ、牛乳のまろやかさ……それぞれが喧嘩しながら襲ってくる悪夢のような味わい。


「んっ、ぐえええええええええええええ!!」


 ティチェルリスは、泣きそうな顔で叫んだ。



 「おげぇぇぇぇぇぇ……!!」


 ぐらりと体を揺らし、ベッドの上でうずくまる。


 (なんなのこれ!? なんなのこれ!!)


 昨日、自分で作った時は「栄養満点!」と思っていたのに、いざ飲んでみると吐き気しか感じない。

 よくこんなものをビトリアンに飲ませたものだ、と今さらながらに自分の行いを悔やむ。


 「……」


 そんな彼女の様子を見ながら――


 ビトリアンは、無表情のまま鼻で笑った。


 「……フッ。」


「…………!!!」


 ティチェルリスは顔を上げ、絶句する。


 まさかの二日連続、ビトリアンに笑われた。


(やばい……! 昨日も負けたのに、今日も負けた!!)


 そう思った瞬間――


「坊ちゃまが……! また笑った……!!」


「お、お二人ともキスに続き、今度は看病プレイを……!?」


「奥様が、あの恐ろしいジュースを……!!」


 屋敷中の使用人たちが、またしても大騒ぎ。


 バタバタと駆け込んでくる使用人たちの中で、ティチェルリスはただただうずくまる。


 (ぐぬぬぬぬぬぬ……!!)


 ビトリアンの方を見ると、彼はすでに部屋を出ていた。

 まるで、"やることはやった"と言わんばかりのマイペースさである。


 ティチェルリスは、悔しさに歯ぎしりした。


(……次こそは絶対に負けないんだから!!)


 こうして、二日連続の敗北が刻まれたのだった。



あとがき ~廃人公爵、動く。~


「ビトリアン様が厨房に……!?」


 その報せが屋敷中を駆け巡ったのは、ティチェルリスが熱で倒れた翌朝のことだった。


 誰もが、耳を疑った。

 あの無感情で、いつもボーッとしていて、命令されなければ動かないとすら思われていたビトリアン・ガーナンドブラック公爵が、"自らの足で"厨房に向かっている。


「ちょ、ちょっと待って! 坊ちゃまが!?」

「ご、ご自分の意思で!? 何が起きたんですか!?」


 驚愕と混乱の声が次々と上がる。

 誰かの冗談かと思ったが、しっかりと彼の姿が廊下を歩くのが目撃されていた。


ガーナンドブラック公爵、厨房に降臨。


 厨房のドアが、静かに開かれた。


 料理人たちは、鍋をかき混ぜながら談笑していたが、扉の向こうに立つ影を見た瞬間、時間が止まった。


 そこにいたのは、ビトリアンだった。


 静かに、淡々とした足取りで厨房へと入ってきた彼を見て、料理人たちは思わず硬直する。


 ビトリアンの無表情な青い瞳が、じっと彼らを見つめた。


「……ジュースを作る。」


 その言葉が発せられた瞬間――


 料理人たちは、目を見開いた。


 (えっ……? えっ……!?)


「じゅ、ジュース!? 坊ちゃまが!?」


「ちょ、ちょっと待ってください坊ちゃま、なぜジュースを!?」


「ど、どなたかお作りしましょうか!? すぐに! すぐに!!」


 当然の申し出だった。

 今までビトリアンが何かを"自ら作ろう"としたことなど、ただの一度もなかったのだから。


 しかし、彼は首をゆっくりと横に振った。


「……自分で作る。」


 その言葉が響いた瞬間、厨房の者たちは――


 完全にパニックに陥っていたのだった。



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