49話目
――夜の闇を切り裂くように、青白い雷光が空を舞った。
ビトリアンはプラズマ体となり、大気中を漂いながらティチェルリスの気配を探していた。
(どこだ……ティチェ……。)
冷たい風が吹き抜ける。
視界は悪いが、魔力を使えば、彼女の痕跡を辿ることはできるはずだった。
その時――。
『ビトー、あっちよ!』
不意に、どこからともなく響く声。
ビトリアンが顔を上げると、視界の端に雷の人魂がふわふわと揺れていた。
それは、未来のティチェルリスの雷の魔力――彼女がビトリアンを導こうとしている証拠だった。
(未来のティチェ……。)
彼はすぐにそちらへ向かって疾走する。
雷の人魂が進む方角に従い、森の中へと降り立った。
魔力の痕跡が強く残るその場所に、ティチェルリスがいるはず――。
だが――。
「……っ!」
ビトリアンの足が止まる。
そこには、誰もいなかった。
けれど、微かに雷の残り香が漂っていた。
彼女がここにいたのは間違いない。
(近い……すぐそこにいるはずだ。)
――しかし、その場に膝をつく。
「はぁ……っ、はぁ……っ……。」
魔力を維持しながらの高速移動は、予想以上に体力を奪う。
思わず肩で息をするビトリアンの耳元で、再び未来のティチェルリスの声が響いた。
『ビトーったら……身体を鍛えてないのですか?』
呆れたような声音に、ビトリアンは苦笑しながら顔を上げた。
「うん……悪いけど……あなたが……知っている……僕じゃ……ない……から。」
呼吸を整えながら、額の汗を拭う。
未来のティチェルリスは、くすっと笑うような気配を見せながら、軽やかに言った。
『ほんとに彼はあの子の中にいるのよね?』
ビトリアンは、少しだけ間を置き、静かに頷く。
「うん……間違え……ない……と思う。」
確かに感じた。
ディアンナの中に眠っていた未来のティチェルリスの魔力。
ならば、未来のビトリアンが今のティチェルリスの中に潜んでいる可能性も、極めて高い。
すると――未来のティチェルリスの声が、少しだけ強くなった。
『でも、彼なら、きっとあなたの体を乗っ取ろうとするわ。』
ビトリアンの手が、ぴくりと動いた。
「……。」
彼なら、きっと。
未来のビトリアンなら、必ずそうする。
ビトリアンは思わず、視線を空へ向けた。
「……あなたも……未来の僕も……どうして……そんなに……天才なの……。」
ぽつりと呟き、がっくりと肩を落とす。
――あまりに違いすぎる。
未来のビトリアンは、緻密に計算し、策略を巡らせている。
未来のティチェルリスも、聡明で、すべてを先読みしているような口ぶりだった。
(僕だけ……取り残されているみたいだ。)
その瞬間――。
『だって、私も彼も、なんでもできるんですもの。』
未来のティチェルリスは、さらりと言ってのけた。
彼女の声はどこかお転婆な雰囲気を残しつつも、今のティチェルリスとは違い、堂々としていて、気品に満ちていた。
(こんなこと……今のティチェに言ったら、間違いなくビンタされるな……。)
少しおかしくなって、苦笑が漏れる。
けれど、今はそんなことを考えている場合ではない。
「……。」
ビトリアンは、深く息を吸い込むと、静かに目を閉じた。
――力を補給する。
ゆっくりと両手を掲げ、空を見上げる。
雷鳴が轟く。
夜空に微かな稲妻が走り、そのエネルギーがビトリアンの体へと流れ込んできた。
「……っ。」
体の奥から、力がみなぎる。
魔力が巡り、鼓動が次第に落ち着いていく。
――ティチェ……。
会いたい。
その気持ちだけが、彼を突き動かしていた。
ビトリアンは拳を握りしめると、再び足を踏み出した。
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――——————
――夜空を裂くように、青白い雷光が閃いた。
その光を見た瞬間、ティチェルリスの心臓が跳ね上がる。
「やっぱり! ビトーがすぐそこまで来ちゃってるじゃない!」
焦燥感に駆られ、ティチェルリスは再び駆け出した。
森の中を必死に走る。
冷たい風が肌を切り、枯れ葉が足元で舞い散る。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ――!!)
その時――。
「ティチェ!!」
ビトリアンの声が響いた。
振り向かずとも、すぐそこまで迫っているのがわかる。
ティチェルリスは叫び声を上げた。
「きたーーー!!!」
とにかく全速力で走る。
荒い息遣いが夜の静寂を切り裂く。
だが、彼女の足音と同じくらい、ビトリアンの足音も近づいてきていた。
「待って!!!」
ビトリアンの声がさらに近くなる。
森の木々の間を駆け抜けながら、ティチェルリスはぎゅっと歯を食いしばった。
(もう少し……もう少しだけ逃げられれば――!)
しかし――。
限界は、突然やってきた。
「――っ!」
ティチェルリスの足が絡まり、体が前へ傾ぐ。
バランスを崩し、そのまま地面に膝をついた。
(くっ……! 体力が――!)
肩で息をしながら、じりじりと後ずさる。
今にも倒れそうな体を支えながら、ビトリアンを睨みつける。
「待って!! 近づかないで!!」
ビトリアンの足が止まる。
彼は戸惑いながら、手を伸ばしかけた。
「ティチェ……っ」
「もう一緒にいられないの!!」
ティチェルリスの声が震えた。
言葉を発するたびに、胸が締め付けられるように痛い。
けれど――。
「だから……こないで!!!」
そう叫んだ瞬間――。
ビリビリビリッ!!!
ティチェルリスの体を、雷の魔力が激しく渦巻いた。
「……っ!?」
ビトリアンが驚いて後ずさる。
まるで彼女の体が暴走する魔力に乗っ取られたかのようだった。
迸る雷光が、周囲の木々にまで影響を与え、枝葉がバチバチと音を立てて震える。
「まずいわ!!!」
ティチェルリスは必死に魔力を抑えようとするが、止められない。
ビトリアンの存在が近すぎる――このままでは、共鳴が起きてしまう。
(だめ!! 近づいちゃ――!!!)
――その時。
『ビトー、ビトー、わかる? 私よ。』
雷の渦の中から、どこか懐かしい声が響いた。
未来のティチェルリスの声。
次の瞬間――。
バチッ!!
雷の暴走が止まり、周囲の空気が静まる。
まるで、嵐の前の静けさのように。
ビトリアンが息を呑む。
『……ティチェ!?』
その声が響くと同時に――。
青白い光が形を持ち、二つの影がゆっくりと実体化していく。
それは――。
未来のビトリアンと、未来のティチェルリスだった。
『ビトー……もう、こんなことしないで……。』
未来のティチェルリスが、どこか哀しげな表情で呟く。
しかし、その言葉を聞いた未来のビトリアンは、静かに微笑んだ。
その微笑みは、どこか狂気じみていた。
『ティチェ……ちょうど良かった。』
彼は、優雅に手を差し出す。
『二人で……二人の体を乗っ取ろう。』
ティチェルリスの全身が凍りつく。
『……え?』
『僕たちが、本来あるべき姿に戻るんです。』
未来のビトリアンの声は、どこまでも穏やかだった。
けれど、その言葉の意味は、あまりに恐ろしかった。
『ビトー、だめよ!! そんなこと、やめて……!!』
未来のティチェルリスが彼の腕を掴む。
しかし――。
『もう一度、愛し合うためです。』
未来のビトリアンは、ただ淡々と告げるだけだった。
『だめ!! ビトー!!!』
未来のティチェルリスが叫ぶ。
その瞬間――。
ゴゴゴゴゴッ!!!
強烈な魔力が爆発し、雷と雷が衝突するような轟音が響き渡った。
――大共鳴が起こる。
激しい磁場の乱れが発生し、周囲の空間がねじれるように歪む。
雷の波動が交差し、森全体が大きく揺らぐ。
そして――。
周囲の空間が歪み、ティチェルリスの頭の中に、強烈な光景が流れ込んできた。
(……なに……これ……!?)
視界の端が滲む。
意識が引きずられるように、目の前に鮮明な映像が広がっていく。
寂しげな皇后宮――。
冷たい石壁に囲まれた広大な空間。
かつては煌びやかだったであろう室内は、今はどこか陰鬱な空気を纏っていた。
窓から差し込む光は薄く、そこに横たわる一人の女性を白く照らしていた。
ティチェルリス――。
その姿は、あまりにも痛ましいものだった。
青白い肌、やせ細った体。
かつての気高く聡明な姿はどこにもなく、ただ細い指が震えながらシーツを握りしめている。
『ティチェルリス様!! しっかりしてください!!!』
王室騎士団の制服をまとったビトリアンが、必死に彼女の手を握っていた。
焦燥の滲む青い瞳。
彼は何度も名前を呼び、震える声で彼女に語りかける。
『ティチェ……頼むから……目を開けて……!!』
しかし、ティチェルリスは薄く開いた瞳で、ただ静かに彼を見つめるだけだった。
それすらも、もう長くは続かないように見えた。
『……ビトー……。』
彼女の声は、あまりにもか細い。
それでも、確かに彼を呼んでいた。
だが――。
ティチェルリスの顔に、悲しげな影が落ちる。
そして、視線が横に向けられた。
第一王子――。
王宮の威厳を纏い、静かに佇むその男は、ただ冷ややかに二人の様子を見下ろしていた。
『ビトリアン。』
その声には、何の感情もない。
まるで、何かの"契約"がすでに成立してしまったかのように、淡々とした響きを持っていた。
『彼女は……もう限界だ。』
その言葉に、ビトリアンの表情が凍りつく。
『……何を、言っている?』
『君がそばにいる代わりに、彼女が何をしたのか……理解しているのか?』
王子はゆっくりと歩み寄り、ティチェルリスの髪を指でなぞるようにしながら、微笑んだ。
『ティチェルリスは――長年、王宮の貯水槽に魔力を溜め続けていたんだ。』
貯水槽――魔力で満たされた水をため込む場所。
それは、王家が持つ強大な魔力を維持するためのシステムだった。
『彼女は、君と共にあるために、この身を削ってまで魔力を提供していたんだよ。』
その瞬間、ビトリアンの脳裏に、これまでの出来事が一気に繋がる。
――ティチェルリスが、長年続けていた"契約"。
――彼女の体が、日ごとに衰弱していった理由。
――それでも、彼女が決して何も言わなかった理由。
(そんな……。)
ビトリアンの手が震える。
『嘘だ……。』
『嘘ではないさ。』
王子は淡々と言い放つ。
『ティチェルリスは、契約の対価として、君をそばに置くことを許された。だが……彼女の魔力は、もう残っていない。』
『そんなこと……ティチェが、そんなことを……!!!』
――知らなかった。
彼女が、そんな犠牲を払っていたなんて――。
『ビトー……。』
彼女の指が、彼の手の甲にそっと触れた。
『もう、いいのよ……。』
――静かな微笑み。
それはまるで、すべてを受け入れたかのような、穏やかな微笑みだった。
『ダメだ!! そんなの、絶対に許さない!!!』
ビトリアンは必死に彼女を抱きしめる。
『ティチェ……!! 目を開けて!! まだ終わってなんかいない!!!』
しかし――。
ティチェルリスの瞳が、ゆっくりと閉じていく。
『……。』
『ティチェ!!!!!』
「ビトー!!!」
――現実のティチェルリスが叫ぶ。
目の前の映像を共に見ながら、ビトリアンは静かに彼女を見つめていた。
どこか穏やかな――それでいて優しい微笑み。
ただ――。
ふわりと、柔らかく微笑んだ。
そして――。
「大丈夫」
口パクでそう告げる。
次の瞬間、視界が白く染まる。
ティチェルリスの意識がぐらりと揺らぐ。
(ビトー……!!)
叫ぼうとするが、声にならない。
雷の波動が、全身を包み込む。
そして――。
すべてが、闇へと呑み込まれていった。