44話目
夜の闇を切り裂くように、ガーナンドブラック領地の公爵邸の上空に一筋の閃光が走った。
次の瞬間――。
バチバチッ……ッ!!!
空間が歪むような音とともに、ビトリアンの姿が門前に現れる。雷の魔力を纏った彼は、まるでプラズマのように空間を移動し、一瞬にして王宮から戻ってきたのだ。
「……ただいま。」
誰に向けたでもない小さな呟きを漏らしながら、そのまま館の中へと足を踏み入れる。広々とした玄関ホールを抜け、迷いなく向かう先は――浴室。
暖かな湯気が立ち込める浴室。湯船に身を沈めると、熱がじんわりと全身を包み込んだ。
ぶくぶくぶく……。
湯の中で口を沈め、細かく泡を立てながら目を閉じる。
(守るっていっても……ティチェみたいに頭よくないし……。)
脳裏に浮かぶのは、王からの圧力と、ティチェを守るために何をすればいいのかわからない自分。
(実際、どうすればいいんだ……。)
彼は、己の無力さを噛み締めるように湯の中で目を閉じる。
(……僕は……無力だ。)
王の言葉に、圧力に、ただ従うしかない現状。
ティチェを守ると誓ったのに、そのための"方法"すら見つけられない。
(……もし、あの日、あんな風に育っていれば……。)
頭の中に、もうひとつの"記憶"がよぎる。
未来の自分。
その思考、経験、知識……。
(もし、あの時の僕が、もっと違う育ち方をしていたら……。)
あの"未来の自分"なら、この問題をどう解決したのだろうか。
「……。」
答えは出ないまま、ビトリアンは静かに目を開け、湯から上がった。
濡れた髪をざっとタオルで拭きながら、ビトリアンは静かに寝室へと向かう。
ドアノブに手をかけ、そっと開くと、暖かな光が視界に広がった。
ベッドサイドのランプが淡い橙色の光を灯し、その光の下でティチェルリスが分厚い本を開いていた。
ページをめくる指先が、規則的に動いている。
ビトリアンの帰還に気づいたティチェルリスは、ぱっと顔を上げると、にこっと微笑んだ。
「ビトー!帰ってたのね!」
明るく、どこか安心したような声。
その笑顔を見た瞬間、ビトリアンの張り詰めていた心が、ほんのわずかに緩む。
しかし、それでも彼は言葉を発せず、ただ黙ったままベッドへと向かった。
布団の中に潜り込むと、ティチェルリスの隣でごそごそと身体を寄せる。
ひんやりとした体温が、布団の中でゆっくりと温まっていく。
そして――。
「ティチェ……。」
ビトリアンは、ふっと彼女の肩に顔を埋めるようにして、低く呟いた。
その声は、どこか弱々しく、頼るような響きを帯びていた。
「僕……どうして……こんなに……情け……ないんだろう……。」
ティチェルリスは、彼の異変にすぐ気づいた。
いつもは無表情で、何を考えているのか分かりづらい彼が、こうして素直に弱音を吐くことは滅多にない。
彼女は、本をそっと閉じ、布団の中で向き直る。
「どうしたのよ。王様に何か言われたの?」
「うん……言われた……。」
ビトリアンの声は、どこか疲れきっていた。
その瞳には、うっすらと陰りが差している。
ティチェルリスは少し考えた。
王が彼に何か言うとしたら……内容は、ほぼ決まっている。
「……子供はまだか……って?」
「……っ!」
ビトリアンの瞳が大きく見開かれる。
その動揺を見た瞬間、ティチェルリスはすぐに察した。
「その顔……当たりみたいね。」
「………ばれたか。」
まるで観念したように、ビトリアンは小さく息を吐いた。
ティチェルリスは、ふっと小さく笑う。
「王様にそう言われるの、嫌だった?」
「……。」
ビトリアンは何も言わない。
ただ、その目には、どうしようもない戸惑いと迷いが浮かんでいた。
ティチェルリスは、少し間を置いて、ゆっくりと彼を見つめる。
「ビトーは……私とそういうことするの、嫌なの?」
率直な問いだった。
ビトリアンの瞳が揺れる。
彼女の言葉が、思いがけず胸の奥を突いてきたように。
「違う……そうじゃ……ない……。」
「……じゃあ、今からしよっか。」
ティチェルリスは、柔らかく微笑みながら言った。
「……え?」
ビトリアンの動きが止まる。
まるで、何かの聞き間違いかのように、ゆっくりと彼女の顔を見つめた。
「……本気?」
ティチェルリスは、ゆっくりと彼の手を取り、そのまま自分の胸元へと導く。
「……。」
ビトリアンの指先が、ほんのりとした温もりに触れた瞬間――。
息をのむ音が、静かな寝室の中に響いた。
彼の指は、柔らかな肌に触れたまま、微かに震えている。
(……こんなに冷たくなってる。)
ティチェルリスは、彼の手をそっと包み込むように握りながら、そっと瞳を覗き込んだ。
ビトリアンの青い瞳は、驚きと、どこか迷いを孕んでいた。
「……ティチェ……。」
彼の指が、ほんのわずかに動く。
まるで、その温もりを確かめるように。
けれど――。
ビトリアンの瞳には、まだ迷いが見える。
(……この人は、本当はどう思ってるんだろう。)
王の圧力のせいなのか、それとも、自分に対する"ためらい"があるのか。
ティチェルリスは、彼の顔をじっと見つめながら、静かに息を吸った。
「ビトー。」
「……。」
「私といるの……嫌じゃないんでしょう?」
彼の指が、ぴくっと微かに動く。
「……嫌じゃない……。」
「じゃあ――」
ティチェルリスは、そのまま彼の首に手を回し、ゆっくりと顔を近づける。
「……ビトー。」
彼の名を呼ぶと、ビトリアンの呼吸が、かすかに乱れるのがわかった。
「……っ。」
ビトリアンの瞳が揺れる。
ティチェルリスの真剣な表情を見つめながら、彼は何かを決意したように、そっと彼女を押し倒した。
(ティチェ……。)
その目には、決意と不安、そして迷いが入り混じった複雑な感情が滲んでいる。
ゆっくりと彼の唇が降りてきた。
彼女の温もりを確かめるように、深く、そして優しく唇を重ねる。
ティチェルリスも、迷うことなく彼の背に腕を回した。
(……ビトー。)
彼の腕の中は、どこまでも温かく、しかしどこか不安げに震えているようにも思えた。
ゆっくりと、彼の指が動き出す。
服のボタンが一つ、また一つと外され、彼女の肩にそっと触れた指先が、慎重に滑り落ちていく。
「……っ。」
静かな寝室に、ティチェルリスの小さな息が漏れる。
彼の指が、彼女の鎖骨のあたりをなぞりながら、やがて――。
バチン!!!
「……っ!?」
突如、鋭い雷のような電流が弾け、ビトリアンの手が勢いよく弾かれた。
ビリビリと痺れる手を見つめるビトリアン。
「なっ……!? 何、今の……。」
戸惑いの色を浮かべながら、思わず手を握りしめる。
ティチェルリスも驚き、息を呑んだ。
(今の……雷の魔力!? でも、ビトーのじゃない……。)
"誰か"が、私の身体を守るようにして……ビトーを拒絶した!?
次の瞬間、ビトリアンの声が、小さく震えながら落ちてきた。
「ずっと……ずっとしようと……してきた。」
「……え?」
「ティチェが……寝てる間も……何度も……何度も……。」
ビトリアンのその呟きを聞いた瞬間、ティチェルリスは悟った。
(……未来のビトリアンの仕業ね。)
(あいつ……。)
彼が房事を妨害している。
しかも、私が寝ている間にビトーは、何度も試みていたということは、すでに何度も拒絶され続けていたのだ。
(私の身体すら、ビトーの手が触れないように守っている……。)
ティチェルリスは歯を噛みしめた。
(でも……これを今のビトーに言うわけにはいかない……。)
未来のビトリアンの存在を伝えれば、彼がどう思うか分からない。
疑心暗鬼になり、苦しませるだけかもしれない。
それに――。
(……王の圧力があるのよ!? こんなことしてる場合じゃないのに!!)
ティチェルリスは、迷ったが――すぐに決意した。
「……わかった。じゃあ、私が脱ぐわ!」
自分の手で、下着に手をかける。
だが――。
バチン!!!
「きゃっ!」
彼女の手さえ、同じように弾かれた。
(なんなの!? いい加減にしなさいよ!!)
(王から圧力がかかってるのよ!? ここでできなかったら、本当に……!)
ティチェルリスは心の中で未来のビトリアンに語りかける。
だが、返事はない。
ただ"沈黙"の中で、強制的に妨害された事実だけが、彼女を突きつけてくる。
「ティチェ……無理……だめ……。」
ビトリアンは、そんなティチェルリスをそっと抱き寄せた。
その腕の力は、まるで"大丈夫"と言っているかのように、優しくて、けれど確かだった。
「ダメでも!!……このままじゃ……私たち……。」
(このままじゃ、ビトーが……。)
ティチェルリスは必死に考えた。
けれど――。
彼の手が、そっと彼女の背を撫でる。
「僕……じゃ、知恵が……無い……から……。」
「……。」
「頼って……いい?」
ビトリアンは、いつになく不安そうに呟く。
ティチェルリスは、一瞬驚いたように彼を見つめ――。
「当たり前よ……当たり前じゃない!!!」
ぎゅっと、彼を抱きしめた。
「ビトーはいつも一人で何でもやろうとするけど、私はあなたの妻よ!」
「……。」
「私があなたを頼るのと同じように、あなたも私を頼って!」
ビトリアンの青い瞳が、少しだけ見開かれる。
「……うん……。」
彼の声が、かすかに震えた。
しばらく、二人は何も言わず、ただお互いの温もりを感じながら抱きしめ合っていた。
静かな夜。
互いの心音が、ゆっくりと重なるように響く。
やがて――ビトリアンが、ぽつりと呟いた。
「でも……僕が……電力供給で……体力……なくなるって……いったら……。」
「うん?」
「……来年……冬…から…暇を……やるって……。」
ティチェルリスの表情が変わる。
「……つまり、1年は猶予があるってことね。」
「うん……。」
ティチェルリスは目を伏せ、ゆっくりと息を吐く。
(1年……。)
(その間に、何とかしなきゃ……。)
未来のビトリアンの干渉をどうにかしない限り、王の命令に逆らうことはできない。
もし、このまま未来のビトリアンが妨害を続ければ――私とビトーは……。
ティチェルリスは、そっとビトリアンの顔を見上げた。
「……わかったわ。考えましょう。…一緒に。」
「うん……。」
ビトリアンは、ティチェルリスの髪をそっと撫でた。
その指先は、彼女を安心させるように優しく、けれどどこか頼りないほどに弱々しかった。
(僕が…情けない夫でごめんね。)
(ごめん、ティチェ……。)
(僕はほんとうに……君がいないと……何もできないんだ。)
ビトリアンの心の中で、静かに言葉がこぼれる。
ティチェルリスは、その気持ちを受け取ったかのように、彼の胸元にそっと顔を埋める。
「……ビトー。」
「……?」
「大丈夫よ。」
そう言いながら、ぎゅっと抱きしめる。
(大丈夫。何としても、この1年の間に解決策を見つける。)
未来のビトリアンが許さないのなら――その存在をどうにかするしかない。
静かな夜の中、ティチェルリスの心には、確かな決意が生まれていた。




