41話目
ティチェルリスの朝は、すっかり決まった日課になっていた。
朝はビトリアンと一緒に執務をこなし、書類の整理や領地の管理に追われる。
そして、午後になると決まって書物庫へ足を運ぶのが、彼女の日常になっていた。
(早くみつけなきゃ…。)
未来のビトリアン、雷の継承、魔力の仕組み……。
この公爵邸の壮大な書物庫には、まだまだ答えが眠っているはずだった。
「さてと……。」
書棚の前で、ティチェルリスはふと立ち止まった。
彼女が探していたのは、魔力の転移や継承に関する記録が残されている書物。
けれど、それはあろうことか、高い書棚の一番上に置かれていた。
「うぅ……またこんな高いところに……。」
ティチェルリスは腕を伸ばす。
爪先立ちになって、なんとか指先が触れるかどうかというところまで届いた。
「もうちょっと……あと少し……っ!」
しかし、指先がほんのわずかに触れた瞬間――本がするりと逃げるように動いた。
「えっ?」
――いや、違う。
誰かが、彼女より先にそれを取ったのだ。
ティチェルリスは驚いて振り返った。
「ビトー……?」
けれど、次の瞬間――彼女は目を見開いた。
「……って、違う方の……!」
目の前にいたのは、彼女が知っているビトリアンではなかった。
それは、王室騎士団の制服を纏った、もう一人のビトリアン。
未来のビトリアン。
彼の体はほんのりと淡い光を帯び、まるで月明かりのように透き通って見えた。
「お探しの本はこちらですよ。」
微笑みながら、ビトリアンはティチェルリスに本を差し出した。
(……また実体化してる。)
彼の姿がしっかりとした形を持って現れているということは――彼女の魔力を吸っている証拠だ。
ティチェルリスは本を受け取りながら、じとっと睨む。
「ちょっと、実体化するのはやめて。私の魔力を吸ってるくせに。」
「……。」
未来のビトリアンは、言葉の代わりにそっと彼女を抱きしめた。
「わっ、ちょっ……!」
突然のことにティチェルリスは慌てる。
彼の腕の感触は、まるで現実のもののようにしっかりしていて、温かささえ感じるほどだった。
(……うそ、これって……!)
未来のビトリアンの腕の中は、不思議なくらい落ち着く。
けれど――。
「拒絶するのは心苦しいけど、浮気になっちゃうわ。」
ティチェルリスは苦笑しながら、ゆっくりと彼を押し返した。
「ですが、僕はティチェの魔力そのものです。ただ……魔力に抱かれているだけです。」
「……でも、今のビトリアンがあなたにこうされてるのを見たらどう思うかしら。」
ティチェルリスが鋭く問いかけると、未来のビトリアンは微笑んだまま、少しだけ首を傾げた。
「さぁ……?見せてみますか?」
「言っていいの?」
「言ったら……今まで言わなかったことを、怒られてしまいますよ?」
ティチェルリスは、その曖昧な言い方に、思わず肩を落とした。
(その言い方、どっちよ。)
未来のビトリアンは、同じビトーなのに、今の彼とはまるで違う。
話し方も流れるようにスムーズで、表情もどこか余裕を持っている。
(ほんと……全然違うわね。)
「とにかく、私の魔力を消耗しない姿になって。」
そう言うと、未来のビトリアンは「……仕方ありませんね」と呟いた。
そして――。
ふわり、と。
青白い光の玉となり、ふわふわと漂い始めた。
(……これ、ほんとに同じビトーなの?)
ティチェルリスは呆れながらも、その光をじっと見つめる。
すると――。
「僕を消し去る方法でも探しているのですか?」
「……そうだけど。」
正直に答えると、光の玉はわずかに揺れた。
「ティチェはそんなに僕のことが嫌いですか?」
その問いに、ティチェルリスは少しだけ考え込む。
(嫌い……?)
違う。
彼のことを嫌っているわけではない。
むしろ、未来のビトリアンは、今のビトリアンと違った魅力を持っていて、話していると少し楽しく感じることさえある。
けれど――彼の存在が、今のビトリアンを傷つけてしまうのではないかと思うと、どうしても素直には受け入れられなかった。
だから、静かに答える。
「嫌いじゃないわよ。」
青白い光が、ふわりと静かに揺れた。
「でも……ビトーが嫌がる気がして……。あなたのこと。」
未来のビトリアンが今のビトリアンにとって、どんな存在になるのか。
もし、このまま彼が消えずにいたら、今のビトリアンはどう思うのか――。
考えるだけで、ティチェルリスの心はざわつく。
未来のビトリアンは、その言葉を聞くと、ゆっくりと小さく笑った。
「……ティチェは、優しいですね。」
青白い光の玉――未来のビトリアンが、どこか寂しげに呟く。
その声が妙に胸に引っかかる。
なぜ彼がそんなふうに言うのか、ティチェルリスにはまだ分からなかった。
「……?」
ティチェルリスが少し首を傾げたその瞬間――。
ふっと、青白い光が揺らぎ、次の瞬間にはすっと掻き消えた。
まるで、最初からそこには何もいなかったかのように。
「……あれ?」
ティチェルリスは思わず辺りを見渡す。
さっきまでいた未来のビトリアンの気配が、完全に消えてしまった。
(……珍しいわね。いつもは、もう少し居座るのに。)
違和感を覚えながらも、ふと後ろを振り返ると――。
「……ティチェ。」
今度は、本物のビトリアンがそこにいた。
公爵家の漆黒の制服に身を包み、静かな表情で彼女を見つめている。
(……び、ビトー!? いつから!?)
まるで未来のビトリアンと入れ替わるように現れた彼に、ティチェルリスは一瞬、動揺する。
けれど、ビトリアンは特に気にする様子もなく、ゆっくりと彼女に歩み寄ってきた。
「どうしたの?」
「……ティチェ……最近……変。」
唐突な言葉に、ティチェルリスは目を瞬かせる。
「え? どうして?」
「訓練……しにいったり……しない。」
その一言に、ティチェルリスの表情が一瞬だけ固まった。
(……バレてたのね。)
思わず唇を噛む。
結婚式前までは、ほぼ毎日こっそり訓練していた。
ビトリアンに見つからないように、夜遅くや早朝にこっそり体を鍛え、魔法の練習をしていたのだ。
けれど――結婚して領地に戻ってきてからは、それを一度もしていない。
代わりに、彼女は毎日のように書物庫にこもるようになった。
ビトリアンはそれを"不自然"に感じていたのだろう。
(……さすがに疑われるわよね。)
けれど、今の自分の状態では訓練は難しい。
未来のビトリアンの妨害がある限り、雷魔法の制御がうまくいかないのは明白だった。
だから、ティチェルリスは淡々とした口調で答えた。
「今の状態で訓練しても、きっとできっこないわ。」
ビトリアンの青い瞳が、僅かに細まる。
「……どうして……そう……思うの?」
「……なんとなくだけど。」
ティチェルリスはできるだけ自然に振る舞いながら、慎重に言葉を選ぶ。
「魔力を妨害されてる気がするの。」
「……魔力……妨害?」
ビトリアンの表情が、ほんのわずかに強張った。
(やっぱり、こんな話をすればビトーは心配するわよね……。)
けれど、彼に未来のビトリアンのことを打ち明けるわけにはいかなかった。
未来のビトリアンが今のビトリアンにどんな影響を与えるのか――それをまだ彼女自身が理解できていない以上、下手に伝えて彼を混乱させたくなかった。
だから、ティチェルリスは努めて冷静に続ける。
「だから、こうして雷魔法について調べて、理解するところから始めようと思って。」
ビトリアンは、しばらくじっとティチェルリスの顔を見つめていた。
そして――。
「……ティチェは……偉いね……。」
ふっと、柔らかな笑みを浮かべると、静かに彼女の頭を撫でた。
「っ……。」
その手の温かさに、ティチェルリスは驚き、思わず動きを止める。
ビトリアンは、普段あまり感情を表に出さない。
けれど、今の彼の表情はどこか穏やかで、優しくて――まるで彼女を心から労わっているかのようだった。
(……うぅ……そんな顔されたら……。)
胸の奥が、じわっと熱くなる。
ビトリアンの指先が、彼女の髪を優しく梳く。
(あぁもう……私、ちゃんと誤魔化せたかしら。)
彼の手の温もりを感じながら、ティチェルリスは静かに目を伏せた。
――———————
――————
――深夜。
公爵邸は静まり返り、外には月明かりだけがぼんやりと差し込んでいた。
その穏やかな夜の中で、ティチェルリスはすやすやと眠っていた。
彼女の胸元は、規則正しく上下し、微かに寝息が聞こえる。
(……よく眠ってる。)
ビトリアンはそんな彼女の寝顔を、隣で静かに見つめていた。
月明かりに照らされた彼女の頬は柔らかく、どこか無防備な表情を浮かべている。
普段はどこか気の強い彼女も、眠っているときだけは、まるで幼子のように穏やかだった。
(……かわいい。)
無意識に、彼の唇が僅かに綻ぶ。
それから、ふと彼は布団の中でゆっくりと動いた。
――そっと、ティチェルリスの服の中に手を滑り込ませようとする。
彼女の温もりを確かめるように、指先が彼女の肌に触れた、その瞬間――。
バチンッ!!!
「……っ!」
突如、小さな静電気が発生し、ピリッとした衝撃が走る。
彼の指先が強く弾かれ、反射的に手を引く。
ティチェルリスは微動だにせず眠ったままだったが――ビトリアンは弾かれた手をじっと見つめた。
(……やっぱり。)
まるで、"触れるな"と言わんばかりに発生した、異常な静電気。
普段、こんなことは起こらない。
それに、今の感触はただの静電気とは違う。
もっと"意志"のある拒絶のように感じた。
「……お前……意思を持っている……な。」
月明かりの中で、ビトリアンの瞳が僅かに鋭く光る。
「……確実に。」
彼は小さく呟くと、弾かれた手をゆっくりと握りしめた。
そして、まだ眠り続けるティチェルリスの顔を、じっと見つめ続ける。
(……お前は、一体……何を隠しているんだ?)
彼の心に、少しずつ確信が芽生え始めていた。
静寂の夜――。
ビトリアンの疑念は、ますます深まっていくのだった。




