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4話目

 翌朝――


 ティチェルリスは、のんびりと廊下を歩いていた。

 朝の陽光が窓から差し込み、廊下に細長い影を落としている。


 彼女は軽く伸びをしながら、昨日の出来事を思い返した。


 ビトリアンを埋めた。


 それは、なかなか楽しい遊びだった。

 執事や使用人たちはやたらと慌てていたが、彼本人は全く気にしていないようだったし、問題ないはず――


(……の、はずだったんだけど)


 廊下の角を曲がった時、ふと使用人たちのひそひそ話が耳に入った。


「坊ちゃまが風邪をひかれたそうです……!」

「ま、まさか……!? まさかあの坊ちゃまが!?」

「寒い中、埋められていたのだから当然ですよ!」


(……へ?)


 ティチェルリスはピタリと足を止め、ぱちくりと目を瞬かせた。


(風邪……? ビトリアンが?)


 彼女はくるりと振り向き、使用人たちの輪の中へとずかずかと入っていく。


「えー! 風邪ひいたの?」


 大きな声で尋ねると、使用人たちは全員ピタリと動きを止めた。

 空気が一瞬、固まる。


 そして、次の瞬間――


「当たり前です!!」


 怒涛の勢いで叱られた。


 ティチェルリスは思わず、びくっと肩を跳ねさせる。


「いくら公爵様でも、雪の中に埋められて無事なわけがありません!!」

「それに、坊ちゃまが体調を崩されるなんて、一体いつ以来のことか……!」

「奥様……あのようなことは、もう絶対にやめてください……!!」


 使用人たちは泣きそうな顔でティチェルリスを取り囲んでいる。


 普段は寡黙で、淡々と仕事をこなす彼らがここまで感情を露わにするのは珍しいことだった。

 それだけ、ビトリアンが体調を崩すという事態が信じられないほどの異常事態だったのだろう。


「う、うん……ごめんね?」


 ティチェルリスは少し気まずそうに頬をかきながら、ひとまず素直に謝る。

 しかし、胸の奥ではどこか不思議な気持ちだった。


(でも、彼が風邪をひくことなんて滅多にないんでしょ? ある意味、貴重な体験じゃない?)


 「風邪をひくほどの"人間らしさ"が、彼にもあるんだ」


 そう思うと、なんだか少しだけ嬉しい気もした。


「で? 彼は今どこにいるの?」


 ティチェルリスがきょろきょろと辺りを見回すと、執事が青ざめた顔で答えた。


「寝室に……お休みになられています……」


「そっか。なら、様子を見に行かなきゃね!」


 そう言うなり、ティチェルリスはくるりと踵を返し、スタスタとビトリアンの寝室へと向かった。


「お、お待ちください奥様!?」

「まさか、また何かしでかすのでは……!?」


 背後で慌てふためく使用人たちの声が聞こえたが、ティチェルリスは気にせず、軽やかな足取りで廊下を進んでいった。


(さて、どんな顔して寝てるのかしら?)


――――—————

――—————


ビトリアンの寝室は、静まり返っていた。

 暖炉の火はくべられているものの、窓の外には白銀の世界が広がり、部屋の中にもひんやりとした空気が漂っている。


 分厚いカーテンの隙間から差し込む薄い光が、ベッドに横たわる青年の顔をぼんやりと照らしていた。


 ――ビトリアン・ガーナンドブラック。


 彼は、いつものように無表情だった。

 しかし、普段と違うのは、微かにまぶたが重そうに見えること。

 さらには、白い寝間着の襟元が少し乱れ、少しだけ呼吸が浅くなっているように感じられること。


 ティチェルリスは、そっとベッドの横に腰を下ろした。

 目を細め、じっと彼の顔を覗き込む。


(あら、やっぱり少し具合が悪そうね)


 そこで、ふと彼の鼻先に目が留まった。


「……鼻水垂れてるわよ。」


 彼女はクスッと笑い、小さなハンカチを取り出すと、無造作に彼の鼻を拭った。


 それでも、ビトリアンはまるで何も感じていないかのように微動だにしない。


(……この人、本当に感情がないのね)


 ティチェルリスは、じっと彼の顔を眺める。

 長いまつ毛に、少しだけ赤くなった鼻先。

 普段と変わらぬ青い瞳――けれど、どこかいつもよりぼんやりしている気がする。


 寝具にくるまれたまま動かない彼は、まるで人形のようだった。


「風邪ひくと、人間ってこんな風になるのねぇ」


 ぽつりと呟いたティチェルリスは、興味深そうにビトリアンの顔をじっくりと観察する。

 普段の彼は、"無感情"というよりも"無関心"な印象だった。

 何をされても驚かず、何かを見ても何も思わない――そんな風に思っていた。


 だが、今の彼は少しだけ、弱っている。

 いつものような冷たい雰囲気はなく、まるでぼんやりと漂う雪のような、儚い空気をまとっていた。


(……ちょっと、可哀想ね)


 そう思った瞬間、ティチェルリスの頭にある考えがひらめいた。


(そうだ! 風邪をひいたら、体にいいものを摂るべきよね!)


 そう思った途端、彼女の中で何かが弾けた。

 ぱあっと顔を輝かせ、ワクワクとした気持ちが込み上げる。


「ちょっと待っててね、いいこと思いついた!」


 ビトリアンの顔を覗き込みながら、いたずらっぽく微笑む。


 しかし、彼は相変わらずぼーっとしているだけだった。

 まるで、ティチェルリスが何を言おうが関係ないとでも言いたげな表情だ。


「……」


 少しだけ物足りなさを感じながらも、ティチェルリスはベッドから立ち上がった。


 そして――


 バッ!!


 勢いよく部屋を飛び出した。


 ドアがパタンと閉まり、部屋は再び静寂に包まれる。


 ベッドの上で横たわるビトリアンは、何も言わず、ただぼんやりと天井を見つめていた。

 窓の外では、静かに雪が降り続けている。


――———————

――————


厨房に乗り込んだティチェルリスは、勢いよく両手を広げ、堂々と宣言した。


「風邪に効く特製ジュースを作るわ!」


 突然の言葉に、厨房の料理人たちは一斉に手を止めた。

 広々とした厨房には、スープを煮る音や包丁がまな板を叩く音が響いていたが、そのすべてがピタリと静まり返る。


「え、奥様……?」

「そ、それはありがたいのですが……?」


 使用人たちは、おずおずと視線を交わしながらティチェルリスを見つめた。


 普段、料理などまったくしないご令嬢が突然厨房に現れ、「ジュースを作る」と言い出したのだ。

 しかも、その相手はあの無感情なビトリアン・ガーナンドブラック公爵。


 誰もが、「とんでもないものが作られるのでは……?」という不安を抱いた。


 しかし――


「よし! さっそく材料を集めるわよ!」


 ティチェルリスはそんな空気をものともせず、食材庫へと突撃した。


 「風邪に効く」という言葉だけを頼りに、彼女は次々と食材を選び始める。


「まずは……ニンジン! リンゴ! ハチミツ! 生姜!」


 これは、まぁ分かる。


「それから……ニンニク! タマネギ! レモン! ハーブ!」


 ……いや、ニンニクとタマネギ……?


「あ、これも入れちゃえ! 牛乳と卵!」


 ……牛乳!? 卵!?


 彼女の手元にどんどん積み重ねられていく食材を見て、料理人たちは完全に固まっていた。


(……お、おい……)

(タマネギとレモンを混ぜるのか……?)

(ニンニクと牛乳はさすがに……)


 しかし、ティチェルリスは満面の笑みで食材を見つめ、

 両手をこすり合わせながら、ワクワクした様子で頷く。


(うん、これだけ栄養があれば、きっとすぐに元気になるはずよね!)


 そして――


「じゃあ、これを全部すり潰してジュースにするわね!」


 さっそく大きな木のボウルを用意し、無慈悲に食材をぶち込んでいく。


ゴロゴロと転がるニンジンとリンゴ。

 とろりと流れるハチミツ。

 みじん切りされた生姜とニンニクがボウルの底に沈む。

 そこに、無造作にタマネギが投入され、レモンが大胆に絞られる。


 ……そして、仕上げに牛乳と卵が流し込まれた。


「え……?」


 料理人たちは、絶望に染まった表情でその光景を見つめた。


(な、なんだこの……見るからにヤバそうな液体は……)


 ひときわ目を引くのは、ボウルの中で奇妙な色をしているドロドロの液体。

 さっきまでカラフルだった食材たちが不気味な淡い緑色に統一されてしまっていた。


 そして、漂う香りは――


「……うっ!?」


 料理人たちは、一斉に鼻を押さえた。


 刺激的なニンニクとタマネギの香り。

 そこに酸味の強いレモンが混ざり、甘ったるいハチミツと牛乳の香りが加わる。

 さらに、なぜか漂う卵の独特な生臭さ……。


(これは……もはや武器では!?)


 そんな考えが脳裏をよぎる。


「お、お味見は……?」


 勇気ある料理人が恐る恐る尋ねると、ティチェルリスは笑顔で即答した。


「必要ないわ! 体に良いものを全部入れたんだから!」


(……それが一番の問題なのですが!?)


 もはや誰も口を挟めなかった。

 毒は入っていない――それが唯一の救いだった。


 最後に、ティチェルリスは大きな杵でぐちゃぐちゃにすり潰し、混ぜ込んでいく。


 そして――


「完成!」


 彼女は誇らしげにボウルを掲げた。

 そこには、不気味な色の液体が、どろりと波打っている。


 料理長が、恐る恐る尋ねる。


「……奥様、それは本当に飲める代物なのでしょうか……?」


 ティチェルリスは、自信満々に頷いた。


「もちろん! だって体にいいんだから!」


 しかし、その言葉を聞いた厨房の者たちは、一斉に青ざめる。


 漂う香り。

 異様な色合い。

 もったりとした粘度。


(……本当に……飲ませるのか……?)


 誰もが止めるべきか迷ったが、毒を入れたわけではない。

 むしろ、これほど栄養価の高い飲み物は存在しないかもしれない。


(だが、問題は"味"である――。)


 しかし、ティチェルリスは使用人たちの不安な様子にはまったく気づいていない。

 カップにたっぷりと注いだジュースを片手に、満面の笑みを浮かべながら厨房を飛び出していった。


「それじゃ、行ってくるわねー!」


 軽快な足取りで廊下を駆け抜ける彼女を、料理人たちは呆然と見送るしかなかった。


(公爵様……どうかご無事で……!)


 彼らは心の中で、そっと祈った。

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