38話目
薄暗い洞窟の中、湿った空気が静かに漂っていた。
滴る水の音が響く静寂の中で、微かな魔法の光が、岩肌をぼんやりと照らしている。その淡い光の下、ティチェルリスは、目の前に立つ"彼"をじっと見つめた。
(この服……。)
白を基調とした威厳のある制服。袖口や襟元には繊細な刺繍が施され、いくつものバッジが重ねられている。その胸には、王家の紋章が刻まれていた。
見覚えがあった。
(……王室騎士団の、最高位の制服。)
王に忠誠を誓い、全魔術師の頂点に立つ者にのみ許される装い。
今のビトリアンは、公爵家としての装いをしていたが――目の前の彼は、明らかに違う道を歩んでいる。
そのことが、胸の奥でざわつく。
「その服……。」
思わず声が漏れた。
気づけば、指先が微かに震えていた。
彼は、そんなティチェルリスの様子に気づいたのか――ふっと儚げに微笑んだ。
けれど、その微笑みはどこか寂しげで、切なげで。
彼の瞳に宿る感情が、まるで深い夜の闇のように見えた。
「ビトーは……幸せじゃないの?」
問いかけた瞬間、胸が締め付けられるように痛んだ。
彼は、ほんの一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
そして――。
「……。」
微かに唇を動かした気がしたが、その言葉は小さすぎて聞こえなかった。
次の瞬間、彼の微笑みが、わずかに歪んだ。
ほんのわずか、痛みを滲ませるように。
けれど、それはすぐに掻き消された。
まるで、それ以上の感情を見せてはいけないかのように、淡々とした声で彼は言った。
「もうすぐ、僕がここへきます。」
「……え?」
言葉の意味を理解する間もなく。
ぐらりと視界が傾いた。
(……っ!?)
眩暈のような感覚が襲いかかり、頭が割れるように痛む。
全身がしびれるように重く、足元がふらつく。
(な、に……?)
支えようとした腕にも力が入らず、そのまま崩れ落ちそうになった――。
その時。
「……っ!」
彼がすぐに抱き留めてくれた。
温かくて、強い腕。
彼の腕の中で、ティチェルリスはようやく気づく。
(……私、魔力が……ない?)
普段なら体の奥から流れるはずの魔力が、どこにもなかった。
空っぽ。
吸い取られたかのように、何も感じない。
ただ、ひどく寒い。
「……っ……。」
息をするのさえ苦しい。
まるで、自分の存在が、ここから消えていくような――そんな錯覚さえ覚えるほどに、魔力が欠乏していた。
(こんなの……今までに、一度も……。)
指先がかすかに震え、彼の服を掴もうとした。
「あなた……私の……。」
必死に何かを伝えようとした。
けれど――。
言葉は、そこまでしか続かなかった。
――意識が、闇に沈んでいく。
ふわりと、遠のいていく感覚。
視界の端で、彼がそっと目を伏せたのが見えた。
「……。」
その顔には、言葉にできないほどの優しさと、哀しみが滲んでいた。
それが最後に見た光景だった。
――そして、すべてが闇に包まれた。
――———————
―――――――
暗闇の中、ふわりと青白い光が揺れる。
まるで呼吸をしているかのように、ぼんやりとした光の玉が静かに鼓動していた。
「……ここは?」
ティチェルリスは、ふと目を開けた。
視界には何もない。ただ果てしなく広がる闇と、揺らめく光。
――そして。
目の前には、もうひとりの自分がいた。
(……私?)
けれど、どこか違う。
彼女の表情は硬く、どこか疲れたような面影があった。
瞳の輝きも曇り、ティチェルリス自身が知る「自分」とは明らかに違う印象を受ける。
そして――なによりも、その姿が幸せそうには見えなかった。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(……きっと、未来の私。)
直感的にそう思った。
そして、ティチェルリスは静かに息を呑んだ。
「ビトーが見せてくれてるの?」
ふと問いかけると、彼女の目の前に漂っていた光の玉が、ふるふると小さく頷いた。
(……やっぱり。)
その光が何なのか、はっきりとは分からない。
でも、ビトリアンが関係していることだけは、確信できた。
――ビトリアンが、私に見せた未来。
未来の私が、どこか幸せじゃなさそうに見える。
それが何を意味するのか――考えるのが、少し怖かった。
けれど、そんな不安を隠すように、ティチェルリスは少し眉を寄せ、腕を組む。
「でもね……!」
彼女はぷくっと頬を膨らませ、少し怒ったような声をあげた。
「あなたのおかげで、思うように魔力操作ができなくて、すっごく苦労したんだから!」
まるで、今まで溜まっていたものを吐き出すように、一気に言葉を紡ぐ。
「学園では『魔力制御は完璧だけど熱湯しか出せない』ってからかわれるし、家では『聞いたことも、見たこともない熱湯魔法しか使えない出来損ない』って冷遇されちゃうし! ずっと苦労しっぱなしだったんだからね!!」
思い出せば、悔しいことはいくらでもあった。
ただ、魔力が少し扱いづらいだけで、バカにされたり、見下されたりすることがどれほど多かったか。
(……全部、あなたのせいだったんじゃないの?)
ぷんっと頬を膨らませて怒ると、光の玉は一瞬、ぴくっと震えた。
――そして。
ぽたぽたぽた……。
まるで、汗をかいたかのように、小刻みに揺れ始めた。
(……なにこれ、ちょっと可愛い。)
ふっと、ティチェルリスの心が和らぐ。
思わず、くすっと微笑みそうになる。
けれど、それでも彼女の胸の中には、消えない疑問があった。
ティチェルリスは再び未来の自分を見つめ、静かに歩み寄った。
「ガーナンドブラック家の歴史の本をぜーんぶ読んだ時にね、私だって薄々あなたの存在に気付いてたのよ。」
ぼんやりと浮かぶ未来の自分――。
まるで霧の向こう側にいるかのように、揺らぎながら存在している。
「もともと持って生まれたにしては、あきらかに妨害されてるんだもん。」
歴史書や魔法理論の本を読み漁る中で、彼女は気づいていた。
雷の魔力は、他の属性と違い、まだ未解明な部分が多い。
未知の力には、時に"何かしらの意図"が働くことがある。
そして、自分自身の魔力は――まるで"何者か"によって制限されているように感じていた。
「この私は……さぞ、なんでもできたんでしょうね。」
そっと、未来の自分へと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、まるで水面に触れたかのように、未来の自分の姿が揺れた。
けれど――。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
ティチェルリスは、さらにじっと見つめる。
そして、ふと気づいた。
「あなたの指に――指輪がなかった。」
未来の自分の左手。
そこにあるはずの結婚指輪が――どこにもなかった。
「だから、きっと結ばれずに終わった。そうじゃない?」
未来の私は、ビトーと結ばれていない。
その可能性を考えた瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
(……私は、ビトーと結ばれない未来があるの?)
目の前にいる、指輪をしていない私。
その意味するところは、あまりにも明確だった。
けれど――。
光の玉は、何も言わなかった。
ふわりと揺れるだけで、何の反応も示さない。
それが答えであるかのように。
その沈黙が、ティチェルリスの心に重くのしかかる。
何も言わないままの光の玉を見つめながら、彼女は小さく息を呑んだ。
(……私とビトーは、どうなったの?)
聞きたい。
けれど、聞くのが怖い。
そんな彼女の逡巡をよそに――。
ふわり、と。
青白い光が、少しだけ明るくなった。
そして――。
『もう起きる時間ですよ。』
静かに、穏やかな声が響いた。
優しく包み込むような声。
ティチェルリスの体が、ふわりとした浮遊感に包まれる。
意識が、ゆっくりと現実へと引き戻されていく。
視界がぼんやりと霞み、青白い光が次第に遠ざかっていく。
(……まだ、聞きたいことがあったのに……。)
けれど――。
次の瞬間、ティチェルリスの瞼はゆっくりと開かれていった。
静かな洞窟の中で、冷たい空気が頬を撫でる。
夢の余韻がまだ身体に残っている。
そして、目を開いた先には――。
「……ティチェ。」
優しく、自分の名前を呼ぶ声があった。
ティチェルリスは、まだぼんやりとした意識のまま、その声の主を見つめた。
そこにいたのは――。
「……ビトー……?」
現実へと戻ってきたティチェルリスの瞳に、彼の姿が映し出された。
ぼんやりとした意識の中で、彼の顔をじっと見つめる。
それが確かに自分の知っているビトリアンだと理解した瞬間――。
ふわりと、強い腕に包まれた。
「……っ!」
ビトリアンが、何も言わずにぎゅっと抱きしめてきた。
いつもは滅多に感情を表に出さない彼が、まるで何かに縋るように、強く、でも優しく抱きしめている。
ティチェルリスは驚きながらも、その腕の中のぬくもりを感じた。
(……震えてる?)
微かに、彼の体が震えている。
「ごめんなさい……また約束を破って外に出ちゃった。」
静かに囁くと、ビトリアンはさらに腕に力を込めた。
「……1週間……だよ。」
「え?」
「ティチェ……1週間……起きなかった。」
「……うわ、そうなんだ。」
呆然とした声が口からこぼれる。
自分ではそんなに長く眠っていたつもりはなかったのに。
気を失っていた間に、そんなに時間が経っていたのかと驚いた。
ティチェルリスの言葉を聞いて、ようやくビトリアンが腕の力を緩め、彼女を解放した。
(そんなに心配させちゃったんだ……。)
ビトリアンの表情は相変わらず無表情だけれど、どこか張り詰めたものが溶けたように見える。
ふと、窓の外に目を向けると――そこには見慣れた風景が広がっていた。
(……領地?)
いつの間にか、王都ではなく領地に戻ってきていた。
どうやら眠っている間に、王都から公爵家へと運ばれていたらしい。
(……ビトーがずっと、そばにいてくれたのかな。)
そんなことを考えていると、ビトリアンが静かに問いかけた。
「……何が、あったの?」
ティチェルリスは、一瞬だけ迷う。
未来のビトリアンや、夢の中で見た"もうひとりの自分"のことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
けれど――。
ふと、クスッと笑う。
そして、ビトリアンの真っ直ぐな青い瞳を見つめながら、はっきりと告げた。
「うーん。ふふふ。私!今のビトーが一番好きよ!」
「……ティチェ……頭、打った?」
ビトリアンが、珍しく真顔で問いかける。
その真剣な顔が可笑しくて、ティチェルリスはくすくすと笑った。
(……未来がどうであれ、今のビトーが好き。)
それが、今の彼女にとって揺るぎない真実だった。




