36話目
王都の喧騒とは無縁の、静かで厳かな空間。
ガーナンドブラック公爵邸の執務室は、まるで時が止まったような落ち着きに満ちていた。
巨大な窓から差し込む淡い陽の光が、書類の山を照らしている。
そんな中、ひとりの男がデスクに座り、じっと本を開いていた。
長身の体をゆったりと椅子に沈め、机に肘をつきながら分厚い本をめくる指先は、普段の冷静な彼とは違い、わずかに緊張しているようにも見える。
彼の名は――ビトリアン・ガーナンドブラック。
無表情で何事にも動じない公爵閣下。
そして、彼の手元にある本のタイトルは――。
《好きな女性をマインドコントロール~愛される男の極意~》
(……なるほど。)
ページをめくりながら、彼の目が僅かに細まる。
これは、今朝、書類の整理をしていた執事のマルチェが「不要な本が混ざっていた」と言って持ってきたものだった。
いかにも怪しいタイトルではあるが、彼にとっては重要な内容だった。
――「女性の無意識に働きかけ、自然と自分を意識させる」――
そんな手法が詳しく解説されている。
(これを実践すれば……。)
彼の脳裏に浮かぶのは、目の前の新聞。
今日もまた、昨日のデートが報道されていた。
「ガーナンドブラック夫妻、王都で熱々デート!」の見出しと共に、彼とティチェルリスの姿が鮮明に描かれている。
それも、昨日のショッピングの様子、レストランでのひととき、果ては帰り際にそっと彼女の手を引いた瞬間まで――。
そして、一面の端に、小さく載っている読者からの反応。
――「ガーナンドブラック公爵様、最近とても優しくなったように見えます!」
――「公爵夫人のこと、本当に大切にしているんですね……うらやましい!」
――「これって、もうラブラブなんじゃ……?」
(……まだ、足りない。)
ティチェルリスは新聞を見て真っ赤になりながらも、すぐにそっぽを向いてしまった。
まるで認めたくないような態度――。
彼は確信していた。
ティチェルリスの心をもっと自分に向けるためには、さらなる策が必要なのだと。
そこで出会ったのが、この本だった。
書かれている内容は実にシンプルだ。
「好きな女性をマインドコントロールする方法」
――つまり、さりげない心理的アプローチで彼女の意識を完全に、僕だけ…に向けるというもの。
ビトリアンの指が、本の一文をなぞる。
少し考えた後、彼は静かに呟いた。
「……試してみよう。」
――——————
――————
昼下がりのガーナンドブラック公爵家の応接室。
柔らかな陽光が窓から差し込み、優雅なティータイムにふさわしい穏やかな空気が流れている。
ティチェルリスは、ソファに深く腰掛けながら、お気に入りの紅茶を楽しんでいた。
湯気とともに広がる香りに、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。
(……今日の新聞、また誰かが持ってこないといいけど……。)
新聞が来る=また昨夜のデートのことが書かれている。
想像しただけで、胸がむずがゆくなり、ティチェルリスはそっと視線を逸らした。
そんな彼女の耳に、不意に低く穏やかな声が響いた。
「ティチェ。」
「ん? なに、ビトー?」
紅茶を一口飲みながら、何気なく振り返る。
そこには――いつもと変わらない無表情なビトリアンがいた。
けれど、何かが違う。
(……なんか、近い。)
普段はこんなに距離を詰めてくることはない。
なのに、今日は妙に接近している気がする。
――ティチェルリスが違和感を覚えた、その瞬間。
「ティチェ……僕を意識して…。」
「……へ?」
突然の謎発言に、ティチェルリスの動きが止まった。
「目を…みて…そう…。まっすぐ…僕の目をみて…。」
「えっ? えっ??」
「僕の声を聞くと、君は安心する……。」
「いや、ちょっと待って、何の話――」
「僕を見つめると、ドキドキする……。」
「ちょ、ちょっと待ってビトー!?急にどうしたの!?」
「君はもう、僕から離れられない……。」
「!?」
ティチェルリスの心臓が、突然大きく跳ねた。
(えっ……えっ……なにこれ!?)
距離が近い。
視線が熱い。
声が妙に甘い。
普段、滅多に感情を出さない彼が、まるで王子様のようなセリフを囁いている。
しかも、すごくまっすぐな目で見つめてくる。
(ちょ、ちょっと待って……こんなの……ズルくない!?)
ティチェルリスは困惑し、動揺し、心臓の鼓動がうるさいくらいに響いた。
「……君はもう、僕に夢中だよ。」
「っ……!?」
バッ!!!
彼女は勢いよくテーブルを叩き、立ち上がった。
「なるかーーーー!!!!!」
突然の大声に、使用人たちがぎょっとして振り返るほどだった。
「って、 ビトー、どうしたの!? どこか頭打った!?」
「……いや、僕は正常。」
「絶対おかしいでしょ!? 夢中って…何!?」
「……違う?」
「ちがうわ!!!!!」
彼女が憤慨しながらツッコミを入れると、ビトリアンは無言で本をペラリとめくった。
「……本には、こう言えばいいと……。」
「本!?!?」
ティチェルリスがぎょっとした顔で彼の手元を見ると――そこには。
《好きな女性をマインドコントロール~愛される男の極意~》
・
・
・
「なに読んでんのよぉぉぉぉぉ!!!!!」
ティチェルリスは顔を真っ赤にしながら、近くにあった本を、力いっぱい投げつけた。
「なんでそんな怪しい本読んでるの!?!? しかもそれを実践しようとしてるの!?!?!?」
「……効果はあるって…書いてあった。」
「ないわよ!!!!!!!!!」
ティチェルリスはガクッと肩を落とし、思わず頭を抱えた。
「……もう、ほんとに……何してるのよ……。」
呆れ果て、ため息をつく。
けれど――。
「……ふむ。レベル1は失敗か。」
ボソッと呟いたビトリアンに、彼女はバッと顔を上げた。
「レベル1!? 続きがあるの!?」
「うん。」
「やめて!!!」
ティチェルリスは必死に本を奪い取ろうとするが、ビトリアンはひらりとかわして手の届かないところへ本を持ち上げた。
「……あのねぇ、こういうのって、自然にやるから意味があるのよ? こんなふうに『僕に夢中』なんて言われても、逆に意識しちゃってダメなのよ!!!」
「……そういうものなの?」
「そういうものなの!!!」
ティチェルリスは大きく息を吐き、やれやれと首を振る。
「もう……まったく……ほんとに、ビトーは……。」
呆れたように彼を見上げると――。
「……じゃあ、自然にする。」
「え?」
彼は、静かにティチェルリスの手を取った。
指先が触れると同時に、心臓が一瞬で跳ね上がる。
そして――。
「……ティチェ、……僕を意識してみて?」
「~~~~~~っ!!!!!」
ティチェルリスの脳内が、一瞬で沸騰した。
顔が爆発しそうなほど真っ赤になり、彼女はもう一度新聞を丸め、力いっぱい投げつけた。
「バカ――――――!!!!!」
ティチェルリスは顔を真っ赤にしたまま、勢いよく部屋を飛び出した。
自分でもどうしてこんなに取り乱しているのか分からない。
けれど、とにかく今はビトリアンの顔を見られない――!
(ビトーのバカ!ビトーのバカ!!)
胸の奥が熱くなって、どうしようもなく恥ずかしくて、思わず外へ飛び出してしまった。
(もう!!意識しまくってて毎日大変なのに!!)
冷静になろうとしても、最近のビトリアンの行動がいちいち心を乱してくる。
今朝の新聞のことも、突然のマインドコントロール発言も、どれもこれも彼のせいだ!
「奥様!どちらへ!?」
屋敷の外に飛び出すと、慌てた声が後ろから聞こえてきた。
ダリアや、屋敷の騎士たちが止めようとしている。
「待ってください、公爵夫人!」
けれど、ティチェルリスの足が速すぎて誰も追いつけない。
学園時代、鍛えに鍛えたこの脚力は、公爵夫人になった今でも健在だった。
(あ……走りすぎた……。)
途中でふと我に返る。
何をやっているんだろう、私。
ここでこんなふうに飛び出してしまったら、また何か騒ぎになってしまうかもしれない。
(……戻らなきゃ。)
そう思い、足を止めようとしたその時だった――。
「あら、公爵夫人?」
突然、目の前から上品な声がかかった。
(……!?)
振り向くと、そこにいたのは――ベルブロッサ子爵家の次女、ディアンナだった。
ふんわりと巻かれた金髪に、淡い茶色の瞳。
優雅な微笑みを浮かべながら、ティチェルリスの前に立ちはだかる。
ティチェルリスは、その顔を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
(一昨日……この人には、酷い目に遭わされそうになった……。)
あのティーパーティーの罠。
もしあのまま受け入れていたら、確実に公爵夫人としての地位を貶められていたはずだった。
ティチェルリスは瞬時に警戒し、表情を一切崩さずにディアンナを見下ろした。
私は公爵夫人。
対するディアンナは子爵令嬢。
立場は明確に違う。
「――ごきげんよう、ベルブロッサ子爵令嬢。」
ティチェルリスは、優雅に微笑みながらも、一歩も引かぬ態度で挨拶をした。
ディアンナは、その冷静な対応に一瞬だけ瞳を細めたが、すぐににこりと微笑み返した。
「まあ、ごきげんよう、公爵夫人。こんなところでお会いできるなんて奇遇ですわね。」
「ええ、けれど……少し急いでおりますので、これで失礼いたしますわ。」
ティチェルリスは、できる限り自然にその場を去ろうとした。
直感が、この場に長く留まるべきではないと警鐘を鳴らしている。
しかし――。
「まあまあ、公爵夫人、そんなに急がなくても。少しお話ししません?」
ディアンナが、すっとティチェルリスの前に立ち、行く手を遮った。
(……まずい。)
完全に逃がす気はない、そう彼女の態度が物語っている。
ティチェルリスは眉をひそめながらも、毅然とした態度で言った。
「……私、貴女と親しく言葉を交わす間柄ではないはずですが?」
「まあ、公爵夫人ったら……冷たいですわ。」
ディアンナは微笑みながらも、その目がどこか挑発的だった。
(……早く戻らなきゃ。)
こんなところで彼女と長話をする理由はない。
それに、妙な違和感があった。
――何かがおかしい。
そう思ったその時、ティチェルリスの視界に異変が映った。
門番が――倒れている。
(!?)
一瞬で背筋が凍る。
まさか、これは――!
「……貴女、一体何を企んでいるの?」
ティチェルリスは静かに、しかし鋭い目つきでディアンナを見据えた。
「まあ、何も企んでなどいませんわ。ただ……少しだけお付き合いいただこうかと。」
その言葉と同時に、ディアンナは手に持ったハンカチをひらりと振った。
(!!)
鼻をつく甘ったるい香り。
――眠り薬!!!
「っ……!!」
ティチェルリスは咄嗟に息を止め、身を翻そうとした。
だが、その瞬間。
「ふふ……大人しくなさいな、公爵夫人。」
ディアンナの優雅な笑顔が視界にぼやけ――。
意識が、ふっと遠のいていった。




