34話目
馬車が目的地に到着し、停車する微かな揺れと共に、ティチェルリスは窓の外を見やった。すると、視界に飛び込んできたのは、華やかに飾られた立派な館。玄関前には既に多くの貴族たちが集まり、美しいドレスや宝石を身に纏いながら談笑していた。
(……小さなティーパーティー、なんて嘘じゃない。)
ティチェルリスは瞬時に理解した。これはただの茶会ではなく、しっかりとした社交の場――しかも、公爵夫人である自分を恥をかかせるために仕組まれたものだ。
無意識のうちに、自分の装いに視線を落とした。決して貧相なものではない。だが、それでも今日この場に集まる貴族たちと比べれば、質素に映ることは間違いない。ドレスの布地の質も宝石の数も、公爵夫人としては控えめだった。
(これでは、公爵家の威厳を損ねる……!)
心臓が強く脈打つ。これは計算された罠だ。彼女がこのまま堂々と中へ入れば、周囲の貴族たちから「公爵夫人なのに貧相な装いね」と笑われるに違いない。そして、それを口実に、さらなる攻撃を仕掛けてくるのは目に見えていた。
(落ち着いて……今、私に必要なのは冷静な判断。)
ティチェルリスは息を整えた。そして、目の前の令嬢たちに向かって、ふわりと優雅な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。すっかり忘れていたのだけれど、夫と約束があったのを思い出したの。今日は失礼させていただくわ。」
「え……?」
ディアンナが戸惑ったように目を瞬かせた。ミエルやビビスレッタも怪訝な表情を浮かべる。ティチェルリスはその様子に動じることなく、上品に微笑みながら、静かに馬車の扉を開いた。
「まあ、それは残念ですわね、公爵夫人。」
「ええ、とても……またの機会に。」
ティチェルリスは優雅に馬車から降りると、一礼をし、貴族らしくゆったりとした足取りでその場を後にした。
……そして。
(今だ!!)
貴族たちの視線が自分から逸れた瞬間、ティチェルリスは反転し、全速力で駆け出した。
「えっ!?公爵夫人!?」
後ろで驚きの声が上がったが、振り返る余裕などない。慣れないドレスの裾を持ち上げ、ハイヒールのまま全力疾走する。風が頬を打ち、髪が乱れるのも気にせず、ひたすら走った。
(ここを曲がれば……!)
角を曲がると、そこにはちょうど庭園の大きな噴水があり、柱の陰に隠れるには絶好の場所だった。ティチェルリスは息を切らしながら飛び込み、柱の後ろにぴたりと身を寄せた。
「はぁ、はぁ……。」
心臓が激しく鳴る。遠くからは、令嬢たちが困惑した様子で周囲を見回しているのが分かった。
(よし……気づかれてない。)
少しだけ顔を出し、周囲を確認する。誰も彼女の姿を見ていないことを確認すると、ようやく息を整えた。
(危なかった……!)
ティチェルリスは小さく息を吐きながら、そっと柱の陰に身を潜めた。普段ならこんな大胆な行動はしないが、今日は特別だった。
ティチェルリスは、小さく息を吐きながらそっと柱の陰に身を潜めた。
普段ならこんな大胆な行動はしない。けれど、今日は特別だった。
(……でも、これ以上動いたら……。)
柱の影から少し顔を出し、遠巻きに貴族たちの姿を確認する。
彼女を探しているのか、何人かの視線がちらちらと辺りを見回しているのが分かった。
(パパラッチに見つかったら、絶対に記事にされるわ……。)
社交界において、貴族の女性の立ち振る舞いは何よりも重要だ。
特に彼女のように王家の注目を集めている公爵夫人ともなれば、ほんの些細な行動ですら話題になり、あっという間に噂が広がる。
「公爵夫人、招待されたパーティー会場で逃走」
そんな見出しの記事が翌朝の新聞に躍る光景が、容易に想像できた。
王家に忠誠を誓う者たちが彼女の行動を問題視すれば、ビトリアンにまで影響が及ぶかもしれない。
(……どうして、こんなことになっちゃったの?)
ただ、公爵夫人としての務めを果たそうと思っただけなのに。
ただ、少しでも公の場に出て、認めてもらおうとしただけなのに――。
しゃがみ込んだまま、ティチェルリスはぎゅっと拳を握る。
じわりと涙が滲んできて、視界がぼやけた。
(ビトー……ごめんね……。)
あんなに「外に出るな」と言われていたのに。
「君の敵は多いから」と、あんなに心配してくれていたのに。
(……結局、私、何も考えずに行動しちゃった。)
自分の軽率さが招いたこの状況に、情けなさが込み上げる。
ぐずっと鼻をすすり、袖でそっと目元を拭った。
「……ひっく……ぐすっ……。」
肩を震わせながら涙をこぼすティチェルリス。
誰にも見られたくないのに、涙は止まらない。
その時――。
ゴロゴロ……。
遠くで、雷鳴が小さく鳴り響いた。
ティチェルリスは気づかなかった。
けれど、まるで彼女の感情に共鳴するかのように、空に柔らかな雷が走っていた。
ゴロゴロ……。
雲の隙間に淡い稲光が瞬く。
まるで、涙をこぼす彼女に寄り添うように。
「――ティチェ……。」
優しい声が、耳に届いた。
ハッとして顔を上げると、そこには息を切らし、額の汗をぬぐうビトリアンの姿があった。
「ビトー……?」
彼は何も言わずに、ただじっと彼女を見つめていた。
焦りと安堵が入り混じる、真剣な瞳。
「どうして……。」
震える声で問いかけると、ビトリアンはため息をつくように小さく息を吐き、黙って彼女を抱きしめた。
「……良かった……見つかった……。」
その言葉に、ティチェルリスの胸がぎゅっと締め付けられる。
そして、張り詰めていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「う……う……う……っ。」
彼女はビトリアンの胸に顔を埋めながら、泣きじゃくった。
肩を震わせ、嗚咽を漏らしながら、涙が止まらない。
「……よしよし。」
ビトリアンは、静かに彼女の背中を撫でた。
彼の温かい手が、ティチェルリスの不安を少しずつ溶かしていく。
「どうしよう……。パーティー、急に誘われて……うぅ……でも、場違いで……私が……気をつけなかったから……。」
涙で言葉が詰まりながら、ティチェルリスは必死に状況を説明しようとした。
けれど、言葉にするたびに自己嫌悪が募り、また涙がこぼれる。
「うん……。」
ビトリアンはそれ以上何も聞かず、ただ彼女の頭を撫で続けた。
余計な言葉はいらない。
今は、彼女を安心させることが最優先だった。
「……このまま外に出たら……記者に見つかっちゃう……。」
ティチェルリスは、しゃくりあげながら不安そうに呟く。
このままでは逃げ場がない。どうすればいいのか分からない。
すると――。
ビトリアンはふと、ティチェルリスの頬に手を添え、そっと目を覆った。
「え……?」
彼の手は優しく、けれどしっかりと彼女の視界を閉ざした。
「……じっとしてて。」
彼の言葉に従い、ティチェルリスは目を閉じる。
その瞬間――。
ゴロゴロ……バチッ――!
微かに雷の音が響いたかと思うと、足元の感覚がふっと変わる。
まるで風の流れが一変したかのように、肌に感じる空気が変わった。
「……え?」
ゆっくりとビトリアンが手を外すと、目の前には見慣れた光景が広がっていた。
――ガーナンドブラック公爵家の屋敷前。
「え!?なんで!?」
驚きに目を丸くするティチェルリス。
さっきまでいた場所とは明らかに違う。
気がつけば、あの危険なパーティー会場から遠く離れ、公爵家の裏口に立っていたのだ。
「……裏口。」
ビトリアンが淡々と言う。
彼にとっては当然のような顔をしていたが、ティチェルリスには理解が追いつかない。
「ビト……。」
「……アリバイ、必要かな。」
「アリバイ?」
ビトリアンは、ちらりとティチェルリスを見つめる。
「……パーティーに行ってないことが知られたら、色々言われる……なら、王都を歩いて、誰かに目撃されておいたほうがいい。」
ティチェルリスは一瞬考えたが、すぐに彼の意図を理解した。
確かに、社交界の貴族たちは噂話が大好きだ。
公爵夫人がパーティーに呼ばれていたのに行かなかったとなれば、何を言われるか分からない。
でも――もし、代わりに【公爵夫妻が王都で優雅にデートをしていた】と知られれば?
誰も、彼女が逃げたことを疑うことはない。
そう理解した瞬間、ティチェルリスの胸にじんわりと温かい感情が広がった。
――彼は、いつも私を守ってくれる。
「ありがとう……。」
涙ぐみながら、そっとビトリアンの服の端を握りしめる。
手は微かに震えていて、それが彼女の安心と感謝の証だった。
ビトリアンは一瞬驚いたように目を瞬いたが、すぐに穏やかな表情になり、そっとティチェルリスの頭を撫でた。
「……よしよし。」
大きくて温かい手が、彼女の銀色の髪を優しく撫でる。
その感触に、ティチェルリスの心の緊張が少しずつ解けていった。
(……ビトーの手、あったかい……。)
彼の存在が、どれほど自分を安心させてくれるのか――。
そう実感した瞬間だった。
「奥様!!」
突然、屋敷の裏口から血相を変えたダリアが飛び込んできた。
肩で息をしながら、ダリアは涙目で彼女を見つめた。
「ダリア……。」
ビトリアンはそんなダリアを一瞥し、落ち着いた声で静かに言った。
「今からデートに行くから、整えて……華やかに。」
「……!」
ダリアは目を見開いた。
(で、デート!? 今から!? そんなことよりも、奥様を行かせてしまった説明を……!)
だが、ビトリアンの静かな一言には、絶対的な命令の響きがあった。
(……そうよね、今さら何を言っても仕方ないわ。)
彼女はハッと気を引き締め、ぐっと拳を握った。
(任務に失敗した分、全力で挽回しなくちゃ!!)
ダリアは即座に気持ちを切り替え、キリッとした表情で深く頷いた。
「承知いたしました、公爵様!奥様を最高に華やかにいたします!!」
その瞳には、まるで戦場へ赴く騎士のような決意が宿っていた。
【オマケの話】
――王宮を出ると、ビトリアンはふっと息をついた。
(今日もたくさん力を使わされたな……あとで補充しとかないと。)
王宮の魔力供給は公爵家の義務とはいえ、毎度毎度、無尽蔵に電力を要求されるのは骨が折れる。しかも今日は特に長かった。少し疲れた顔をしながら、王宮の門をくぐる。
……その時だった。
ゴロゴロゴロ……バチッ!
頭上で雷鳴が響いた。
(ん……?)
ふと、空を見上げる。
王都の空は晴れているはずなのに、妙に不穏な雲が広がっていた。しかも、その雲から、どこかで見覚えのある雷の波長が――
(……なんか、嫌な予感。)
ゴロゴロゴロ……バリバリッ!
雷がさらに激しく唸る。
無表情のまま、ビトリアンの顔がじわじわと青くなっていく。
(……いや、待て。まさか――)
「ティチェ!!」
叫ぶと同時に、一気に電気化――もとい、“雷化”した。
彼の身体は一瞬にして光へと変わり、空間を裂くように雷の速度で疾走する。
(屋敷から出すなって、あれほど言ったのに!!)
ピシャーン!バチバチッ!
雷のエネルギーをまといながら、一気に王都の上空へ駆け上がる。高度を上げると、王都のいたるところで微量な魔力の痕跡が見えるが、その中でも――
(……あそこだけ、むちゃくちゃ雷が溜まってる。)
ピンポイントで、異常なまでに集中している場所があった。
(……わかりやすい。)
ティチェルリスの感情が高ぶると雷が暴走することは知っているが、それにしても派手すぎる。王都の空にまで響くほどの雷の反応を示すなんて、一体どれだけ感情が揺れ動いたのか……。
(……全く。とりあえず、回収……。)
バチバチッ!!
雷の軌跡を描きながら、その場所へ急行すると――
「うぅ……うう……。」
しゃがみ込んで泣いているティチェルリスの姿を発見した。
(こんなに泣いて…。)
「ティチェ……。」
「ビトー……?」
彼は何も言わずに、ただじっと彼女を見つめていた。
焦りと安堵が入り混じる、真剣な瞳。
…見つかって良かった。
【完】




