32話目
昼食の時間になり、いつものように豪華な料理がテーブルの上に並んでいる。
明るい日差しが差し込むダイニングは、二人の結婚を祝うように特別に飾り付けられていた。薔薇の花が華やかにテーブルを彩り、いつもの昼食なのに、どこか特別な雰囲気が漂っている。
そんな中、ティチェルリスは食事を口に運びながら、ちらちらとビトリアンの顔色を伺っていた。
(……ビトー、いつ訓練してくれるんだろ。)
ふと視線がビトリアンの手元に落ちる。
彼の左手には、昨日の結婚式で交換した指輪がきらりと輝いていた。それを見つめるだけで、ティチェルリスは昨日の記憶を鮮やかに思い出してしまう。
(あの時のビトー……眩しすぎて、まともに見れなかったんだよね……。)
指輪をはめた彼の姿を思い返すと、頬が熱くなり、思わず視線を逸らしてしまう。
それでも、気になっていたことがあった。ティチェルリスは軽く咳払いをして、ビトリアンをちらりと見つめた。
「ねぇ、ビトー。結婚式の時に言ってた訓練は?」
「…だめ。…今日は…だめ。」
ビトリアンはスープを飲む手を止め、ティチェルリスのほうをゆっくりと見上げる。その視線が絡んだ瞬間、彼女の胸が高鳴った。
最近のビトリアンは、どんどん男性らしくなっている気がして、心が落ち着かない。
無表情な顔つきは相変わらずなのに、その仕草や言葉に宿る優しさや色気が、日ごとに増しているような気がする。
(どうしよう……。落ち着かない。)
昨日の結婚式の時だってそうだ。彼が迎えに来た時、ティチェルリスはあまりの眩しさに直視できなかったのだ。まるで別人のような凛々しい姿に、心臓が跳ね上がったほどだった。
彼女がぼんやりと見つめていると、ビトリアンは静かに口を開いた。
「訓練は、領地に帰ってから…。王都にいる間は…僕と…デート…だよ。」
「……え?」
予想外の返事に、ティチェルリスの顔が真っ赤になる。
「……デート、しようね。ティチェ。」
ビトリアンは落ち着いた声でそう言った。まるで当たり前のように。
「デ、デート!?ちょっと、急にどうしたの……?」
驚きで声がうわずり、ティチェルリスの頬は真っ赤に染まった。
「僕たち、仲良し夫婦…だよ。デート…行く…でしょ?」
淡々と告げるビトリアンの瞳はまっすぐで、どこにも迷いがない。けれど、その真っ直ぐな視線が余計に恥ずかしくて、ティチェルリスは慌てて目を逸らした。
(うぅ、ビトーったら最近ずるい……!)
心臓の鼓動が高鳴り、彼女は思わず自分の頬を両手で抑える。彼が真面目にそんなことを言ってくるのが信じられないくらいだった。
ビトリアンはそんな彼女の反応に小さく微笑みを浮かべ、優しく囁いた。
「ティチェ、嫌?」
その低く甘い声に、ティチェルリスの心はさらに激しく揺れる。
(うぅ……嫌なわけないじゃない!)
小さく唇を尖らせながらも、ティチェルリスは渋々頷く。
「……べつに嫌じゃないけど。」
その小さな声を聞いて、ビトリアンの口元がふわりと綻んだ。
(ティチェ……やっぱり可愛い。)
心の中でそう思いながら、彼は静かに微笑んだ。
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――——————
昼食を終えて部屋を出ると、ティチェルリスは少しドキドキしながら外へと向かった。
外では、ビトリアンが穏やかな表情で彼女を待っていた。いつもの無感情な表情なのに、どこか今日は柔らかく感じるのは、結婚したせいなのだろうか。
ティチェルリスは思わず立ち止まった。
(……背が、伸びてる。)
彼の背丈は、気づかないうちに彼女を大きく超えていた。少し前まで同じくらいだったのに、いつの間にか彼女が彼を見上げるほど差がついている。
(なんか……ずるい。)
そう思いながら、彼女はそっと目を逸らす。自分でもよくわからないけれど、少し照れくさかった。
そんな彼女の様子に気づいたのか、ビトリアンは無言でそっと腕を差し出した。
(あ……。)
ティチェルリスは、一瞬戸惑った。彼が差し出した腕に触れるのが急に恥ずかしくなり、しばらく迷った後、意を決して恐る恐る腕に手を絡ませた。
(腕……逞しくなったなぁ……。)
少し前まで細かった彼の腕は、いつの間にか男らしく筋肉質になっている。そのことに気づくと、心臓がさらに激しく鳴った。
「ティチェ、行こうか。」
ビトリアンの低く優しい声が響く。
「……う、うん。」
ティチェルリスは顔を赤らめながら、小さく頷いた。
その瞬間、二人の後方からヒソヒソと声が聞こえてきた。
「……今朝、シーツに血が……。」
「まぁ、本当に昨夜はあったのね……。」
(えっ……!?)
ティチェルリスの顔は一気に熱を持った。動揺してビトリアンの腕を握る手に力が入る。
(ち、血って何!? 昨晩のアレ!?ビトーが鼻血だしてたような…。)
パニックになりそうになるティチェルリスに気づいたビトリアンは、悪戯っぽく笑った。そして――突然、彼女の身体を軽々と持ち上げる。
「え!?ちょっ、ビトー!?何してるの!?」
驚きで大きく目を見開くティチェルリスを、ビトリアンはしっかりとお姫様抱っこしている。
「ティチェが腰が痛いって言うからー!!今日はずっとこれでデートだねー!」
珍しくはっきりした声で叫ぶビトリアンに、ティチェルリスはぎょっと目を丸くした。
(腰!? 私、そんなこと言った!?)
王宮から送り込まれた使用人たちが、この言葉を聞いてざわつく。ビトリアンは、それを横目で確認しながら、小さく満足げに微笑んだ。
(まぁ、誤解してもらったほうが好都合だよね。)
そのまま驚いて固まっているティチェルリスの額に、軽くキスを落とす。
「ビトー!!」
「今日は僕が運ぶよ。ティチェは大人しくしてて。」
戸惑う彼女の瞳を優しく覗き込みながら、ビトリアンは静かに歩き出した。彼の腕の中で揺れるたびに、ティチェルリスの心臓は限界まで高鳴る。
「もう……本当にどうしちゃったのよ……。」
照れくさくて、顔を胸に埋めながら呟いたけれど――彼女の胸の鼓動は、それとは正反対にますます早くなっていた。
それを察したビトリアンは、心の中で小さく微笑んだ。
―――――――———
――——————
ビトリアンは、以前の記憶の中でティチェルリスが好きだったというオペラ劇場に彼女を連れて行った。
劇場の豪華な座席に腰掛け、華やかな衣装をまとった歌手たちが壮大な歌声を響かせ始める。壮麗な舞台演出や音楽に、きっとティチェルリスも感動してくれる――そう期待したのだが。
ふと隣を見れば、ティチェルリスはウトウトと首をこくりと揺らしている。やがて、そのまま小さく「すぅ……」と寝息を立て始めた。
(……なんで? オペラ、好きだったはずなのに……。)
少し肩を落としながら、彼は静かにため息をついた。
◇◆◇◆◇
次に訪れたのは、美しい花々や珍しい植物が咲き誇る植物園だった。以前の記憶のティチェルリスは、ここを喜んで何度も訪れていた。きっと、彼女はまた喜んでくれる――そんな自信を持って彼女を連れてきたのだが。
「あ! あの果物、美味しそうー!」
彼女は、綺麗に咲き乱れる花にはまったく目もくれず、果樹エリアにまっしぐらだった。彼女の視線は、完全に食べ物に釘付けだ。
「ティチェ……花とかには興味ないの?」
「えっ、あっ、花もいいけど……それよりビトー、あの果物食べられるかなぁ?」
(……全然違う。)
彼女の興味は、完全に「食」へと傾いていた。記憶の中のティチェとはまるで違う姿に、ビトリアンは再びがっくり肩を落とす。
◇◆◇◆◇
結局、植物園を後にした二人は、公園のベンチに座り込んだ。もう夕暮れ時で、空がゆっくりと茜色に染まっていく。
ビトリアンはどこか疲れたように空を見上げた。
(……なんでだ? どうして記憶の通りにならない? 本当にあれはただの夢だったのか?)
深刻な顔で考え込むビトリアンの隣で、ティチェルリスはのんびりと空を見つめて足をぶらぶらさせていた。
やがて、ビトリアンは意を決したように彼女に問いかける。
「ティチェ……君は、一体何が好きで……何が嫌いなの?」
ティチェルリスは驚いたように目を丸くした後、少し困ったように小首をかしげた。
「んー、何が好きなんだろうなぁ?伯爵家にいた頃はずっと冷遇されてたし、それどころじゃなかったし、学園に行っても嫌がらせばっかりで、毎日筋トレして乗り越えるのに精一杯だったし……。」
その言葉に、ビトリアンはハッと気づいた。
(そっか……育った環境が違うんだ……。)
別の時間のティチェは膨大な魔力を持ち、伯爵家でも学園でも誰からも愛され、称賛されて育った。けれど、目の前の彼女は違った。彼女は自分を守るために懸命に生きてきたのだ。
(それなら……違って当然か……。)
ふと、彼の胸の中に、彼女への切ない感情が湧き上がる。
その時――ティチェルリスが突然パッと明るく顔を輝かせ、元気な声をあげた。
「あっ!でもね、ビトーが買ってくれたマカロン!あれ大好きだよ!」
その言葉とともに彼女が見せた眩しい笑顔に、ビトリアンの心臓が大きく跳ねた。
(……あ。)
胸がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われ、彼は無意識に胸元を押さえた。
(好き……?)
その言葉が頭をよぎった瞬間、彼の頬がじわりと熱くなった。
(これが好きって感情なのか? 僕も……あの世界の僕みたいに、ティチェが好きなのか……?)
「……ビトー?」
ティチェルリスが心配そうに彼を覗き込む。
彼女の透き通るような青い瞳が、まっすぐ自分を見つめている。その視線に、彼はたじろぎそうになるのを必死で堪えた。
「……マカロン、買って…帰ろう。」
照れ隠しのように、ぶっきらぼうにそう呟く。
「ほんと!?やったー!」
喜ぶティチェルリスの笑顔を横目で見ながら、ビトリアンは胸の鼓動を抑えきれず、そっと視線を逸らした。
(ああ……好きだ。僕は…君のその笑顔が、たまらなく好き……。)
彼女の嬉しそうな横顔を見つめながら、ビトリアンは自分の中に芽生えた感情に、ようやく素直になったのだった。
【おまけの話】
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夜の寝室。
月明かりがカーテン越しに差し込み、静かな夜の空気が広がっている。
シーツの上では、ティチェルリスが穏やかな寝息を立てながらスヤスヤと眠っていた。
ビトリアンは、そんな彼女の寝顔を見つめながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。
(……よし、今夜こそ……。)
慎重にシーツを持ち上げ、そっと彼女のパジャマのボタンに指をかける。
――第一段階。
ひとつ、ふたつとボタンを外していく。
ティチェルリスの柔らかな肌がちらりと見え始めるが、彼女は微動だにしない。
(……ここまでは、順調。)
ビトリアンは一度深呼吸をし、次なる行動へと移る。
――第二段階。
(よし……いくぞ……!)
意を決して、彼女の下着にそっと手を伸ばし、めくろうとした――
バチッ!!!!
「っ……!!」
凄まじい衝撃と共に、ビトリアンの指が弾かれた。
(……チッ、だめか…!)
一瞬、何が起こったのかわからず、呆然とする。
(……なら、角度を変えて……。)
ビトリアンは慎重に別の方向からめくろうとする。
バチバチッ!!!!
「……っ!」
(……ど、どの角度も無理だと……!?)
試しに左手で挑戦。
バチィッ!!!
ならば右手!
バリバリバリッ!!!
(……どの方向からも弾かれる……!?)
まるで見えないバリアに守られているかのようだった。
(……おのれ……未来の僕!!)
普段は制御できているはずの彼女の雷が、"この状況"になった途端、自動的に発動している。
ビトリアンは青ざめながら天井を仰いだ。
(……これじゃ、いつまで経っても……!!)
しかし、彼はすぐに冷静になり、考えを巡らせた。
(……いや、待て。ガーナンドブラック家にはこのための手段があるはずだ……。)
ビトリアンはふと、家宝とも言える"絶縁手袋"の存在を思い出した。
これは雷の魔力を持つ者が暴走した時のために代々受け継がれている"ゴム製"の手袋だ。
(……これなら……!)
彼はそっとベッドサイドの引き出しを開け、中から黒いゴム手袋を取り出した。
(よし……これでティチェを守る雷を無効化できる……!)
静かに手袋をはめ、再び彼女の下着に手を伸ばす。
――めくれた。
(……やった……!ついに……!!)
その瞬間――
「ひっ!!」
可愛い声が耳元で響いた。
(……え?)
ビトリアンはゆっくりと顔を上げた。
そこには――
ぱっちりと目を開け、唇を小さく震わせるティチェルリスの姿があった。
(……あ。)
「あ……。」
一瞬、時が止まる。
(どうする……どうする!?何か言い訳を……!!)
しかし、言い訳を考える暇などなかった。
バチィィィンッ!!!!
「っ!!?」
凄まじい音と衝撃が、寝室に響き渡った。
次の瞬間――
ソファーの上で、頬を押さえながら項垂れるビトリアンの姿があった。
(……痛い……。せっかく好きになったのに…。)
ティチェルリスの怒りのビンタをまともに食らい、完全にノックアウトされてしまったのだ。
シーツの上では、ティチェルリスが顔を真っ赤にしてプルプル震えていた。
「ビトーの、ばか……!!!」
「……ごめん……。」
こうして、ビトリアンの密かな挑戦は失敗に終わり、今夜も彼は"ソファーでの夜"を過ごすことになったのだった。
【完】




