31話目
しかし、ティチェルリスの状況は日に日に悪化していった。
頬はこけ、目の下にはくっきりと隈が浮かび、笑顔さえ辛そうだった。
「ティチェ……体調が悪いの?」
僕が尋ねるたびに、彼女は力なく微笑んだ。
「大丈夫よ、ビトー。ちょっと疲れただけだから……。」
けれど、その言葉とは裏腹に、彼女の身体は日に日にやつれていった。青く澄んだ瞳は光を失い、唇は血の気を失って白くなっていた。
そしてある日、僕は王太子の命令で、ティチェルリスを抱き上げ、宮殿の地下へと向かった。
そこで目の当たりにしたのは、信じられない光景だった。
広大な地下空間に無数の巨大な貯水槽が並び、ティチェルリスは、その貯水槽を満たすために、全身を震わせながら、水の魔力を絞り出していた。
「ティチェ……!?」
あまりに衝撃的で、声が震える。
彼女は顔を青白くし、額から汗を滴らせながら、震える手で水を生み出し続けている。指先は青白く染まり、目は虚ろだった。
「王太子様!このままでは彼女は死んでしまいます!!」
僕は叫んだ。
けれど王太子は、冷笑を浮かべただけだった。
「黙れ。この女が望んだことだ。」
「ティチェ……それは本当なのか?」
震える声で問いかけると、彼女は小さく、弱々しく頷いた。
「……はい。」
すると、王太子が嘲笑うように言った。
「教えてやろう。この女は、お前を近衛につける代わりに、この苦役を自ら引き受けたのだ。そのおかげで国家の予算が浮き、我々王家は安泰だ。感謝しろよ。」
「……っ!」
その瞬間、胸が引き裂かれるような痛みが襲った。
(そんな……僕が側にいたいって願ったから……?ティチェはそのために、こんな苦しいことを……?)
彼女の本当の気持ちも知らず、僕はただ能天気に彼女の側で過ごしてきたのだ。
日に日に衰弱していくティチェルリスを見ても、僕はその真実を知らなかった。
心臓が破れそうなほど苦しく、後悔が身体中を締めつける。
◇◆◇◆◇
「もう……これが、最後ね……。」
かすれる声で呟いたティチェルリスが、静かに床に倒れ込んだ。僕は駆け寄り、彼女の小さくなった手を強く握りしめた。
「ティチェ、撤回して!今からでも遅くない!」
しかし彼女は悲しげに首を振った。
「もう無理よ……。魔法で契約を結んでしまったの。」
僕の目から、涙があふれ落ちた。
「そんな……ティチェ、お願いだから……僕を置いて行かないで。」
彼女の瞳からも静かに涙がこぼれ落ちる。
「ビトー……ずっと側にいてくれてありがとう……大好きよ。」
小さな囁きと共に、彼女の瞳がゆっくりと閉じられていく。
「ティチェ!?待って……だめだ……!逝かないで、お願いだ!」
僕の叫びは虚しく響く。
僕はどうすることもできず、目の前が涙でぼやけた。
その時だった。
――自分の中の全ての雷の魔力が、感情と共に目覚めるのを感じた。
絶望の淵で、僕の身体に宿った雷が、これまで感じたことのないほど激しく脈打った。
(こんな力……彼女を救えないなら意味がない……!)
「お願いだ……届いて……!」
僕は力を振り絞り、ティチェルリスの意識がまだ存在している間に、彼女の過去へと雷を送った。時間を遡り、彼女の生まれたその瞬間まで、この魔力を――僕のすべてを送った。
僕の身体は徐々に崩壊し、視界が歪む。
けれど後悔はなかった。
(今度こそ……次は必ず、君を守る。)
次元を超え、雷が奔る。
生まれたばかりのティチェルリスに、未来の僕の雷が継承される――。
崩れ落ちる僕の身体の中で、意識が薄れていく。
最後に見えたのは、彼女の穏やかな笑顔だった。
――———————
――—————
僕は馬車の中で、混乱する頭を抱え込んでいた。
(――ティチェルリス……あの子は、まだバルバータン伯爵家で誰とも婚約していない……!)
胸が激しく高鳴り、無意識のうちに叫んでいた。
「引き返して!!今すぐバルバータン伯爵家へ向かって!」
執事のマルチェが、ぎょっとした顔で振り返る。
「公爵様……いったい、どうなさいましたか?」
「いいから早く!!急いで……結婚を…とりつけにいく!」
僕の鬼気迫る様子にマルチェは動揺しながらも、慌てて馬車の向きを変え、急いで伯爵家へと駆け戻った。
馬車が揺れる間も、僕の頭の中には鮮烈に記憶が流れ込んできていた。別の人生を生きた『僕』が、ティチェルリスを失った痛みや悲しみ、絶望を――鮮明すぎるほどに。
(あれはただの夢だ……バカバカしい。ありえない。)
けれど、その否定の声をかき消すほど、僕の身体は雷の記憶を克明に覚えていた。胸の奥で弾けたあの強大な雷は、間違いなく僕が本来持つべき魔力だったと、なぜか確信めいていた。
(……どうして僕は、魔力を持たずに生まれてきた?)
その答えが、今ははっきりと分かった気がした。
◇◆◇◆◇
伯爵家に到着すると、僕は即座にバルバータン伯爵に会いに行った。
「夜分に失礼します、伯爵」
「これは公爵様……突然どうなされたのです?」
「お願いがあって来ました。あなたの娘――ティチェルリスを、僕にください」
伯爵の目が驚きに見開かれる。
「……どういうことでしょうか?」
僕は真っ直ぐに伯爵を見つめ、静かに話し始めた。
「王家には、ティチェルリスの魔力について虚偽の報告をしてください。そして、明日のうちに彼女を公爵家に引き渡し、僕との結婚を認めてほしいのです」
「なっ……」
伯爵が動揺するのも当然だった。しかし僕は、迷うことなく続けた。
「その代わりに、今後、あなたの領地へは無償で電力を供給することを約束します。これは悪い話ではないでしょう?」
伯爵はしばらく迷っているようだったが、最終的に重々しく頷いた。
「……承知いたしました、公爵様」
◇◆◇◆◇
翌日、ティチェルリスは何も知らずに公爵邸へやって来た。
(本当に……来てしまった……。)
けれど、いざ目の前にすると、僕は彼女にどう接したらいいのか分からなくなってしまった。あの記憶の中の『僕』とは、まるで違う僕だったからだ。
――そして、あの『僕』ですら、一番大切な人を救えなかった。
(今の僕に……いる価値なんて、あるのか?)
幸いにも、僕の本来の雷の力は彼女が持っている。僕自身は必要ない存在なのかもしれない……そんなことを考え、虚ろな日々を過ごしていた。
◇◆◇◆◇
けれど、そんな僕の考えをよそに――
ティチェルリスはいつだって無邪気で、予測不能で、僕の想像を超えていた。
ある時は僕を雪の中に埋めて凍死寸前まで追いやったり、 ある時は激まずの奇妙なドリンクを強引に飲ませたり、 またある時は激辛の飴を口移しで口に押し込んだりした。
まるで無邪気に、悪気もなく、楽しげに笑いながら。
「ビトー、これ美味しいよ!」 「ちょっと苦いけど、元気が出るから!」
本当に死ぬかと思った。
でも、そのたびに僕の身体は必死に抵抗し、生命力を振り絞って生きようとした。
心はとっくに諦めていたのに、体だけは彼女の前で必死に生きようとしていたのだ。
(なんでこんなに苦しくても……僕は生きようとしてしまうんだろう?)
その時、気づいた。
(――ああ、そうか……。)
僕は、もう一度だけ、彼女のために生きてみたいと思ってしまったのだ。
彼女が僕のことを好きかどうかは分からない。でも、このまま死んでしまったら、またあの痛みを繰り返してしまう気がした。
(僕はもう二度と……彼女を失いたくない。)
だから僕は、もう一度だけ、ちゃんと生きてみようと決めた。
――———————
――——————
朝の柔らかな光が、薄いカーテンを通して部屋に差し込んでいた。
ゆっくりと目を開けると、隣でティチェがまだ眠っている。長い銀色の髪がふわりとシーツの上に広がり、頬がほんのり赤みを帯びていて、寝顔がとても穏やかだ。
(……可愛い。)
思わず見惚れてしまい、そっと頬を撫でようと手を伸ばした瞬間――
「……んぅ?」
ティチェが小さく身じろぎして目を覚ました。
ぱちり、と青い瞳が僕を見つめる。
彼女は一瞬ぽかんとして、次の瞬間、昨夜の記憶を探るように顔を青くしたり赤くしたりと、めまぐるしく表情を変えていた。
(百面相……?)
どうやら昨晩のことを思い出せず、必死に状況を把握しようとしているようだった。
……確かに昨晩は、僕が彼女を酸欠にさせて、軽く雷で気絶させてしまったから無理もないのかもしれない。
(ちょっと雷、強すぎたかな……。)
申し訳なさも感じつつ、しかし彼女の動揺した姿があまりにも可愛くて、つい悪戯心が芽生えた。
僕はわざと申し訳なさそうな表情を作りながら、彼女を優しく覗き込んだ。
「ティチェ……おはよう。……体、どこも痛くない?」
「えっ!?」
僕の問いにティチェの瞳が驚きで大きく見開かれ、一気に頬が真っ赤になった。
「い、痛くない……けど……。」
恥ずかしさのあまり、ティチェはシーツを胸元までぎゅっと引き上げ、視線を泳がせながら小声で呟いた。
僕はそれを見て、さらにしおらしい表情で追い討ちをかけた。
「よかった……激しくしちゃったから、どうかなって……。」
「えぇぇぇ!?」
ティチェの顔がますます赤くなり、今にも湯気が出そうなほど焦っていた。彼女は混乱してシーツの中で小さくもぞもぞと動き、何とか昨夜の記憶を思い出そうとしている。
――もちろん、本当は何もなかった。
僕が彼女の服を少しめくろうとするだけで、未来の僕が託した雷が強烈に邪魔をして触れることすら許さなかったからだ。おかげでティチェは無傷だし、何一つ進展していない。
けれど……。
こんな風に慌てて赤くなっているティチェの姿を見ていると、つい意地悪したくなってしまう。
「ご、ごめんね? 記憶、ない……。」
ティチェは涙目になりながら申し訳なさそうに僕を見上げる。その顔が可愛すぎて、僕は堪らずに笑みを浮かべ、そっと彼女の頭を撫でた。
「……嘘だよ。」
「え?」
ティチェがぽかんと口を開けて僕を見つめる。
「昨夜はキスをしただけで、ティチェは気絶しちゃったんだ。」
僕がそう告げると、ティチェは数秒きょとんとした後、自分がからかわれたことに気づき、真っ赤な顔で勢いよく布団の中へと潜り込んだ。
「ビトーのばかぁぁぁっ!」
布団の中から悔しそうな声が聞こえる。僕はその様子を見ながら、心の中で静かに誓った。
(待っててね、ティチェ……。)
まだ君に『愛してる』とは言えないけれど。
だからこそ――これからもっと君を知って、『可愛い』が『好き』に、『好き』がやがて『愛』へと変わるその日まで――
(必ず君をちゃんと奪うから。)
そう胸に誓いながら、僕はもう一度、そっと布団の上から彼女を優しく抱きしめた。




