28話目
結婚式が終わると、すぐに王都へと移動させた別館で盛大な披露宴が始まった。
瞬く間に出現した豪奢な建物は、まるで最初からそこにあったかのように王都の景観に溶け込んでいる。しかし、王都の貴族たちは、そんなことがあり得るはずもないと理解していた。今まで存在しなかった建物が一瞬でそこにあるという現実――それは、まさにガーナンドブラック公爵家の圧倒的な力を見せつける象徴となった。
「まさか、屋敷ごと転移させるとは……。」 「やはり、あの公爵家は化け物じみているな……。」
貴族たちがひそひそと囁き合うが、ビトリアン本人はそんなことを意に介さず、淡々と披露宴の席についた。
煌びやかなシャンデリアのもと、豪華な料理と美しい装飾が施された広間には、貴族や王族、各国の要人が集まり、優雅にグラスを傾けている。
しかし――
(……やっぱり。)
ティチェルリスはふと、違和感を覚えた。
自分の席の周囲が、やけに静かだったのだ。
美しく着飾った令嬢たちは大勢いるものの、誰一人として彼女に話しかけようとしない。むしろ、少し距離をとって彼女の様子を伺っているようにすら見えた。
(……嫌われるのは卒業後もなのね。)
さっきまで、悪口を囁いていた令嬢たちも、一様にそわそわしており、彼女に視線を向けつつも、決して近づこうとはしない。
それに対して――
「公爵様、ぜひわが家の事業についても……。」 「公爵閣下、この機会に貿易の件を……。」
ビトリアンには、貴族や商人たちが次々と話しかけていた。
もちろん、彼の財力と影響力を求めてのことだろう。
(……まぁ、ビトーなら当然よね。)
そう思いながら、ティチェルリスはぼんやりとグラスの中の飲み物を見つめる。
けれど――
(……あれ?)
ふと、彼女の目が止まったのは、会話を交わしているビトリアンの様子だった。
(えっ、普通に喋ってる……?)
ビトリアンは、いつもよりも饒舌に話し、適度に微笑みさえ浮かべている。
あの、無感情公爵が――まるで社交の場に馴染んでいるかのように。
(……ちょっと待って、普通に話せるんじゃない!?)
ティチェルリスは思わず、じーっと彼を見つめてしまった。
それに気づいたのか、会話を終えたビトリアンがゆっくりとこちらを向く。
貴族たちが席を離れ、二人きりになると、ティチェルリスはすかさず尋ねた。
「ねぇ、ビトー、さっきすごく普通に話してたじゃない。普通に話せるなら、普通に喋りなさいよ。」
少し膨れっ面で言うティチェルリスに、ビトリアンは一瞬だけ目を伏せると、静かに答えた。
「あれは……演技……だから……。」
「えぇ……。」
ティチェルリスは、思わず唖然とする。
(いや、演技でも、普通にできるなら普通に話してよ……!)
彼の腹から声を出さない、あの独特の喋り方に少しイラっとする。
しかし――
ビトリアンは彼女の表情を見て、まずいと思ったのか、ふっと目を細めて、静かに言った。
「……ティチェの前では……素の僕で……いたい……から。」
その瞬間――
「っ……!」
ティチェルリスの顔が一気に赤く染まった。
ぽかんと口を開けたまま、言葉を失う。
(……そ、そんなこと……!)
心臓が跳ねる。
確かに、彼の社交的な態度も悪くない。けれど、彼が自分の前では、無理をしないでいられることを選んでくれていると知ると――なんだか、嬉しいような、恥ずかしいような。
彼女がもじもじと視線を逸らすのを見ながら、ビトリアンは内心、ほっと胸を撫でおろしていた。
(……ティチェが、ちょろくて助かった……。)
そうして披露宴の中、二人だけの静かな時間が流れていくのだった。
――—————————
――——————
王都にある別館の最上階。
夜の帳が静かに降りる中、ティチェルリスは鏡の前でしげしげと自分の姿を見つめていた。ダリアが「奥様、特別な夜ですから」と妙に気合を入れて支度をしてくれたせいで、パジャマの露出がいつもより明らかに高い。肩が大胆に開き、布地は薄く、どことなく艶っぽいデザインだった。
(……なんか、すごいんだけど。)
肌にふわりと触れるシルクの感触に、ティチェルリスはそわそわしながら、軽く頬を叩いた。
(気にしすぎ……! いつもと同じ夜よ、落ち着いて!)
意を決して、寝室の扉を開く。
そこには、ナイトローブをまとったビトリアンが静かに佇んでいた。月明かりが窓から差し込み、彼の輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。
「ビトー、なんだか……ダリアが手違いで気合い入れちゃったみたい。」
少し照れながらベッドに入り、シーツを胸元まで引き寄せる。普段なら何気なくできる動作なのに、今日はやけに意識してしまう。
しかし、ビトリアンは彼女の言葉を聞いて、静かに頷いた。
「初夜を……するんだと思う。」
「……は?」
ティチェルリスは瞬きする。
「初夜って……結婚して半年経ってるわよ?」
「……あの時は……僕に、まだ……感情がなかったから……なし……で。」
「自分で言っちゃうんだ……!」
クスクスと笑いながら、ティチェルリスは思わず肩を揺らした。だが、すぐに "じゃあ今日するってこと!?" という事実に気づき、一気に顔が真っ赤になる。
「百面相?」
すかさず指摘される。
「ひっ……!」
さらに赤くなりながら、ティチェルリスはシーツをぎゅっと握りしめた。
(ちょ、ちょっと待って!? どうするの、これ……!)
そんな彼女の心情を完璧に理解したビトリアンは、静かに彼女の両腕を押さえつけると、そのまま情熱的にキスを落としていく。
「ちょ……ビトー、止まって!」
必死に顔を逸らそうとするが、ビトリアンの唇は逃がしてくれない。
「やだ。」
そう囁きながら、彼はキスを重ねていく。
柔らかく、深く、時には焦れるように。
ティチェルリスは抵抗しようとするものの、次第に身体から力が抜け、ついには大人しくなってしまう。
(な、なんでこんな……!)
彼の手が、そっと服の裾に触れた――その瞬間。
バチン!!
鋭い雷の音が響いた。
「っ……!」
ビトリアンは、突如として走った電撃に驚き、同時に――
ボタボタッ……と鼻血が垂れた。
「……。」
一瞬、沈黙。
そして、鼻血はティチェルリスの太ももにぽたぽたと落ちる。
「……えっ!? ちょっ、やだ、ごめんなさい!!」
ティチェルリスは大慌てで布を探し、見つけると素早く鼻に当ててあげる。
「私のせいかな? ごめんね……。」
申し訳なさそうに覗き込む彼女の顔に、ビトリアンは小さく息を呑む。
(……違う。ティチェのせいなんかじゃない。)
自分でもわかっていた。
これは――
(あれは……。)
思考がまとまらないうちに、しばらくして鼻血が止まった。
「止まった……。」
ティチェルリスはほっと息をつきながら、布を外す。
すると、ビトリアンがぽつりと呟く。
「キスだけでも……していい?」
「き、聞かないでよ……そんなこと……。」
恥ずかしさのあまり、目をそらしながら言うティチェルリス。しかし、次の瞬間――
ビトリアンはそっと彼女を押し倒し、再び深いキスを落とした。
舌を絡め、呼吸を奪うようなキス。
ティチェルリスの意識がどんどん遠のいていく。
(……あ……頭が……ぼんやりする……。)
それを見計らったように、ビトリアンは微かに雷を纏わせる。
――パチン。
電流が走った瞬間、ティチェルリスの身体が力を失い、そのまま気を失う。
静かな寝息が聞こえ始めるのを確認すると、ビトリアンはゆっくりと起き上がった。
(……王族の目もあるし、鼻血が出てくれて丁度よかったのかもしれない。ださいけど。)
そう思いながら、そっと彼女の髪を撫でる。
そして、そっと彼女の服に手をかけようとした――その時。
バチッ!!!
「……っ!!」
再び、強い雷がビトリアンを弾くように走る。
じんと痺れる手を見つめながら、ビトリアンの中で、確信めいた感情が生まれた。
――雷が、彼を拒むように弾いた。
ティチェルリスの魔力は、単なる防衛本能ではない。まるで、"意志"を持つかのように、彼の動きを制する。それは、その雷が"まだ"受け入れるべきではないと判断したかのようだった。
(……やっぱり、そういうこと……か。)
ビトリアンは、静かに彼女の寝顔を見つめた。
白く細い指先、わずかに開いた唇、穏やかな寝息。
彼女は眠っているのに、雷だけは確かに彼を弾いた――いや、拒んだ。
「愛してないと……だめ?」
彼はぽつりと呟く。
ティチェルリスは応えるように、小さく身じろぎした。微かに眉を寄せ、無意識に彼の胸元へと身を寄せる。だが、それでも雷は止まらなかった。
ビトリアンは、軽く息を吐く。
「まだ……可愛い、だから……だめ?」
愛という形にはなっていないかもしれない。
けれど、彼は彼女を大切に思っている。彼女を失いたくない。傷つけたくない。そう思うのは、"好き"と何が違うのだろうか?
――バチッ。
ティチェルリスの周囲に、また小さく雷が走る。
(……まるで、返事をしているみたいだ。)
そう思うと、妙に可笑しかった。
「未来ではどうせ愛せてるんだから……良いじゃん。ちょっとくらい。」
冗談めかして呟きながら、そっとティチェルリスの服に手をかけようとした――その瞬間。
バチンッ!!!
「……っ!!」
今度の雷は、先ほどとは比べ物にならないほど強かった。
痺れる腕を押さえながら、ビトリアンは小さくため息をつく。
(……ほんとに、ダメか。)
――いや、違う。
"今はまだ"、ダメなのだ。
それに気づくと、思わず苦笑が漏れた。
「……わかったよ。」
素直に手を引き、彼女の頬をそっと撫でる。
「でも、キスだけは許してよ……。」
雷は、ピクリとも動かない。
(……なるほど。)
優しく彼女の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づける。
「何か……掴めそうだし……。」
触れるだけのキスを落とすと、ティチェルリスのまつげがわずかに震えた。
「それに、ティチェも喜んでる……そうだろ?」
そう囁くと、ティチェルリスの指が、ぎゅっと彼の服の裾を掴んだ。
そして、雷は――
ぴたりと静まった。
(もう、答えは出た。)
彼女を包む雷は、ビトリアンの失くした雷だった。
そして、それは――未来の自分が託したものだ。
ビトリアンは、もう一度、優しく唇を重ねる。
ゆっくりと、怖がらずに。
この手で、彼女を愛せるその日まで――