26話目
東の空がほのかに朱を帯び始めるころ、公爵邸の広間には、ずらりと整列した使用人たちの姿があった。厳かな空気が漂い、誰もが静かに緊張した面持ちで主の指示を待っている。
――いよいよ、結婚式当日。
長い準備期間を経て、この日を迎えることができたのだ。
そんな中、ティチェルリスはビトリアンの隣に立ち、小さく首を傾げながらぽつりと呟いた。
「ねぇ、ビトー。どうして別館で結婚式なの? 本館でやらないの?」
公爵邸の敷地内には、いくつかの別館がある。確かに、格式ある建物ではあるけれど、王族や貴族を招待するには本館のほうが適しているはずだ。しかも、王都ではなく、こんな辺境で結婚式を開く意味があるのだろうか?
ティチェルリスの疑問に、ビトリアンは淡々とした口調で答えた。
「……式は王都だよ。」
「え? じゃあ、ここじゃなくて王都でやるの?」
「今から移動する……屋敷ごと。」
「……はい?」
一瞬、彼の言葉が理解できなかった。
「ど、どういうこと?」
「屋敷ごと……移動する。」
「いやいやいや!! 屋敷って、動かせるものじゃないわよ!?」
ティチェルリスは、思わず身を乗り出してビトリアンを見上げた。しかし、彼は変わらず冷静に、淡々とした表情のまま。
「裏口……使う。」
「は?」
裏口って、あの、普通の出入り口のことじゃないの!? それとも、裏口っていう名前の魔法か何かなの!?
彼女が呆然とする中、ビトリアンは横に控えていたダリアをちらりと見た。
「ダリア、ティチェをお願い。」
「かしこまりました。」
ダリアは深々と一礼すると、にっこりと微笑み、ティチェルリスの腕をそっと引いた。
「ティチェルリス様、こちらへどうぞ。」
「えっ、ちょっと待って! ねぇ、ビトー!?」
ビトリアンは何も言わず、ただ静かに手袋を外した。
(え、なに? 何が起きるの!?)
不安げな表情を浮かべながら、ティチェルリスはダリアに導かれるまま、別館へと移動することになった。
◇◆◇◆◇
別館の中は、すでに使用人たちが慌ただしく動き回っていた。家具や装飾品を固定したり、テーブルクロスを押さえたりと、普段の結婚式準備とは明らかに異なる雰囲気だった。
「……え? 何をしてるの?」
ティチェルリスは辺りを見回しながら、不可解な光景に眉をひそめた。
「皆様、移動の準備をしております。」
淡々とした口調で説明するダリア。
「移動の準備って、屋敷ごと!? そんなこと本当にできるの!?」
「……ええ、公爵様がいれば可能です。」
そう言われても、ますます訳が分からない。どんな理屈で屋敷が移動するというのか。
ティチェルリスが混乱していると、ダリアがすっと手を伸ばし、彼女を近くの柱へと案内した。
「ティチェルリス様、こちらにおつかまりください。」
「えっ……?」
「しっかりと、お願いいたします。」
「……え、なんかすごく怖いんだけど!?」
明らかにただならぬ事態を感じ取りながらも、ダリアの真剣な表情に圧され、ティチェルリスはしぶしぶ柱にしがみついた。
すると――
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!
「――きゃぁぁぁ!!?」
突然、屋敷全体が大きく揺れた。
床が振動し、天井のシャンデリアがかすかに揺れる。家具にしっかりと固定された装飾品たちが、まるで地震のような衝撃に耐えているかのようだった。
しかし、それはただの揺れでは終わらなかった。
次の瞬間――
ドシーーーーンッ!!!!!
とてつもない衝撃が屋敷全体を包み込み、ティチェルリスの身体が宙に浮いた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
一瞬、重力が消えたような感覚に襲われる。視界がぐるりと回り、体がふわりと浮く。
(な、なに!? 地面がない!?)
と、思った次の瞬間――
ふわっ。
誰かに受け止められた。
驚いて目を開けると――そこには、ビトリアンの顔があった。
しっかりとした腕に抱えられ、お姫様抱っこの体勢になっている。
「……!!?」
ティチェルリスは、真っ赤になって彼を見上げた。
「ビ、ビトー!? どうしてここに!?」
「落ちたら危ない……。」
さらりと言いながら、ビトリアンは何事もなかったかのように彼女を抱きかかえたまま、ゆっくりと足を踏み出す。
しかし、ティチェルリスの心臓は大暴走していた。
(ちょ、ちょっと待って! さっきまであんなに揺れてたのに、何でこの人、平然としてるの!?)
顔が近い。心臓が煩い。何もかもが混乱する中、彼の腕の中で固まるしかなかった。
ふと、ビトリアンがちらりと外を見た。
ティチェルリスもつられて視線を向けると――
そこには、見慣れたガーナンドブラック公爵邸の風景はなかった。
代わりに、目の前に広がるのは――王都。
まばゆい光を放つ王宮の尖塔が、王都の街並みの向こうにそびえていた。
「…………え?」
「着いた。」
「えええええええええ!?!?!?!?」
ティチェルリスの叫びが、王都の朝の空に響き渡った。
◇◆◇◆◇
王都の街並みが窓の向こうに広がる。
ついさっきまで、公爵領の別館にいたはずなのに、今は王都へと"屋敷ごと"移動していた。
「……どうやったの!? ねえ、私もできる?」
お姫様抱っこされたまま、ティチェルリスは興奮気味にビトリアンを見上げる。
彼の腕の中は不思議と安定感があり、まるで宙に浮かぶような感覚だった。
ビトリアンは、一瞬だけ考え込むように視線を下げ、それから淡々と答えた。
「ティチェが……あの大穴を水で埋めることができたら、教えてあげる。」
「ほんとに!?」
期待に満ちた瞳で、ティチェルリスは彼の顔を覗き込む。
「うん……ほんと。」
その言葉を聞いた瞬間、ティチェルリスはビトリアンの首に思いきり抱きついた。
「約束! 絶対ね!」
彼の首元に頬を擦り寄せるようにしながら、満面の笑みを浮かべる。
ビトリアンの腕が、少しだけ強く彼女を抱き寄せた。
その仕草は、まるでこの瞬間を噛み締めるようだった。
「うん……。」
微かに頬を緩ませ、嬉しそうにティチェルリスの温もりを感じている。
彼の胸の奥で、じんわりと温かいものが広がる。
――こんな風に、無邪気に甘えてくれる彼女が、愛しくてたまらない。
「そろそろお着替えしましょうか。」
ダリアの落ち着いた声が、空気を引き締めるように響いた。
「うん!」
ティチェルリスは、元気よく頷くと、降りようと足を動かす。
……しかし。
「あれ……?」
降りれない。
ビトリアンの腕が、しっかりと彼女を抱えたまま緩む気配がない。
「あの……ビトー?」
「……もうちょっと。」
「なっ……なっ、なっ!?」
急に近づく彼の顔に、ティチェルリスは顔を真っ赤にしながらおろおろする。
しかし、結局ビトリアンは名残惜しそうにしながらも、静かに彼女を地面に降ろした。
「結婚式だから……叩かないで……。」
そう呟くビトリアンの視線が、彼女の手に向く。
――ティチェルリスは、無意識のうちに拳を握りしめていた。
「……っ!」
ハッとして手を下ろす。
さすがに、今日は叩かない。たぶん。
「行きましょう、奥様。」
そう促すダリアに従い、ティチェルリスは控室へ向かって歩き出した。
ビトリアンのほうをちらりと振り返ると、彼はじっと彼女の後ろ姿を見つめていた。
――まるで、大切なものを見送るように。
◇◆◇◆◇
ティチェルリスは、ご機嫌そうに椅子に腰掛け、頬杖をついて揺れ動く銀髪を楽しげに見つめていた。
窓の外では、王都の朝日が柔らかく差し込み、白いカーテンをふわりと揺らしている。
「随分、ご機嫌がよろしいですね。」
鏡越しにダリアが静かに微笑む。
彼女は丁寧な手つきで、ティチェルリスの肌に化粧下地を塗り込んでいた。
「だって、やっとビトーが能力の使い方を教えてくれるって!」
ティチェルリスは目を輝かせながら、無邪気に笑う。
「それはよかったですね。」
ダリアは相変わらず落ち着いた表情のまま、下地を整えていく。
その手際は手慣れていて、少しずつティチェルリスの肌に透明感が増していくのがわかる。
やがて、化粧が進むにつれ、ティチェルリスの銀髪がより柔らかく光を反射し、青い瞳がより鮮やかに映えるようになってきた。
彼女の前髪は、眉の上できれいに揃えられ、その小さな顔立ちをさらに引き立てていた。
「そういえば――」
ダリアは、ふと筆を止め、穏やかに言った。
「ウェディングドレスは、旦那様が選んだんですよ。」
「えぇ!? そうなの……?」
驚いたようにティチェルリスは目を見開く。
今朝、式場に運ばれたドレスは、真っ白なシルクに繊細な刺繍が施され、裾には美しいレースが広がる見事なものだった。
でも、それをビトリアンが選んだなんて……考えもしなかった。
「はい。それも、何時間もかけて。」
ダリアの言葉に、ティチェルリスはさらに驚く。
「何時間も……?」
あの無感情そうなビトーが、そんなに時間をかけて選んでくれたなんて。
(……なんで?)
そう思いながらも、ティチェルリスの心の奥底がふわりと温かくなる。
「ねぇ、ダリア。」
鏡の中の自分を見つめながら、ティチェルリスは嬉しそうに微笑む。
「とびっきり綺麗にしてね!」
「もちろんです。」
ダリアは微笑みながら、新しいパウダーを取り出し、さらなる仕上げに取り掛かった。
――もうすぐ、結婚式が始まる。
【オマケ】~ウェディングドレス選びに奮闘するビトリアン~
王都の高級仕立て屋。
繊細なシルクやレースの生地がずらりと並び、豪奢な装飾が施された試着室の奥に、ビトリアンは静かに座っていた。
目の前には、ティチェルリスのウェディングドレスを選ぶために集められた数々のデザイン画。
彼は腕を組み、じっとそれらを睨みつけながら考え込んでいた。
(なるべく……ティチェの逞しい筋肉を隠さないと……。)
ティチェルリスは、華奢な顔立ちとは裏腹に、鍛え上げられた逞しい筋肉を持っている。
特に腕と脚の筋肉は、並の騎士よりも引き締まっており、服の選び方を間違えると「公爵夫人」ではなく「最強の傭兵」になりかねない。
(腕は……隠すべきか……いや、二の腕は隠して、肩は出してもいい……。)
ビトリアンは無表情のまま、淡々と結論を出した。
デザイナーたちは彼の言葉に熱心にメモを取りながら、次々と案を出していく。
「では、公爵夫人の腕をエレガントに見せるために、リボンを巻き付けるデザインなどいかがでしょう?」
リボン。
――ティチェルリスに、リボン。
ビトリアンの脳内に、最悪な事態が次々と浮かび上がる。
結婚式の最中、リボンが解けて腕に絡まり、「んもう! 邪魔!」と破り捨てるティチェ。
その瞬間、会場に鳴り響く「ビリッ!!」という音。
さらには、リボンを振り回して暴れる姿が目に浮かぶ……。
(却下。)
ビトリアンは、淡々と首を振った。
「ゴム製の糸で……レースを編めない?」
「ご、ご、ご……ゴム製!??」
デザイナーたちは一斉に驚きの声を上げる。
ゴム製のレースなど、聞いたことがない。貴族の正装としてありえない。
だが、ビトリアンは微動だにせず、冷静に頷く。
「伸縮性が必要……。」
(そうすれば、ティチェが動いても破れないし、何より“腕まくり”を防げる……。)
デザイナーたちは顔を見合わせた。
そして――
「お任せください!!」
職人魂に火がついた彼らは、すぐさま新しいデザインを作り直し始めた。
◇◆◇◆◇
数時間後――
「お待たせしました、公爵様! こちらのデザインはいかがでしょう!」
デザイナーが得意げに広げたドレスのスケッチには、ビトリアンの要望を取り入れた美しいデザインが描かれていた。
繊細なレースが施された上品なドレス。
肩は程よく出しつつも、二の腕はエレガントな刺繍でカバーされている。
何より、ゴム製のレースが組み込まれ、どんな動きにも耐えられるようになっている。
(完璧だ……。)
ビトリアンは、静かに頷いた。
「これは……」
と、その時。
「こちらは、動きやすさを重視して、裾を少し短めにしております!」
デザイナーの言葉に、ビトリアンはスケッチをじっと見つめ――
次の瞬間。
静かに目を細めた。
「……足が出てる。」
低く、力のない声で呟く。
「やり直し。」
その一言で、デザイナーたちは再び顔を青ざめた。
(あの逞しい筋肉質の足を、貴族が見たら……なんて言うか……。)
ビトリアンの脳内には、ティチェルリスが軽やかに階段を駆け下り、裾から覗く鍛え抜かれたふくらはぎに、貴族たちがぎょっと目を見開く光景が浮かんでいた。
「ま、また最初から……!?」
デザイナーたちは泣きそうな顔をしながら、急いで新しいデザインを描き始める。
こうして――
ティチェルリスの筋肉を隠しつつ、美しさを際立たせるために、ビトリアンの長い戦いは続いたのだった。