25話目
屋敷の広間は、まだまだ結婚式の準備で活気に満ちていた。
メイドや使用人たちが忙しなく動き回り、装飾やテーブルセッティングの最終確認に追われている。その中心で、ティチェルリスは生き生きとした表情で指示を出していた。
「そのリボン、もう少し左右対称にしたほうが綺麗よ!」 「テーブルクロスの色は、こっちのほうが華やかじゃない?」 「えっと、ケーキカットの台は……こっちがいいかしら!」
次々と提案しながら、楽しそうに動き回る彼女の姿を、ビトリアンは少し離れた場所から、ぼーっと見つめていた。
昨日のことが、頭をよぎる。
(……全く、僕の気もしらないで。)
雷の暴走を抑えるために必死だったのは、他でもない自分だ。もし止められなかったら、王都どころか国そのものが崩壊していたかもしれない。使用人たちは「雷の災害」として処理していたが、本当は"ティチェルリスの感情の暴走"が原因だということを、彼だけが知っている。
(しかも、昨日の雷災も……僕が怒ったせいにしないといけなかったし。)
本当の原因は、ティチェルリスの雷の暴走――それだけは、公に知られてはいけなかった。
だからこそ、騎士たちとの訓練を慌てて止めたり、訓練そのものを禁止にしているのも、そのためだった。もし彼女の力が王宮に知られれば、必ず利用される。いや、それどころか――ティチェルリス自身が、王族の所有物のように扱われてしまうかもしれない。
(僕が止めなければ……彼女はこの国に……潰される。)
それだけは、絶対に許せなかった。
(それにしても、世界を救った僕に、誰か感謝してくれてもいいんじゃないか……。)
そんな愚痴めいた心情を抱えながら、彼は相変わらずティチェルリスをじっと見つめていた。
すると、突然――
「ビトー!」
ティチェルリスがぱっと振り向き、キラキラと目を輝かせながら駆け寄ってきた。
「ケーキカットのケーキ、苺をたっくさんのせていいかしら?」
その無邪気な笑顔を見た瞬間、ビトリアンは――
反射的に、片腕でティチェルリスを抱き寄せていた。
「えっ――!?」
驚く彼女を胸元に押し付けるようにしながら、ぽんぽんと優しく背中を撫でる。
すっかり背が伸びてしまったビトリアンは、抱きしめたティチェルリスの頭に、自然と顎を乗せる形になった。
(……そういえば、ティチェが来てから毎日成長痛が酷い。)
骨が軋むように痛くて、夜も眠れない日が増えた。身長が急に伸びたせいなのか、それとも彼女と過ごすことで何か変わったのか――よくわからない。
でも、それよりも。
(……あれ? すごく、柔らかい。)
腕の中で、ティチェルリスは完全に固まっていた。
背中に感じる彼女の体温。くすぐったいくらいに伝わる心臓の鼓動。指先に触れる細い肩。
ゆっくりと腕の中を覗き込むと――
ティチェルリスは、顔を真っ赤にして、おろおろと目を泳がせていた。
(……可愛い。)
その瞬間、ビトリアンの思考が止まる。
そして、気づけば――
両腕で、ぎゅっと抱きしめてしまっていた。
彼の腕に包まれたティチェルリスは、抵抗もできず、ただ、ますます顔を赤くしている。
ビトリアンは、自分の中でこみ上げる何かに戸惑いながら、ふと既婚者の使用人たちと話した会話を思い出した。
――数日前。
「最近……ティチェを可愛いと思ってしまう。」
休憩時間、何気なく呟いた彼に、使用人の一人がきょとんとした顔をした。
「可愛い、ですか?」
ビトリアンは、こくりと頷く。
「では、それは"好きの一歩手前"ですね!」
好きの一歩手前。
(好き……の一歩手前……?)
その言葉が、頭の中でぐるぐると反響する。
(……僕は、ティチェを好きになりかけているのか?)
現実に戻ると――ティチェルリスは、ぷるぷると小さく震えていた。
よく見ると、涙目になっている。
(……え? なんで泣きそうになってるの?)
驚いて慌てて彼女を離そうとした、その瞬間――
パァンッ!!!
「……っ!!」
頬に鋭い痛みが走る。
思いきりビンタされた。
びっくりしてティチェルリスを見ると、彼女は耳まで真っ赤になりながら、拳をぎゅっと握りしめている。
「こ、こ、こ……この!! 変態公爵!!!」
恥ずかしさのあまり、完全に怒りに転換していた。
ビトリアンは、頬を押さえながら、静かに一言。
「……痛い。」
風に吹かれる苺の飾りつけのサンプルを横目に、静かに広間に夕日が差し込んでいた。
――————————
――――――——
「今日はソファーで寝るもん!」
ティチェルリスは、ぷいっと頬を膨らませながら枕をぎゅっと抱きしめ、じーっとビトリアンを見つめた。
ふかふかのベッドを背にしながらも、まるでそこに座ることすら拒むように、ソファーに向かって一歩も動かない。
ビトリアンは、静かに彼女を見つめた後、ゆっくりと両手を広げる。
「ティチェ、おいで。」
低く、優しい声。
けれど、ティチェルリスはぷいっと顔を背ける。
ビトリアンは、小さく息をついた。
次の瞬間――
「きゃっ!?」
ひょいっと、ティチェルリスの身体が宙に浮いた。
「お、おろして!!」
「やだ。」
驚いて暴れるティチェルリスをしっかりと抱えたまま、ビトリアンはゆっくりとベッドへと向かう。
どさり――。
柔らかなシーツの上に、ティチェルリスが降ろされる。
……いや、"降ろされる"というより――"押し倒される"に近かった。
「ちょっ、ちょっと~~!!」
慌てて体を起こそうとする彼女を、ビトリアンは容赦なく引き寄せ、そのままぎゅっと抱きしめたままベッドに沈み込む。
彼の腕の中にすっぽりと収まり、動けない。
「夫婦……。」
ビトリアンの低い囁きが、ティチェルリスの耳元で震えた。
「僕たちは夫婦。」
その言葉とともに、さらに強く抱きしめられる。
ティチェルリスの心臓が大きく跳ねた。
「わかったから……離れてぇ……!」
しおらしく、真っ赤になった顔を隠しながら言う。
しかし、ビトリアンは彼女を見下ろしながら、小さく目を細めた。
「最近、よく避ける。」
「そんなことないもん。」
「……前は、もっと……距離、近かった。」
「………………。」
ティチェルリスは、ぎゅっと唇を噛みしめる。
どうして――どうしてこんなに近くにいるのに、今まで通りではいられないの?
「どうして?ティチェ……。」
腕の中で小さく囁かれると、背筋がぞくりとした。
そして、ふいに耳元へとかかる温かい吐息。
「ひぃっ!? み、耳元で囁かないで……!」
全身が一気に跳ねる。
「……教えて、ティチェ。」
ビトリアンの声は低く、そしてゆっくりと。
唇が、自然とティチェルリスの耳に触れる。
――ちゅっ。
次の瞬間、首筋にもそっと落ちる口づけ。
「心臓が!!!……心臓がドキドキするの!!」
ティチェルリスは思わず叫んだ。
「不整脈?」
「ちゃうわぁぁぁ!!!」
半泣きになりながら叫ぶティチェルリスに、ビトリアンは微かに微笑む。
「ビトーが……!! 背も伸びて、男の人みたいになっていくから、ドキドキして……胸がざわついて……冷静じゃいられないの……。」
ティチェルリスは、言いながら自分の顔がどんどん熱くなっていくのを感じた。
だけど――ビトリアンの反応は違った。
ふと、腕の中の彼女を見つめ、無性に――愛おしくなった。
(……可愛い。)
その衝動のままに、ビトリアンはティチェルリスの頬に口づけを落とした。
「ちょっ!? 話聞いてた!?」
「聞いてた……。」
それでも、ちゅっ、ちゅっ、と。
肩に、鎖骨に、首筋に――。
次々とキスを落としていく。
触れるだけの優しいキスもあれば、時折焦れたように少し深くなるキスも。
ティチェルリスの鼓動が、どんどん速くなっていく。
(あぁ……食べてしまいたい……。)
ビトリアンの思考が、次第に甘く、危うくなっていく。
彼女のすべてを、自分のものにしてしまいたい――。
その衝動が、抑えきれなくなりそうになった、その時。
ハッと我に返った。
「……っ、ビトー?」
ティチェルリスが、不安そうに見上げる。
ビトリアンは、さっと身を引き、立ち上がった。
「……僕がソファーで寝るから……ティチェはベッドで寝てて……。」
そう言いながら、無理やり気持ちを抑え込むように、自分の分の毛布を掴む。
そして、黙ってソファーへと向かい、そのまま横になった。
ティチェルリスは、ぽかんとしながら、その様子を見つめ――
「な……なんなのよ……もう……。」
そう呟くと、ぐるぐると考えが混乱する頭を抱え、布団の中に潜り込んだのだった。




