24話目
――ティチェルリスは、ぐったりとした表情でビトリアンにもたれかかっていた。
背後に座る彼に支えられながら、両手を前に伸ばす。そして、ゆっくりと指先に意識を集中すると、ぽつぽつと水滴が生まれ、それが徐々に勢いを増して流れ落ちていく。
――夕日が、オレンジ色に輝く空を照らす。
けれど、ティチェルリスの顔には、その美しい光はまったく映っていなかった。
「……いつまで続けなきゃいけないの……? うう……。」
彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。
頑張っているのに、まるで赤ん坊のように頼りない水の流れ。
思うようにいかない苛立ちと疲労に、ティチェルリスは項垂れた。
「訓練……やりたがってた。」
ビトリアンの穏やかな声が、背後から降る。
「そ、そうだけどー……。」
言葉の最後が、情けなく伸びる。
確かに、訓練はしたかった。でも、こんなに大変だとは思っていなかった。
(雷のほうが簡単だったのに……!)
唇を尖らせながら、まだまだ頼りない水流を見つめるティチェルリス。
ビトリアンは、そんな彼女を静かに見つめ、いつもの淡々とした表情のまま微笑んだ。
けれど、その目の奥には――驚きが宿っていた。
(すごい……。)
ティチェルリスの魔力量は、彼の予想を遥かに超えていた。
このまま鍛えれば、彼女の水の力は――国を支配するほどの規模になるかもしれない。
でも、それを彼女に言うつもりはなかった。
今は、ただ彼女を守ることだけを考える。
「……ティチェ、聞いて。」
「ん……?」
半ば眠たそうな声で返事をするティチェルリス。
彼女の指先では、相変わらずちょろちょろと頼りない水が流れている。
「ティチェは、前に言ってたよね。」
「?」
「自分は学園で主席になるべき人じゃなかったって。」
「……うん。」
ティチェルリスは、ちらりと横目で彼を見る。
その顔は、どこか優しく、そして真剣だった。
「僕は、そうは思わない。」
「……どうして?」
「王都で少し、調べてきた。」
「えっ?」
「ティチェは……凄かった。」
彼の言葉に、ティチェルリスの目が丸くなる。
しかし、次の瞬間――
ビトリアンは、そっと彼女の頭に手を置いた。
ふわりとした動きで、ゆっくりと撫でる。
「えらいね……ティチェ……。」
優しく、温かく、労わるような声。
「頑張ったね……。」
――その瞬間だった。
ティチェルリスの瞳に、ぐらりと涙が溜まる。
「~~~~っ!!」
頑張っても報われないことばかりだった。
どれだけ努力しても、正当に評価されることはなかった。
でも――
「えらい」って。
「頑張ったね」って。
そんなこと、誰にも言われたことがなかった。
涙が、一筋、頬を伝う。
「ティチェ……目からじゃなくて、手から水を出すんだよ?」
「わかってるわよ!! そんなこと!!!」
涙に濡れた顔で、ティチェルリスは叫んだ。
ビトリアンは、一瞬目を瞬かせ、ティチェルリスの涙まみれの顔をじっと見つめた後、そっと肩を震わせた。
「……ふっ。」
「笑うなぁぁぁ!!!」
夕焼け空の下、ティチェルリスの怒鳴り声が響き渡った。
――————————
――——————
――月が高く昇る頃、公爵邸の大広場には異様な緊張感が漂っていた。
夜の冷たい風が吹き抜ける中、ずらりと並ぶ使用人たち。彼らの顔には不安が色濃く浮かんでいる。
その視線の先――段差のある高い椅子に座るのは、公爵ビトリアン・ガーナンドブラック。
普段の無表情よりもさらに冷えた目をして、静かに広場を見下ろしていた。
――ゴロゴロ……。
遠くで雷鳴が低く唸る。
誰もが息を呑み、動くことすらためらうほどの緊張感が広がっていた。
ビトリアンは、指先で手袋の裾を軽く引きながら、静かに口を開く。
「……この中に。」
――静寂が張り詰める。
「この中に……愚かにも、僕の妻を泣かせた者がいる。」
その言葉が夜の闇に溶けると同時に、広場の空気が凍りついた。
使用人たちは互いに不安げな視線を交わし、誰もがじっと息をひそめる。
その中で――ビトリアンの視線が、ある一団へと向けられた。
王宮より派遣された騎士たち。
彼らは一斉に背筋を伸ばすが、すでに冷たい汗が流れていた。
ビトリアンは、椅子の肘掛けに指を軽くかけたまま、目を細める。
「お前と……お前……それから、お前。」
無造作に指を向けられた騎士たちの顔が、蒼白になる。
「お待ちください、公爵様!!」
一人の騎士が慌てて進み出る。
必死の形相で、汗を滲ませながら声を上げた。
「我々は長年、貴方様をお守りしてきました! それに、貴族間の権力争いで、貴方様の御両親が亡くなられた際も――」
その言葉に、ビトリアンの目が微かに細められる。
「……殺害、ね。」
彼は、つまらなさそうに椅子から立ち上がり、騎士たちを見下ろした。
「ジャルノーごときの雷で、父上や母上がやられるわけがないだろう?」
その言葉に、騎士たちは言葉を失った。
ビトリアンは、まるでどうでもいいことのように口を閉ざし、一歩ずつゆっくりと階段を降りる。
冷たい夜気が彼の周囲を包み込む。
「……話が逸れたな。」
低く響く声が、広場に静かに広がった。
そして――
「まぁ、いい。もういらないから。」
――ピクリと、騎士たちの肩が跳ねた。
「お前たち、もういらない。」
ビトリアンは、まるで不要な道具を捨てるように告げた。
「で、ですが!! 我々は王に!!」
「伝えてくれる?」
ビトリアンは、ふっと笑った。
その笑みは、ひどく優しげで、同時に、何よりも冷たい。
「僕はもう、自分の身は自分で守れるようになったって。」
騎士たちの表情が、さらに硬直する。
「それと……。」
ビトリアンは、再び彼らを見下ろし、手袋を外しながらゆっくりと歩み寄った。
「ティチェを泣かせたせいで、僕も悲しくて……領地内の空に雷を降らせてしまった。」
――ゴロゴロゴロ……!!
言葉に呼応するように、夜空が不気味に唸る。
恐怖に震える騎士たちを、無表情で見下ろしながら、彼は淡々と続けた。
「君たちがいると、また同じことが起きるかもしれないだろう?」
その言葉と同時に――
バチンッ!!
雷が彼の指先に宿った。
騎士の一人が、咄嗟に身を引こうとした瞬間――
ビトリアンはすっと手を伸ばし、その肩に触れた。
――ドンッ!!!
光が瞬き、次の瞬間――その騎士は、その場から消えた。
「……!!?」
広場にいた全員が、息を呑む。
ビトリアンは、動揺する周囲を一瞥し、再びゆっくりと歩を進める。
次の騎士の肩に触れる。
――ドンッ!!!
また、一人。
次の騎士へと手を伸ばす。
――ドンッ!!!
そして、また一人。
次々と、彼の手が触れるたびに、王宮の騎士たちは光と共に消えていった。
残された使用人たちは、誰もが震えながらその光景を見守るしかなかった。
やがて、最後の一人となった騎士が、がくがくと膝を震わせながら、必死に懇願する。
「……お許しを……!!」
しかし――
ビトリアンは、微笑んだ。
その笑みは、どこまでも優しく――どこまでも残酷だった。
彼は騎士の手に、何かをそっと握らせる。
それは、一通の手紙だった。
「……王に渡してね。」
そして、最後の騎士にも触れる。
――ドンッ!!!
光と共に、その騎士も消え去った。
ビトリアンは、静かに手袋をはめ直すと、広場を見渡した。
そこに残されたのは、恐怖に震える使用人たちだけ。
彼は、淡々とした口調で告げる。
「今後……僕の妻を悲しませた者は……わかるよね?」
ピシャッ!!
最後に、雷が小さく弾けた。
広場に残された使用人たちは、一斉に息を呑み、誰もが震えながら深々と頭を下げた。
――————————
――—————
夜になり、屋敷の廊下はひっそりと静まり返っていた。
煌々と灯るランプの明かりが、石造りの壁に淡い影を落とす。
その中を、ゆっくりと歩く二つの影――ビトリアンと、執事のマルチェ。
先ほどまでの冷徹な公爵の姿とは打って変わり、ビトリアンの顔にはどこか疲労が滲んでいた。
けれど、その瞳には微かに柔らかい光が宿っている。
マルチェは一歩後ろを歩きながら、じっと主を見守る。
長年仕えてきた彼には、今のビトリアンの変化が痛いほど伝わっていた。
しばらくの沈黙の後――
「マルチェ……」
ふと、ビトリアンが口を開いた。
「もう僕は……大丈夫だから。」
その声は、どこか安堵を孕んでいた。
長年、無感情な"人形"のように生きてきた彼が、初めて口にした"自分の変化"。
「もう生きられるようになったから。」
その言葉に、マルチェは静かに目を閉じる。
そして――
「はい、坊ちゃん……」
一度、幼い頃の呼び名を口にした後、ゆっくりと頭を下げる。
「いえ、旦那様。」
マルチェの声音には、確かな敬意と、長年の主への想いが込められていた。
ビトリアンは、微かに目を細め、わずかに口元を緩める。
そして、そのまま足を進め、寝室の扉へと手をかけた。
扉を静かに押し開けると、部屋の中には柔らかな灯りが揺れていた。
カーテンがふんわりと揺れ、窓の向こうには静かな夜空が広がっている。
そして――
ベッドの上には、すやすやと眠るティチェルリスの姿。
彼女は毛布にくるまり、小さな寝息を立てていた。
薄く開いた唇からは、規則正しい呼吸が漏れ、その寝顔はどこか幼く見える。
ビトリアンは、そっと扉を閉め、ゆっくりと彼女に歩み寄った。
(……眠っている。)
無理もない。
今日一日、彼女はずっと訓練で水を出し続け、最後には倒れるように眠りについた。
そっとベッドの傍に腰を下ろし、彼女の顔を見つめる。
目元には、まだ微かに涙の痕が残っている。
けれど、穏やかな寝息を聞いていると、それが嘘のように思えた。
(僕、頑張ってきたよ。)
心の中で、そっと呟く。
そっと手を伸ばし、彼女の髪を指先で梳く。
やわらかな銀の髪が指に絡まり、ひどく愛おしく思えた。
彼女の頬にかかる髪をそっと払うと、ティチェルリスが微かに身じろぎする。
「……ん……。」
その小さな寝言に、ビトリアンは微かに微笑む。
そして、静かにベッドの端に腰をかけ、そのまま横になった。
ティチェルリスの隣に、そっと身体を沈める。
彼女の温もりが、すぐ傍にある。
心臓の鼓動が、すぐ近くで感じられる。
(……こうして隣にいられることが、こんなにも落ち着くなんて。)
静かに目を閉じ、彼はゆっくりと息を吐いた。
ティチェルリスの寝息に耳を傾けながら――
ビトリアンは、心からの安堵を感じながら、そっと目を閉じた。
――深く、穏やかな眠りに落ちるように。




