22話目
ビトリアンが王宮へ向かってから、屋敷の中はひどく落ち着かない空気に包まれていた。
「公爵様はなぜこの時期に?」
「王宮からの要請とのことですが……結婚式の準備もありますし……」
「奥様は何かご存じでしょうか?」
メイドや使用人たちのひそひそ話があちこちから聞こえてくる。
その度に、ティチェルリスは何度も説明を求められ、ため息が増えていった。
もちろん彼女はビトリアンが王宮に行った理由を知らない。
知っていたとしても、詳細を話せるような立場でもない。
ただ、「すぐに戻る」と言われただけ。
(……何度も聞かないでよ……こっちだって知らないんだから。)
昼過ぎ、ようやく少し時間ができた頃には、ティチェルリスの心は息苦しさでいっぱいになっていた。
屋敷の中にいるだけで、全身が押し潰されそうな感覚に陥る。
このままでは、まともに息もできなくなってしまいそうだった。
「……ちょっとだけ。」
誰にも悟られないように、そっと執務室を抜け出す。
扉の向こう、目を光らせているダリアの気配を慎重にやり過ごし、廊下の陰に隠れる。
(ふふっ……ビトーが選んだ侍女といえど、私を捕まえられるとは限らないわ。)
そう自分に言い聞かせながら、ティチェルリスは音を立てずに歩き出す。
メイドや使用人たちの目を盗み、静かに庭へと向かった。
そして、屋敷の裏手へと回り込んだところで――
「……ん?」
騎士たちの話し声が、風に乗って耳に届いた。
聞くつもりはなかった。
けれど、その言葉が自然と耳に入ってきたのだ。
「俺は王命だから無理に付き合ってるように見えるぜ。」
「だってあの無感情公爵だぞ? 本当に奥様のことを愛してるのかどうか……。」
「でも、最近はティチェルリス様のおかげで感情を取り戻してるじゃないか。」
「そうか? 俺は聞いたぜ。一度も『愛してる』って言ったことがないってな。」
「……ふりだけだよ、ふりだけ。」
――カタン。
ティチェルリスの足元で、小石が転がった。
(……え?)
彼女は、まるで地面に縫い付けられたかのように立ち尽くした。
(何……今の……。)
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
そういえば、ビトリアンは一度も「愛してる」と言ったことがなかった。
優しい言葉をかけられたこともあったし、時折甘い仕草をされることもあった。
けれど、決定的な言葉――「愛してる」だけは、なかった。
(……じゃあ……今までのは……何?)
頬に、熱いものが伝う。
それが涙だと気づいたのは、地面に小さな水滴が落ちるのを見た瞬間だった。
(ビトー……)
彼の不器用な愛情を信じていたのに。
もしかして、それすらも"ふり"だったの?
心臓が、痛いくらいに高鳴る。
騎士たちの言葉が、耳から離れない。
まるで無数の針が突き刺さるように、彼女の胸をえぐっていく。
「……っ!」
いたたまれなくなって、走り出した。
――————————
――——————
どれほど走ったのかわからない。
ただ、止まれなかった。
全身が悲鳴を上げているのに、足は勝手に動き続けた。
何かに追われるように、何かから逃げるように。
頭の中がぐるぐると渦巻き、考えがまとまらない。
胸が苦しくて、息を吸うのも痛い。
何が悲しいのか、何が悔しいのか――
わかっているのに、どうしようもなかった。
(……もう、やだ……。)
肺が焼けるように痛む。
それでも、涙は止まらなかった。
いつの間にか、森の奥深くまで入り込んでいた。
屋敷の庭も、騎士たちの声も遠くなり、周囲は木々に囲まれた静寂に包まれている。
風がざわめき、夜の空気が肌を冷たく撫でた。
それでも、ティチェルリスの心は燃え盛るように痛かった。
そして――
「……うっ……」
耐えきれなくなったように、その場に崩れ落ちた。
足元の草を踏みしめる音が最後に響き、それから、全身の力が抜けた。
地面に膝をつき、肩が震える。
まるで心の奥底に閉じ込めていたものが、一気に溢れ出すように。
「……うっ……ぐすっ……。」
声が漏れた瞬間、止まらなかった。
抑えきれずに嗚咽がこぼれる。
この森の中には誰もいない。
誰も聞いていない。
だから、誰にも気を遣わずに、ただ泣くことができる。
ティチェルリスは、拳をぎゅっと握りしめ、地面を掴んだ。
涙が頬を伝い、土にぽつりぽつりと染み込んでいく。
(……慣れない土地に来て、たくさんのものを失った。)
生まれ育った家を出たとき、少しの希望があった。
"今よりはマシな未来が待っているかもしれない"と。
けれど、結婚したって、変わらなかった。
貴族として、"公爵夫人"という立場を与えられたって――
(……何も変わらなかった。)
ティチェルリスは、ぎゅっと目を閉じた。
実家での冷遇。
父や兄の冷たい視線。
使用人たちの陰口。
それでも、お母様がいた頃はまだマシだった。
母がそばにいた頃だけは、ほんの少しでも"愛されていた"と感じられた。
けれど――
母の残したものはすべて"訓練に必要な素材"として処分された。
ティチェルリスが実家から持ち込んだものは、燃やされて消えていった。
――その光景を、ティチェルリスは今でもはっきりと覚えている。
(……牢屋で……。)
ガーナンドブラック家に来てすぐに。
雷の力を制御するためだと、何の説明もなく、冷たい地下牢へ閉じ込められた。
そこで見せられたのは――
母が残してくれた大切な品々が、謎の訓練によって燃やされる光景だった。
涙を堪えながら、必死で叫んだ。
でも、止めることはできなかった。
ずっと側いた"彼"――ビトリアンは、ただ静かに私を後ろから抱きしめるだけだった。
燃え盛る炎を背景に、無感情な顔で、ただ腕を回してくる彼に。
なぜか、絶望よりも怒りが込み上げたのを覚えている。
(なんで……私のものを……全部……!)
あの時、すべてを奪われた気がした。
それでも、彼の腕の中で抵抗することはできなくて――
ただ、涙を流すしかなかった。
その記憶が、鮮明に蘇る。
「……なんで……」
力なく呟くと、また涙が零れる。
(……結婚しても……愛されていない……。)
"愛してる"なんて、一度も言われたことがない。
騎士たちの言葉を思い出す。
"無感情公爵"が、"愛している"なんて言うわけがない――。
――じゃあ、今までのは……何?
優しい言葉も、触れ合う手も、
そっと抱きしめる腕も、全部――
(ただの、演技……?)
「うぅ……っ……!」
もう、何も考えられなかった。
ティチェルリスは、ただ両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
涙が止まらない。
止めようとも思わない。
過去の記憶も、今の現実も、
何もかもが痛すぎて、悲しすぎて、もう耐えられなかった。
だから――
「――――っ!!!」
叫びながら、全身に雷が走る。
指先から、腕から、背中から、雷がバチバチと弾ける。
まるで、感情の嵐そのものが、彼女を包み込んでいるかのようだった。
ゴロゴロゴロ……!!
雷鳴が響き渡る。
その音に、森の鳥たちが一斉に飛び立つ。
――誰か、助けて。
心の奥で、そんな声が聞こえた気がした。
でも、それを口に出すことはできなかった。
だって、どうせ――
(……誰も、私を本当には愛してなんかいない……。)
ティチェルリスは、ぎゅっと拳を握りしめた。
この雷が、すべてを消し去ってしまえばいい。
何もかも、最初からなかったことに――。
しかし、その瞬間。
ドンッ!!
突然、強い腕が背後から彼女をぎゅっと抱きしめた。
「――っ!!?」
驚きに、ティチェルリスは息を呑む。
全身が一瞬で固まる。
今、完全に一人だったはずなのに――。
けれど、確かに感じる。
背中にぴたりと張り付く温もり。
荒い息遣い。
そして、耳元で震えるような声が囁かれた。
「ティチェ……何が……。」
――ビトリアン。
彼は、焦ったようにティチェルリスを抱きしめていた。
その腕は、まるで今にも消えてしまいそうなものを必死に繋ぎ止めようとするかのように、力強く、けれどどこか不安げだった。
ティチェルリスは、反射的に叫んだ。
「触らないで!!!」
バチバチバチッ!!
彼女の怒りに呼応するように、雷が弾ける。
雷柱が再び彼女の周囲に生まれ、空が大きく震えた。
それでも、ビトリアンは――そのまま抱きしめる腕を離さなかった。