21話目
結婚式が近づくにつれ、公爵家の屋敷は一層慌ただしさを増していた。
メイドや執事たちが忙しなく動き回り、飾り付けや衣装の最終調整、来賓への対応と、あらゆる準備が進められている。どこもかしこも人の動きとざわめきに包まれ、まるで城全体が息をしているかのようだった。
そんな喧騒の中――ふと、ティチェルリスは違和感を覚えた。
「……ん?」
何かが、足りない。
屋敷全体がバタバタと動き回っているのに、最も騒がしくされるべき人物の気配がない。
(ビトー……どこ?)
彼はいつも、何かしらの問題を起こしたり、勝手なことをして執事のマルチェに注意されている。今日のような忙しい日なら、普通は結婚式の指導者に文句を言われているはずなのに――。
けれど、どこを見渡しても彼の姿はない。
不審に思ったティチェルリスは、屋敷の廊下を進み、ふと開け放たれた部屋の扉の向こうに目を向けた。
そこには――きっちりとした正装に身を包むビトリアンの姿があった。
普段のゆるい服装とは違い、しっかりとした仕立ての上着を羽織り、ひとつひとつボタンを留めている。白いシャツの襟はきっちりと整えられ、黒い手袋をはめるその姿は、まるで王宮に出向くときのようだった。
「……ビトー、出かけるの?」
ティチェルリスは眉をひそめながら、問いかけた。
この慌ただしいタイミングで、彼が外出する理由が思いつかない。
すると、ビトリアンは手袋をゆっくりとはめ終え、淡々とした口調で答えた。
「うん。王都に呼ばれた。」
「今から!?」
ティチェルリスは思わず目を見開く。
王都まで行くとなれば、片道二日はかかる。行って帰ってくるだけでも、結婚式直前のスケジュールが狂ってしまうのは明らかだった。
「今、こんな時に!? なんで!?」
「王宮の用事。」
「えぇ……。」
ティチェルリスは思わず呆れたようにため息をつく。
(この忙しい時に、なんでわざわざ王宮なのよ……。)
しかし、当の本人はいつものように淡々とした表情のまま、ゆっくりとティチェルリスに歩み寄る。
そして――ふわりと彼女の両手を包み込むように握った。
「すぐに戻ってくるよ。」
低く、落ち着いた声が彼女の耳に届く。
「……すぐって、二日くらいかかるんじゃないの?」
「裏道があるから大丈夫。」
「……裏道?」
そんなもの、聞いたことがない。
けれど、ビトリアンはそれ以上何も言わず――
すっと顔を近づけ、ティチェルリスの額に、ちゅっと軽く唇を触れさせた。
「――っ!?」
突如として降ってきた甘い感触に、ティチェルリスの思考が一瞬吹っ飛ぶ。
(えっ……!?)
額に触れた唇は、まるで羽のように軽く、それでいて温かい。
ティチェルリスは、反射的に顔を真っ赤にしながら、おでこを押さえる。
けれど、その頃にはもう、ビトリアンの背中は遠ざかっていた。
彼は何も言わず、ただ静かに屋敷の出口へと向かっていく。
「……ちょっ……!」
思わず何か言いかけたが、言葉にならなかった。
(……なに、今の。)
驚きと戸惑いで、ただ彼の背中を見送ることしかできない。
彼が振り返ることはなかった。
けれど、その歩みはいつもより少しだけ軽やかに見えた。
――————————
――——————
夜の闇を切り裂くように、一筋の青白い閃光が大地を駆け抜けた。
それはまるで天空を貫く神の槍のように、一瞬のうちに空を裂き、大地を焦がしながら疾走していく。
――ビトリアンは、雷そのものとなり、王都へと向かっていた。
通常、馬車であれば数日を要する長い道のり。
しかし、彼にとって、それは一瞬の瞬きほどの時間でしかなかった。
体を構成するすべての粒子が雷へと変化し、風と同化しながら流れる。
意識ははっきりと保たれているが、周囲の景色は高速で変化し、まともに認識することすらできない。
(結婚式の準備もある。長くは滞在できない……手早く済ませる。)
頭の片隅で、屋敷に残してきたティチェルリスの姿を思い浮かべた。
彼女の驚いた表情、頬を染めながら押さえていた額――。
ほんのわずかな間だったが、彼女の表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。
(……怒ってるかな。)
ふと、そんなことを考える。
いや、きっと呆れている。
それか、何事もなかったかのように過ごしているか――。
どちらにせよ、"すぐに戻る"と約束した以上、無駄に時間をかけるわけにはいかない。
王宮での任務を、可能な限り迅速に終わらせる。
ビトリアンは、さらに速度を上げた。
空気を裂く雷の軌跡が、王都へ続く森林の上を走る。
通常なら昼間でも薄暗い森の中が、彼の発する雷光によって、まるで昼のように照らされていた。
やがて、王都の輪郭が見えてくる。
城壁の上では、夜の警備兵たちが交代の時間を迎えていた。
いつものように、淡々とした様子で見張りをしていた彼らだったが――次の瞬間、その光景に息を呑む。
「……な、なんだ!?」
夜の帳の向こうから、青白い閃光が一直線に王都へ向かって突き進んでいた。
その光は、ただの雷ではなかった。
まるで意志を持つかのように、一直線に城門を目指している。
「報告を……! 王宮に……っ!」
警備兵の一人が慌てて動こうとした――その瞬間、雷光は轟音と共に空間を引き裂いた。
ズバァァン――!!!
一瞬の閃光と共に、ビトリアンの姿が王都の城門前に立っていた。
――まるで雷の化身が、そのまま人の姿へと戻ったかのように。
彼はゆっくりと立ち上がると、焦げた空気の中で一歩踏み出した。
「ガーナンドブラック公爵、王宮へ入る。」
低く響く声と共に、雷がはじける音が微かに鳴る。
――瞬間、門兵たちは慌てて敬礼し、王宮への道を開けた。
(……問題ない。)
ビトリアンは、一瞬たりとも足を止めることなく、王宮の奥へと向かっていく。
通り過ぎる衛兵や使用人たちが、次々と彼を振り返る。
なにせ、公爵がこうして直々に王宮へやってくることは滅多にない。
しかし、彼にとってはそんな周囲の視線などどうでもよかった。
彼の目的はひとつ。
――王への正式な謁見と、"王宮への電力供給"。
それを手早く済ませ、一刻も早くティチェルリスの元へ戻るために。
王宮の中枢へと続く廊下を、彼は迷いなく進んでいった。
――———————
――—————
煌びやかな装飾が施された広大な玉座の間。
高い天井には、巨大なシャンデリアが燦然と輝き、壁一面には細やかな装飾が施された黄金のレリーフが並ぶ。
深紅の絨毯が、まっすぐ玉座へと続き、その先には威厳を湛えた王が静かに座していた。
――この国の頂点に立つ、絶対的な存在。
ビトリアンは、その前に歩を進め、片膝をつく。
動作は一分の隙もなく、完璧に洗練されていた。
「ガーナンドブラック公爵、ビトリアン・ガーナンドブラック、謹んでご挨拶申し上げます。」
低く響く声は、以前の彼とはまるで違うものだった。
かつて無感情で、"人形のような"少年と呼ばれていた彼の姿は、もうそこにはない。
「……うむ。」
王は、玉座から静かに彼を見下ろしていた。
その目には、かすかな興味が滲んでいる。
(……やはり、気づいているか。)
王宮へは"電力供給"のために呼ばれた。
この国において、雷の力を持つ"ガーナンドブラック公爵家"は、王宮の魔力供給の要とされている。
王宮の動力源として使われる"雷の玉"には、定期的な充電が必要だ。
それが、彼がここにいる理由だった。
ビトリアンはゆっくりと立ち上がり、王へ一礼すると、
玉座の横に置かれた巨大な水晶の玉へと歩み寄る。
近づくにつれ、水晶の内部にうごめく微細な電流が、彼の雷に呼応するように揺らめき始めた。
指先に、青白い雷光が宿る。
(静かに……整然と……無駄なく。)
そのまま、彼は水晶へと雷のエネルギーを注ぎ込んでいく。
じわりと波紋のように広がる雷光が、水晶全体へと浸透し、やがて部屋全体を照らし始める。
その静寂を破ったのは、王の何気ない一言だった。
「ティチェルリス嬢だったか?」
ビトリアンの手が、一瞬止まる。
「……仲良くできているのか?」
問いの意図はわからない。
だが、警戒すべき言葉だった。
ゆっくりと顔を上げる。
王の視線が、鋭く彼を見据えていた。
(……試されている。)
だが、迷いは見せなかった。
ただ静かに、一切の感情を表に出さずに答える。
「はい。とても素晴らしい方です。ありがとうございます。」
王の目が、細められる。
――かつて、彼はただの"道具"だった。
ただ命じられるままに雷を操り、命じられるままに役割を果たしていた。
それが今、目の前の男は堂々と立ち、しっかりとした声で"自らの意志"を持って言葉を紡いでいる。
王の表情に、一瞬だけ驚きの色がよぎる。
(昔は、挨拶すらまともにできなかったというのに……。)
成長した――。
そう思わずにはいられなかった。
そして、王はふと唇を歪め、ゆっくりとした口調で続ける。
「……そうか。だが、彼女の能力は、さして目立つものでもないようだな。」
――雷が、微かに弾ける音を立てた。
ビトリアンの指先が、無意識に強張る。
「提出された報告書では、"ガーナンドブラック公爵の電の力を強める作用が混じった湯"だったとか?」
(……そこを突くか。)
ビトリアンは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
これは、彼が"仕組んだ報告"だった。
本当のティチェルリスの力――
自分以上に"純度の高い雷属性"を持つ彼女の存在は、絶対に知られてはならない。
もし知られれば、どうなるか。
彼女を公爵夫人ではなく、王族のものにしようとする。
最悪の場合、"離婚"させられ、王子の妃として無理やり王宮に囚われる可能性すらある。
「ふむ……いい仕上がりだな。」
水晶に込められた雷の力が王宮へと広がり、空気が静かに震える。
すべてのエネルギーが循環し、この瞬間、王宮全体がわずかに活性化するのを感じる。
ビトリアンは、作業を終えながら静かに目を伏せた。
(これでいい。)
ティチェルリスの力を隠し続けること――それが、僕の役目だ。




