19話目
――ガーナンドブラック公爵家。
季節の境目、春と夏の間の夜は、ほどよく涼しく心地よい。
開け放たれた窓からは、微かに夜風が入り込み、薄絹のカーテンを静かに揺らしていた。
執務室の奥――
燭台の明かりに照らされた木製の机の上には、分厚い書類が山積みになっている。
その山を前にして、ビトリアンは深いため息をついた。
(……次から次へと仕事が尽きないな。)
公爵としての仕事にも慣れてきたが、領地の管理や王宮とのやりとり、さらには貴族たちとの外交と、すべてをこなすのは相変わらず骨が折れる。
けれど、"公爵として"のビトリアンは、実に様になっていた。
――淡々と書類に目を通し、無駄のない筆さばきで決裁していく。
その様子を静かに見守っていた執事のマルチェが、ふと口を開いた。
「そろそろ、ティチェルリス様の湯浴みが終わる頃かと。」
ビトリアンの手が、ぴたりと止まる。
(……そっか、ティチェが風呂から出る時間か。)
「……うん。」
短く返事をしながら、視線を机の上に落とす。
机の端には、未開封の手紙が何通か積まれていた。
それらに目をやると、彼はペンを置き、静かにマルチェへと視線を向ける。
「……あのさ、ティチェ宛のベルブロッサ子爵家とユーディル侯爵家の招待状は、事前に僕のところへ持ってきて。」
「……ふむ。」
「絶対にティチェに見せないで。」
マルチェは一瞬驚いたように片眉を上げたが、すぐに納得したように微笑を浮かべる。
「ベルブロッサ子爵家に、ユーディル侯爵家……。
ふむ、どちらも坊ちゃんの元婚約者候補だった家ですね。」
品のある落ち着いた声。
そして、マルチェは意味深な笑みを浮かべながら言った。
「ほほほ……そうですね、奥様がヤキモチを妬いてしまわれるかもしれませんからね。」
ビトリアンの指が、一瞬ぴくりと動く。
(……ヤキモチ。そんな可愛いものですめばいいけど。)
問題はそこではなかった。
ベルブロッサ子爵家の次女ディアンナは、微弱な雷属性を持っている。
それは、彼女の母親の血にガーナンドブラック家の血が混じっているからだ。
そして、ユーディル侯爵家の養女は、もともとガーナンドブラック家が"高値で売った娘"。
言ってしまえば、侯爵家は"電力を買った"ようなものだった。
どちらの家も、"ガーナンドブラック家の雷"に関わりがある。
――ティチェを彼女たちと引き合わせるわけにはいかない。
ティチェルリスの"雷の純度"は桁違い。
万が一、彼女が感情を昂らせて力を解放しでもしたら……"よその家で大穴をあける"ことになりかねない。
(ただでさえ、修繕費がとんでもない額になったっていうのに……。)
あの時――
彼女の雷がビトリアンを伝い、共鳴し、屋敷の天井に大穴をあけた。
(……もう屋敷を壊すわけにはいかない。)
もし、招待を受けて、彼女が他家で同じことをやらかしたらどうなるか……。
想像しただけで、胃が痛くなる。
「……絶対だよ。」
ビトリアンの声が、少し低くなる。
マルチェは、それに対して微笑を深めた。
「かしこまりました、公爵様。」
そう言って、静かに手紙の束を片付けていく。
ビトリアンは、再び溜息をつきながら、机の上の書類へと視線を戻す。
その机の上――
脇には、別の"積み重なった本の山"があった。
【彼女を束縛する方法】
【監禁の仕方】
【マインドコントロール方法】
まるで犯罪計画でも立てているかのようなタイトルの本が、堂々と積まれている。
(……どうやって、ティチェを安全に囲っておくか。)
彼は、本の背表紙を指でなぞりながら考える。
自分がいない間に、彼女がどこかに行ってしまうことも防がなければならない。
誰にも訓練を手伝わせないようにするのも、限界がある。
彼女を"守る"ために、どうしたらいいか――。
(……束縛って、どうやるのが一番自然なんだろう。)
監禁? いや、それはまずい。
マインドコントロール? それも無理だろう。
どんな策を講じても、"もし見破られたら"、間違いなく"僕の命がない"。
(……やっぱり、一番は機嫌を取ることかな。)
彼は、ひとつ頷く。
(よし、甘いものと、撫でることと……それと、適度な褒め言葉か。)
対ティチェルリス用戦略を思案しながら――
ビトリアンは、静かに書類を片付けると、立ち上がった。
――———————
――———
湯気が立ち込める広々とした浴室の中で、ティチェルリスは湯船にゆったりと身を沈めていた。
温かいお湯が肌を優しく包み込み、一日の疲れを癒してくれる。
彼女の背後では、金髪碧眼の美しい女性――専属侍女となったダリアが、慣れた手つきでティチェルリスの髪を丁寧に洗っていた。
ダリア・メンタルス。
すらりとした長身に、冷静な瞳を持つ彼女は、表向きは公爵夫人付きの侍女だが、その実態は代々ガーナンドブラック家に仕えてきた"暗殺者"の一族である。
彼女が"専属"になったということは――それ自体が大きな意味を持っていた。
それほどまでにティチェルリスの存在は、公爵家にとって重要だということだ。
「ねぇ、ダリア。」
「はい?」
「ビトーって……私のこと好きなのかな?」
不意に漏れたその問いに、ダリアの手がわずかに止まった。
ティチェルリスは、泡まみれの髪の毛を撫でられながら、ぽつりと呟く。
彼の感情は、未だに掴めない。
時折優しくて、時折ぶっ飛んでいて、時折不器用すぎるくらいまっすぐで。
そんな彼の気持ちを、ちゃんと信じていいのか分からない。
すると、ダリアはくすっと微笑んだ。
「そうだと思いますよ。」
「え?」
「だって、旦那様がわざわざ私を奥様の専属侍女にと任命されたのですから。」
「……?」
「メンタルス家が何を担う家柄か、奥様ならご存じでしょう?」
ティチェルリスは、はっと息を呑む。
そうだ。
メンタルス家は、ガーナンドブラック家直属の"影"の一族。
王族にも知られていない、暗殺や諜報を生業とする存在だ。
その一員であるダリアを、ビトリアンが"専属"にしたということは――
(……私のために、私だけの"影"をつけたってこと?)
それは、単なる使用人としての扱いではない。
まるで"宝物を守るような行為"。
ティチェルリスが言葉を失っていると、ダリアはさらに続けた。
「それに――」
「それに?」
「旦那様といえば、最近恋愛小説を何冊もお読みになり、ティチェルリス様とどう接すれば良いか、既婚者に聞いて回っているそうですよ。」
「ふえぇぇ!?」
衝撃の事実に、ティチェルリスは思わず顔を真っ赤にして、**ブクブクブク……!**と湯船に沈みかける。
(ちょっと!? 何それ!? 私と接するために恋愛小説読んで、既婚者に指南を受けてるの!?)
慌てて湯から顔を出し、バシャッと水しぶきを上げながら息を整える。
湯気と羞恥で頬が熱い。
(や、やめてよ……! そんなん聞いたら、今夜ビトーの顔まともに見れないじゃないの……!)
彼女は両手で顔を覆いながら、ぐったりと湯船に沈んだ。
◇◆◇◆◇
湯浴みを終えたティチェルリスは、ふんわりとしたパジャマに身を包みながら、静かに寝室へと向かっていた。
肌にはまだ湯気が残り、ぽかぽかと温かい。
だけど――心の中はそれとは違う、妙な熱がこもっていた。
(……ビトーって、本当に何考えてるのか分からないけど。)
(……でも、そうやって"努力"してるのは……なんか……。)
少しだけ、嬉しい――。
そんなことを考えながら、ゆっくりと寝室の前へ到着する。
そして――
ばったりと、ビトリアンと鉢合わせた。
「……っ!」
彼女の足が、ピタリと止まる。
目の前に立っていたのは、入浴後なのか、少しだけ湿った黒髪を整えたビトリアン。
いつものように、感情をあまり表に出さない顔をしているが、なぜかほんの少し、目元が柔らかい。
彼はティチェルリスを一瞥し――ゆるりと微笑んだ。
ふっと、穏やかに、優しく。
(えっ!? ちょ、今の何!? なんかいつもより優しい顔してる!?)
先ほどまで恋愛話をしていたせいで、ティチェルリスは無駄に意識してしまい、咄嗟に目をそらしてしまう。
顔が、じんわりと熱い。
(やばい、やばい、変なこと考えてるわけじゃないのに、なんか恥ずかしい……!)
逃げるように通り過ぎようとした――その瞬間。
ヒョイッ。
「……うわぁっ!?」
突然、ティチェルリスの体が宙に浮いた。
――いや、違う。
お姫様抱っこされていた。
「な、なに!? なんなの!? おろしてっ!!」
バタバタと暴れるも、ビトリアンの腕はびくともしない。
むしろ、いつも通りの落ち着いた表情のまま、何事もなかったかのように歩き始めた。
(ちょっと!? なんでこんなに軽々と持ち上げるの!? 私、訓練してるからそれなりに筋肉あるんですけど!?)
「……暴れると危ない。」
「いやいやいや、抱っこすること自体が危ないでしょうが!!!」
そんな彼女の抵抗をよそに、ビトリアンは淡々と歩を進める。
そして――
「こちらへどうぞ。」
サッ。
絶妙なタイミングで、執事のマルチェが寝室の扉を開けた。
(……今の流れ、絶対打ち合わせしてたでしょ!?)
まるで当然のことのように、ティチェルリスは寝室へ運び込まれ――
ぽふっ。
柔らかなベッドの上へと、そっと降ろされた。
ようやく解放され、彼女は慌てて身を起こす。
「も、もう!! どうしてこんなことするのよ!」
頬を膨らませながら詰め寄るティチェルリス。
その時だった――
ビトリアンは、静かに彼女の額に手を添え、そっと顔を近づけた。
そして――
チュッ。
優しく、額にキスを落とした。
「……っ!?」
一瞬、思考が止まる。
(え……? ええええええええ!?!?!?)
驚きと混乱で、ティチェルリスは目を見開いた。
額に残る柔らかな感触がじんわりと広がっていく。
「な、なにするのよ!!」
反射的に声を上げ、思わずビトリアンを見上げる。
すると、彼はまるで何でもないことのように、静かに口を開いた。
「……夫婦だから。」
その瞬間、ティチェルリスの顔が一気に熱を帯びる。
「~~~~っ!!!」
真っ赤になりながら、手に取った枕を思いっきり投げつけた。
「も、もう知らない!!!!」
枕がビトリアンの胸元にぶつかるも、彼は軽くキャッチし、微かに目を細める。
(……なんか満足そうな顔してる!!)
羞恥と怒りの入り混じった声が、夜の寝室に響き渡る。




