15話目
あれから数週間が経っていた。
ティチェルリスは変わらず訓練を続け、日々の執務にも慣れつつあった。
少しずつ公爵夫人らしく振る舞うことも増えてきたが、それでもやはり、彼女の根本は変わらない。
そして、今夜もまた――
「はぁ~~……疲れた。早く休みたい。」
入浴を終えたティチェルリスは、湯上がりの体をバスローブで包みながら、静かな廊下を歩いていた。
濡れた髪をタオルで拭きつつ、自室へ戻ろうとしたその時――
スッ
目の前に、執事が立っていた。
「うわっ……びっくりした。」
一瞬、心臓が跳ねる。
しかし、すぐに相手の顔を認識して、彼女は小さく眉をひそめた。
(……マルチェ?)
彼はビトリアンの側近であり、長年この屋敷を仕切っている執事長。
年配ながらも背筋はピンと伸び、白髪を綺麗にオールバックに撫でつけ、方眼鏡をかけたその姿は、まさに"完璧な執事"そのものだった。
「……どうしたの?」
彼女がそう問いかけると、マルチェは表情ひとつ変えずに告げた。
「本日より、寝室が変更となります。」
「……は?」
一瞬、思考が停止する。
「変更? いや、何勝手に決めて――」
「こちらでございます。」
マルチェは有無を言わせず、静かに手を差し出し、奥の部屋へと案内した。
(え? え???)
混乱しつつも、なぜか足は動いてしまう。
促されるままに歩き、指し示された扉の前へ。
そして、その扉が開かれると――
「……!!!」
中にいたのは、満面の笑みで手を振るビトリアンだった。
「……なっ。」
ティチェルリスは、反射的に後退る。
(えっ、なんでビトリアンがいるの!? っていうか、なんでそんな楽しそうなの!?)
動揺している間に、後ろから、スッ……と、マルチェの手が伸びる。
「では、ごゆっくりおやすみくださいませ。」
そう言ったかと思うと――
バタンッ!!!
「ちょ、ちょっと――!」
扉が閉められた。
そして、鍵をかける音。
(嘘でしょ!?)
呆然とするティチェルリスの前で、ビトリアンは静かに近づいてきた。
「……どういうつもり?」
彼女は少し警戒しながら問い詰める。
しかし、ビトリアンは何も言わず、ただティチェルリスの手を取り――
指先を、そっとにぎにぎする。
「……。」
柔らかく、優しく、しかし執拗に。
豆ができた部分を、指先で確かめるように。
(だって、訓練しちゃうでしょ?)
そう言いたげな仕草。
「……だからって、これはやりすぎじゃない?」
少し呆れながら見上げると、ビトリアンは静かに首を横に振った。
そして――
「夫婦だから。」
シンプルに、淡々と告げる。
「……。」
ティチェルリスは、一瞬言葉を失う。
(夫婦だから……って、今更…。)
でも――彼の表情は、本当に自然だった。
ごく当たり前のことを言っている、という顔。
なんだか力が抜けた。
これ以上、何言っても無駄な気がする。
ティチェルリスはさっさとベッドに入った。
もはや、突っ込む気力もない。
諦めの境地。
背中を向け、毛布を引き寄せ、静かに目を閉じる。
(もう寝よう……。)
すると――。
「……。」
背後で、ベッドが微かに沈む感覚。
ビトリアンが、静かに隣に横たわる。
ティチェルリスは、少しだけ毛布の中で目を開けた。
(……まあ、夫婦だからって、寝るだけならいいけど。)
そう思いながらも、なぜか心臓が妙に落ち着かない。
(この距離、ちょっと近くない?)
しかし、これ以上何か言うと、また面倒なことになりそうで――。
そのまま、ティチェルリスは目を閉じた。
(……もう知らない。)
寝たふりを決め込む。
けれど、すぐ隣から聞こえる静かな呼吸音が、どうしても意識から離れなくて――
なかなか寝付けないまま、夜は更けていくのだった。
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――—————
(……最悪。)
ティチェルリスは、ぼんやりと天井を見つめながら、心の中で深いため息をついた。
昨夜、ビトリアンと同じ寝室で眠ることになったものの――ほとんど眠れなかった。
(なにあの無駄に落ち着いた寝息……。)
彼女がずっと寝返りを打ちながら眠れずにいたというのに、隣の男は実に快適そうに眠っていたのだ。
視線を横に向けると、そこにはすっきりと目覚めた様子のビトリアンがいた。
青い瞳はどこまでも澄んでいて、表情はいつも通り涼しげ。 さらには、しっかりとした姿勢でベッドから起き上がり、普段通りの穏やかな態度を崩していない。
完璧な目覚めだった。
(いいわね……そんなにちゃんと寝れて……!)
自分はこの数時間、ひたすら寝返りを打ち、時々ビトリアンの寝顔を見てしまい、そのたびに謎の敗北感に襲われていたというのに――。
(何が夫婦だからよ……! 枕が変わると寝れないのよ!!)
「ティチェ……眠れなかった?」
ビトリアンが、まだ半分眠気の残る彼女を覗き込むように尋ねる。
「……枕が変わると眠れないのよ。」
ティチェルリスは、少し不機嫌そうに答えた。
すると、ビトリアンは少し考え込むように目を伏せた後、静かに口を開いた。
「じゃあ、もっと一緒に寝れば慣れる?」
「いや、そういう問題じゃないから!!」
目をカッと見開いて即座に否定する。
だが、ビトリアンはまるで"何か名案を思いついた"かのように、小さく頷いていた。
(……ダメだ、この人。なんか変なスイッチ入った気がする。)
その時、コンコンと控えめなノックの音が響いた。
「失礼いたします。朝の支度を――」
執事や侍女たちが、いつものように朝の準備を整えるために部屋へ入ろうとする。
すると――
「待って。」
ビトリアンが、静かに手を上げて制した。
扉の前で動きを止めた使用人たちは、怪訝そうな表情を浮かべる。
ビトリアンは、寝起きの落ち着いた声で、さらりと言った。
「ティチェを寝かせてあげられなかったから、もう少し寝かせてあげて。」
「…………。」
一瞬の静寂。
そして、次の瞬間。
使用人たちは、何かを"察した"ように、お互いに目を見合わせた。
(……えっ、今の言い方……。)
その意味深な言葉に、侍女たちは頬を赤らめながら、咳払いをし、微妙な笑みを浮かべる。
「……では、ごゆっくり。」
そう言って、そそくさと退室していった。
「ちょっと待って!!!」
ティチェルリスは、勢いよくベッドから飛び起きた。
しかし、扉はすでに閉まっていた。
(ご、誤解された……!? 絶対、今の言い方、完全に夜通し何かあったみたいになってたわよね!?)
慌ててビトリアンを見ると、彼は実に淡々とした表情で座っていた。
「……語弊があるわ!!!!!」
「?」
ビトリアンは、きょとんとした顔でティチェルリスを見つめる。
その表情は至極冷静で、まったく悪気がない。
(いやいやいや、絶対確信犯でしょ!?)
ティチェルリスは顔を真っ赤にしながら枕を掴み、勢いよくビトリアンに投げつけた。
「もう知らない!!!」
しかし、ビトリアンは枕を簡単に受け止めると、にこりと微笑んだ。
「ふふ……。」
その顔が、あまりにも満足げだったので、ティチェルリスはさらに悔しくなった。
(くそ~~~~!!!!!)
羞恥と怒りの間で揺れながら、彼女の朝は今日もまた波乱に満ちていた。
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――—————
王宮の奥深く、重厚な扉に守られた会議室。
壁には美しいタペストリーがかかり、中央には金細工が施された大きな円卓が置かれている。
窓の外には夕闇が迫り、燃えるような赤色がカーテン越しに差し込んでいた。
その部屋の中央、王座の横に座る男――王国の主、ディバルデント・ナージストが、指先でワイングラスの縁をなぞりながら、静かに微笑んでいた。
彼の前に、一人の騎士が跪いている。
「……ガーナンドブラック公爵家の件について、報告を。」
低く、淡々とした声が響く。
王の側近の一人が、静かに促した。
跪いていた騎士は、一度頭を下げると、落ち着いた声で報告を始めた。
「……はい。現在のところ、公爵夫妻の関係は順調に進展している模様です。」
王は、ワイングラスを軽く傾けながら、その報告を聞く。
「ほう?」
「仲睦まじく、閨も共にされており、特に問題はないとのこと。」
会議室の中が、一瞬静まり返る。
火の灯った燭台の揺らめく光が、王の表情をぼんやりと浮かび上がらせる。
その唇が、わずかに弧を描いた。
「……なるほど。」
その声は、満足げでありながら、どこか冷ややかだった。
王の視線が、ゆっくりとワイングラスの中の赤い液体へと落ちる。
鮮やかな深紅が揺れ、まるで血のように艶やかに光る。
"ガーナンドブラック公爵家の純度の高い雷の能力"――それこそが、王国の電気供給を支えている要となる。
しかし、その血が薄れれば、王国全体の安定が揺らぐ。
王宮にとって、公爵家の能力が失われることは決して許されない事態だった。
(もし血が混ざり、能力が衰えれば……。)
王は、ふと小さく息をつきながら、ゆったりと背もたれにもたれかかる。
「……別の令嬢を、と思ったが。」
ワイングラスを回しながら、静かに呟く。
騎士は、その言葉に反応しつつも、余計なことは言わなかった。
そして、王の口元が、薄く微笑む。
「……もう少し、様子を見るか。」
会議室に、再び静寂が落ちた。
揺らめく炎の灯りの下で、王の微笑はどこか冷たく、不穏な影を落としていた――。




