10話目
大体のことはわかってきた。
ガーナンドブラック家がどんな歴史を持ち、どんな方法で能力を制御してきたのか――
本を読み漁ったことで、ティチェルリスはその全容を把握しつつあった。
それと同時に、ビトリアンのことも少しずつ理解できてきた気がする。
"訓練"という名の拷問。
"制御"という名の抑圧。
"生きる"ために、感情を捨てるしかなかった彼の在り方。
(でも……)
それでも、彼は今ここにいる。
ずっと無関心のふりをしていたくせに、ティチェルリスが沈んでいる間は必ず傍にいた。
まるで"気にしていない"と言い聞かせながら、実はどうすればいいのかわからない子供のように。
ティチェルリスはふと、本を閉じた。
ゆっくりと隣を見やると、いつの間にかビトリアンがそこに座っていた。
何も言わず、ただ静かに。
「……あなた、わかってほしかったの?」
不意にそう問いかけると、ビトリアンは微かにまばたきをした。
いつものように無表情のまま、しかし、その青い瞳にはわずかな戸惑いが映る。
「……そう…なの?」
まるで自分でもわからない、といった様子だった。
ティチェルリスは肩をすくめて、苦笑する。
「そうだと思ったけれど……。」
「何も……感じない……から。」
ビトリアンの声は、淡々としていた。
だけど――
「傷だらけなところに小さな傷が増えても気付かないように、あなたも気付いてないだけなんじゃないかしら。」
その言葉を聞いた瞬間――
ビトリアンの瞳が、わずかに揺れた。
驚いたようにティチェルリスの顔をじっと見つめる。
彼の目がこんなふうに動揺を見せるのは、初めてだったかもしれない。
(やっぱり、何も感じてないわけじゃないのよね。)
ティチェルリスは、小さく息を吐く。
そして、笑みを浮かべた。
「……あいにく、私はそこらの令嬢と違って、ずっと沈んでなんかいられないのよ。」
少しだけ、冗談めかして言う。
すると――
「沈んでたくせに。」
ビトリアンが、ぽつりと呟いた。
――バシーンッ!!
「いった!!」
ティチェルリスは容赦なく、ビトリアンの頭を叩いた。
それは、怒りというより、呆れとツッコミの感情が混じった一撃だった。
しかし――
ビトリアンは、静かに手を上げた。
(……ん? まさか――)
次の瞬間、彼の手が振り下ろされる。
「ちょっと!! 叩き返す気!?」
とっさに腕で防御するも、そのまま二人はもつれ合い――
ドサッ!!
「どうしてやり返すのよ!!」
「……痛い。」
あっさりと答えるビトリアン。
ティチェルリスは、一瞬、呆気に取られ――
「何か感じてるじゃない!」
そう、指を突きつけた。
だが、ビトリアンはすぐに目をそらし、淡々とした声で答える。
「それとこれとは……。」
言い終わる前に――
バチンッ!!
ティチェルリスの手が、再びビトリアンの頭を直撃した。
「ぐっ……!!」
ビトリアンは、頑張って反撃しようとするが――ティチェルリスの方が一枚上手だった。
「もったいない!!」
ティチェルリスは、素早く身をかわしながら叫ぶ。
ビトリアンは、無言で顔をそらし、少し頬を膨らませた。
「……自分だって沈んでたくせに。」
拗ねたような口調で、ぼそっと呟く。
「はぁ!? また言ったわね!!」
――バシンッ!!
「い……痛いよ!!」
思わず、ビトリアンが頭を押さえる。
そして――
「こ、この……ブス!!」
「はぁ!? 言ったわね!?」
ティチェルリスは、拳を握りしめる。
「……あんたの顔が良すぎるのよ!! 無感情公爵!!」
そう叫んで、再び叩こうとする。
一方のビトリアンも、珍しく頬を膨らませながら、叩き返そうとしている。
"21歳の男"と"16歳の少女"。
公爵と公爵夫人。
しかし――
そんな肩書きなどまるで関係なく、子供のようなじゃれ合いが続いていた。
(……なんなの、この人。)
ティチェルリスは呆れながらも、久々に"感情"が動いている自分を感じていた。
そして――
気づけば、空は茜色に染まり始めていた。
夕暮れ。
お互いに息を切らし、ついに動けなくなった二人は、その場にバタンと倒れ込む。
床に仰向けになり、天井を見上げる。
静かな夕暮れの光が、窓から差し込んでいた。
「……ふぅ……。」
「……疲れた……。」
ティチェルリスも、ビトリアンも、乱れた息を整えながら、しばらく何も言わずに天井を見つめていた。
どちらともなく、ぽつりと笑みをこぼす。
沈んでいた時間が、少しだけ遠ざかる。
まるで、あの空の夕焼けのように――
ゆっくりと、静かに。
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夕焼けが消え、屋敷の灯りがともるころ、ティチェルリスとビトリアンは久しぶりに食堂へ向かった。
執事たちは驚きつつも、すぐに席を整え、丁寧に食事を用意する。
二人分の料理が目の前に並ぶ。
スープの湯気が立ちのぼり、芳醇な香りが鼻をくすぐった。
「……美味しいわ。」
ティチェルリスは、ナイフとフォークを手に取りながら満足げに呟いた。
久しぶりのちゃんとした食事。
味わうように、ゆっくりと口に運ぶ。
一方のビトリアンは、ティチェルリスの言葉を聞きながら、ぼんやりと料理を見つめていた。
まるで"食事をする"という行為を久しぶりに思い出したかのように。
彼はフォークを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。
もぐ……。
咀嚼し、少し間を置いて――
「……うん。」
そして、ぽつりと呟いた。
「ティチェの作る料理よりは……食べれる。」
――バシーーンッ!!
「いった!!」
ビトリアンの頬が軽やかに弾けた。
ティチェルリスは満面の笑みを浮かべながら、優雅に手を拭く。
「……何か言った?」
にこりと、満面の笑み。
しかし、その目は笑っていない。
ビトリアンは、痛む頬を押さえながら、すぐに顔をそらした。
「……何も。」
(こいつ……絶対何か言いたそうだったわね。)
疑念を抱きつつも、ティチェルリスは一旦スープを口に運ぶ。
そのとき、廊下を横切る使用人の姿が目に入った。
執事が手紙の山を抱え、どこかへ向かっている。
(手紙? そういえば……。)
ティチェルリスはふと思い出す。
「ねえ、ビトリアン。」
目の前の公爵をじっと見つめる。
ビトリアンはスープの表面をぼんやりと眺めながら、顔だけを少し上げた。
「あなた、仕事はしてるの?」
ティチェルリスの問いかけに、ビトリアンは首を傾げる。
本当に"聞かれた意味がわからない"といった表情だった。
「……?」
「公爵としての仕事よ。」
改めて説明すると、ビトリアンは少しだけ考える素振りを見せ――
そして、静かに答えた。
「……死ぬ予定だったから……やってない。」
――バンッ!!
「……ッ!!」
突然の音に、ビトリアンがビクッと肩を震わせる。
ティチェルリスが、怒りのままにテーブルを叩いて立ち上がったのだ。
驚いたように見上げるビトリアン。
食堂の静けさが、圧に満ちた空気に変わる。
「……明日、デートするわよ。」
ビトリアンは、一瞬、聞き間違えたのかと思ったように目を瞬かせた。
「……え?」
「いい?」
圧を強めるティチェルリス。
目を細め、手を腰に当てながら、じっと睨みつける。
対するビトリアンは、無意識に視線をそらした。
「……えっと……。」
戸惑うように言葉を濁し、そわそわとナイフをいじる。
ティチェルリスは、それを逃がさなかった。
すっと、手を上げる。
――ビトリアンの頭上に、再び"バシーン"の予感。
「……いい?」
「……っ!! わ、わかった。」
渋々と、観念したように頷く。
ティチェルリスは満足げに頷き、再び席に座る。
「よろしい。」
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ビトリアンは、頬をさすりながらぼんやりと窓の外を見つめていた。
夜の庭園は、静かで美しい。
月の光が庭の噴水を照らし、銀色の輝きを放っている。
(デートって……あの、デート……?)
心の中で、ぽつりと呟く。
ティチェルリスが言った"デート"が、本当に"世間一般のデート"を指しているのか、確信が持てなかった。
彼にとって、"デート"とは未知の領域だった。
社交界に出る機会はあったが、それは政略結婚のための顔合わせに過ぎなかった。
誰かと手を繋いで歩いたことも、街を一緒に歩いたこともない。
(……どうすればいいんだろう。)
明日、ティチェルリスに連れられて、彼の"初めてのデート"が始まることを、
まだ彼自身が一番理解できていなかった。
夜の静けさの中、彼はただ、窓の外の月を見つめ続けていた。




