第三話 『影狼』
「……あちゃー」
どん、と突き上げるように心臓が鳴った。踏切前の緊張に類似、危険信号だ。ソラの頭が真っ白になる。ルクバトが発するのんきな声が、どこか遠い。
「ぅ、うで」
ソラはそう呟き、やっとこさルクバトの元へ寄る。
血は出ていない。というか、断面が綺麗すぎる。真っ黒な平面があるだけで、肉どころか骨すら見えない。まるでつけ外しが可能な人形の腕を取っただけ、という風にすら見えた。
「腕、ッこ、これ、」
「大丈夫大丈夫」
そう言ってルクバトは後ろ手にソラを庇う。
僅か向こう、マンションの屋上の白に映えるひとつの影。光を遮っている物体はなにもない。ただマットな黒だけが、もくもくとそこで蠢いている。
ソラは目で捉えられなかったようだが、先ほど一瞬、黒い物体が二人を過っていた。
そいつがルクバトの腕を消し飛ばした──────否、『食いちぎった』のだ。
黒が波打ち、膨れ上がる。脚ができ、口ができ、目のようなものが一そろい生まれる。そうして、まるで四足歩行の狗のような姿を形作った。
振りむき、その存在に気づいたソラが声にならない悲鳴を上げる。
そこにいたのは、獣としか形容のしようがない『なにか』だった。
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その『なにか』が発したのは未知の言語。
狼の唸り声に聞こえなくもないが、どうにも致命的に何かが違う。大きなオーケストラ・ホールに反響するようでいて、耳のすぐ横で鳴っているようにも聞こえる。地球上の言語では形容しづらい声だ。
「何、何あれッ!?」
「『影狼』」
「カゲロウ、?」
目の前の身体にしがみつきながら、ソラは発された言葉をそのままオウム返しにする。
「君の心臓を狙ってるんだ」
「しん、えっ」
「正確に言えば、さっき見たあれ」
胸元、控えめな谷間の辺りを人差し指でトン、と突かれた。薄い皮膚の奥で、肋骨の中心部がかすかに動揺する。
つまりあれらの狙いは、先ほど見た球体ということらしい。
「さっき星が少し入ったから来るかな、とは思ってたけど……堪え性がないな、まったく」
ルクバトの言葉の感触は、いっそ場違いなほど先ほどまでと変わらない。余裕からくる楽観か、それとも弱みを見せまいとする虚勢か。
その平静を引き裂くように、がりがりと地面を掻いていたその躯体が、二人を目掛けて襲いくる。
「ひ、ぎゃぁあああああ!?」
「っと、」
ギャリン!!、と。
金属がぶつかるような音を立てながら、黒い爪と半透明の障壁がぶつかり合った。
接面箇所から金色の火花が飛び散る。
「触るよ」
「へっ、えっ」
障壁が消え、ソラの腰に手が回る。
二人がいたのは建物の縁だ。その縁をとんっ、と蹴り、ルクバトは宙に身を投げ出す。
先ほどとは違う『落下する』浮遊感に、ソラは死を覚悟した。
「ッ、死ぬって!!!!!!」
ビルから飛び降りたのだ。
落下の数秒、天地は逆さまになり、髪がバラバラ吹き上がる。
強烈なまでの恐怖が飛来。もはや叫ぶことすら出来ないソラを抱え込み、ビルの中腹あたりでルクバトはぎゅるんと方向を転換した。ごうごうと風を切りながら複雑なコースを飛び回り、追う影狼を翻弄する。
しかし相手も負けてはおらず、街路樹へ突っ込もうと看板を薙ぎ倒そうと、一切怯まず追ってくる。
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「こ、っ怖い! 怖い怖い怖いッ!!」
「しつっこいなぁ」
責め立てるような咆哮。ルクバトはソラを庇いながら、器用に紙一重で躱していく。また、時折夢色の亜空間に飛び込み、次の瞬間には少し離れた別の場所へ飛び出る。ワープだ。影狼はそれすらも追い、爪を突き立てようとする。
未だ消えない明かりも多い中高速で繰り広げられるチェイスに、道行く人々は気が付かない。
そんな息もつかせぬ猛攻の中、ソラはふと、走馬灯のように先ほどの会話を思いだしていた。
空想器官。人間は気づいていないだけで皆持っている、心臓と同じようなもの。軽い口調ではあったものの「割れたりしたら死ぬ」とルクバトは言っていた。
……では、あんな『いかにも』な獣に取られでもしたら?
「死ぬね」
「ッし、死にたくないんだけど!?」
「うん、死なせない」
ルクバトはそう言って、何処かの会社の屋上へ着地。次いで降り立つ爪から庇うように、ソラを己の後ろへ回した。乙女心が微かに身じろぐ。胸元でしゃろっと音がした。
「ちゃんと掴まってて」
確かめるようなその声に、へたり込んでいたソラは慌てて目の前の身体へしがみつく。彼の背は体温が感じられず、まるで月のような匂いがした。
「『GATE:Ⅴ』」
呟く言葉に質量が乗る。
ソラは息を呑んだ。その言葉を合図に、世界に溢れた音が全て消えたような感覚を覚える。
空気が変わったことを察知したのだろう。影狼も猛攻を止め、背後へと飛び退った。
不可視のエネルギー。むせ返るほどの密度をもったそれが、空気の中をうねり猛って二人を中心に渦を巻いている。
うっかり手を離してしまわないように、しっかりと掴まり直した背中越し。
ソラはふと、何かを幻視した。
「(──────門、?)」
二人と影狼、互いを隔てるように出現した、純白の門。荘厳で翳りのなく、美しい意匠の白亜。構造上人が潜るべきその空間からは光が溢れている。
その穢れ無き白光に、ソラの顔はなぜかくしゃりと歪んだ。
「、?」
出口。白光。焼けつくようなフラッシュバック。
自分でも、どうしてだかわからない。
あの門は、あの光はなんなのか。今は一体どういう仕組みで、何が起きているのか。どうして自分は今、泣きそうになっているのか。
わからない。何もわからない。言語化が出来る出来ないの問題ですらなく、身体が理解という行動を受け付けない。
けれどこの身体は何故か、もはやどうしようもないほどに。
この光景を知っている。
「ッル、く……」
静止の言葉を発そうにも、エネルギーの奔流に呑まれ上手く声が出ない。それに気づいているのかいないのか、彼は一度たりとも後ろを振り返らなかった。
門の向こう、影狼の警戒の唸りが聞こえる。ルクバトの右腕が、門の中へ突っ込まれる。
そしてそこからおもむろに何かを取り、────────……
「……あ、そうだ。 どっちがいい?」
それを抜き出しきる前に、不意の問いかけ。
同時にカチン、と音がした。
ソラは恐る恐る目を開け、そして絶句する。
映画を見ていた最中、誰かに声をかけられ一度再生を止めたときのような。かけられたのはそんな気軽な声色だったのに。
そんな一声だけで、ソラの目の前にあるルクバト以外の全てが一時停止していた。
「ッ、はぁ、あ……何、な」
「これ疲れるし長いことやれないんだよな、動けないし。 だから早く答えて。 どっちがいい?」
「どっちって、」
「この場の解決方法。 ちょっと疲れるけど周囲に被害ないのと、ちょっと荒っぽいけど効果が長いほう」
「……後半の、荒っぽいってのはどういう……?」
「んー……最悪この世界ごと消し飛ばしちゃうことになる、かも?」
「ッそ、」
とんでもない二択だ。実質一択である。
ソラは信じられないものを見る目でルクバトの顔を見つめた。何の呵責もなさそうな美しい微笑だ。頬に落ちた睫毛の影すら詩的である。
「被害ない方!」
「OK〜」
じゃあ本気で逃げよっか。
ルクバトが腕を引っこ抜くと共に、門は煙のようにかき消えた。それと同時に時計が動き出す。
動き出した影狼はしかし、先ほどまでの殺気を治め幾度か被りを振っている。何が起きたのかわかっていないようだ。
そんな相手を尻目に、ルクバトは「よいしょっと」と軽い掛け声でソラを抱き抱えた。しかも俵担ぎだ。ロマンの欠片もない。
このあたりでやっと、ソラはあることを本能的に察した。
先ほど襲ってきた影狼の速度は非常に速かった。意識していなかったとはいえ、目はさほど悪くないはずのソラも気づけなかった。ルクバトも腕を持っていかれたのだから、相当だろう。
それから逃げる、ということは。『本気で』というのは、つまり。
「しっかり捕まっててね」
「やっぱこうなっぁあああああああああああああ!!!!!!!」
景色は飛び、音は置き去りに。
シートベルトなし、身体を預けられる背もたれなし、おまけに乗客への配慮もなし。そんなないないづくしの地獄のジェットコースター、後続車両も添えての再来であった。
次回は1/12(日)に投稿予定です。