第二話 夜間飛行
「ほ、星……っていうか、その、」
ソラはどもりながら言葉を紡いだ。
コミュニケーションは元々そこまで得意ではないが、今はそれ以前の問題だ。
「どちら様、ですか……?」
「? ルクバト」
「いや、そういう意味じゃ……」
きょとん、として首を傾げる彼に、ソラはなんだか眩暈すら覚えだす。
人間の形をしているが、何かしらの装備もなく宙に浮いている時点で明らかに人間ではない。かといって「では何か」と言われれば、人間以外に当てはまりそうな単語も特にない見た目。
「うぅん……なんだか難しい事を考えてるみたい。 一体全体どうしたの?」
「だ、誰のせいだと」
「僕のせい? うれしいなあ」
飄々とした態度だ。つかみどころがなく、一人で霞を掻きわけているような気分になる。
む、としたソラを尻目に、ルクバトは窓枠に乗りかかる。ひと蹴りで落下してしまいそうな場所に腰かけて、彼は改めてソラを見つめた。
「でも、理解はできる。 つまり、君ってそういう生き物なんだな」
「そ、エッ、?」
「感覚だけを信じることに慣れてない。 あと、知らないものにやたら名前をつけたがる」
僕はもう、とっくに自己紹介を済ませたのに!
彼はちょっとだけ首を傾け、くすくす笑った。微かに見えた歯は真珠のように白かった。
「なん……あ、これ……夢?」
「いや? 実は呆れるくらいに現実だったりする。 少なくとも今ここにいる僕らにとっては」
「や、だってそんな、空飛んでるし」
「考えてもわかんないと『夢』ってカテゴリーに逃げちゃうんだね。 君たちにとって、夢ってそんなに万能薬だっけ?」
抽象的な言い方だ。意味はわかるけれど、回りくどくて冗長。音声として聞くには違和感があり、正直信用にはまったく足りない。
しかしソラのその心情を察したのか、「証明してあげようか」とルクバトは言う。
「何を」
「これが夢じゃないって」
目の前に手が差し出される。掴め、ということなのだろう。
ソラは差し出された手と、ルクバトの目を交互に見た。
「結局のところ気の持ちようさ。 現実はいつだってちょっとしたことで崩壊するし、夢だって起きたら引き戻されちゃうだろ」
「、……」
「抜け出したいなら手を取って、退屈を忘れたいなら信じてよ。 一夜のたった数時間、心のままに動いてみたっていいんじゃないかな」
ソラはふ、と息をつめた。
心が、揺れている。
怪しいとか得体が知れないとか、そういう現実的なことを抜きにすれば、こんなの誰だってわくわくするだろう。魔法学校からの手紙、クローゼットを開けた先の別世界。かつて紙面の中にあった世界が、今目の前に広がっているかもしれないのだ。
「ついておいで、きっと後悔はさせないから」
その手を前に、ソラの細い喉がごくりと動く。
「(……もし、今見ているこれが夢じゃないのなら、)」
無粋なことなんて、今は考えなくていいんじゃないか。
今くらい、踏み出してみてもいいんじゃないのか。
そんな思いが腕を支えて、段々と上へ持ち上げる。
ゆっくりと、しかし確実に、ソラは差し伸べられた手を取った。
「よし」
「? ッぎ、」
次の瞬間、景色が吹き飛んだ。
星の瞬きが近くなり、周囲の風景がたちまち過去になって、脚の先へ置き去りにされていく。
飛んでいる。つまり、飛んだのだ。あの窓を蹴った彼に連れられて。
「わ、ぁ、ああああああ!!?」
ソラはただただ叫んだ。無我夢中で、それこそ他のことなんていっさい考えずに。
本来かかるはずの風圧は不思議とそれほど感じない。だがだからこそ、周囲の景色の変化がよくわかって、心臓の底がぞわぞわする。まるでジェットコースターだ。
「気持ちいいね」
ルクバトは何でもないようにソラを見て微笑む。
混乱した頭でソラはふと、幼い頃に見た映画のキャラクターを思い出した。ガラクタみたいな動く城の主人。女の子の心臓を食べちゃうというウワサ。彼は敵から逃げる最中、街を歩く一人の女の子と共に空中散歩としゃれこんだ。
でもこれはそれよりずっとひどい。比べようもない。
あれはまだ速度がまともで、ロマンを感じるだけの余裕があった。
間違ってもこんな絶叫マシンも真っ青の、おっそろしい暴走航空じゃない!
「止まっ、ぉ、おろし、ッヒ、ひぃいいいいッ!」
「注文が多いなぁ」
呆れたようにいうその声と共に、ある高度でふっと上昇がやむ。セーラー服の襟とスカートが、空気を孕んで微かに浮いた。
まるで見えない手に引き止められるように、二人の身体は優しく空中で静止している。
ソラは目を白黒させながら、ルクバトの身体にしがみついていた。あまりにも突然の暴挙に目が回ってしまっているのだ。視界の下の方に見える小さくなった街の夜景も、くらくらしてしまい大変よろしくない。
「おろし、ッおろして、おろしてよぉ……ッ!」
「わかったわかった、ごめんね意地悪して」
目をつむってそれしか言わないソラに答えるように、今度はゆっくりと下降が始まる。
雲の切れ間を縫って、メリー・ポピンズのように下へ下へと降りていく。知らないマンションの屋上に軽やかに着地。
「あ、そういえば名前を聞いていなかった。 君の名前は?」
「ッは、ぁあ、……ぁ、あ」
「だめだこりゃ」
その場にへたり込み、うわごとしか呟けないソラ。ルクバトはその顔を掬い上げ、眉間を指で軽くはじいた。
すると、チカチカしていた視界が一気にクリアになる。というより、元から見えていたその視覚情報をきちんとかみ砕けるようになった、という印象だ。呼吸はそのまま視界だけが急に平常時に戻ったせいで、違和感がひどい。
しかしまだ全てがバカになっていた先ほどよりはマシなようで、ソラの呼吸音も少しずつ元に戻りだす。
「はいはーい、お名前は?」
「っえ、あ……は、ッ花崎、ソラ、?」
「なんで疑問形?」
ソラは唖然としながらルクバトを見つめた。
この男、信じられない。こうなっているのは自分に責任があることを、まったく理解している様子がない。否、理解してはいるのだろう。した上で反省の色が皆無なのだ。
「ッ、いや、ほんと何なのこれ、あんたほんと何者、」
「本当に、同じことを繰り返すのが好きだねぇ」
「意味が違う、ッというか何、何なの、そもそも星を集めるって、」
わからないことだらけだ。
立ち上がってもなお混乱で泣きそうにすらなっているソラを、ルクバトは仕方なさそうに見返した。片眉をくっとあげる仕草が妙に様になっていて腹立たしい。
そうしておもむろにそのしなやかな指で、ソラの胸元をすっと指し示す。
「?何」
怪訝な表情を浮かべるソラを他所に、指は服へ触れる少し手前まで近づけられた。何かをひっかけるかのように人差し指がまげられて、くいっと引かれる。
するとその途端、オーロラのような光の帯が渦を巻き、風に乗って胸元から吹き出した。
「ッう、ぐ」
眩い光の奔流。溺れてすらしまいそうで、ソラは思わず目を閉じる。瞼の裏にすら煌めきの跡が残っていた。
暖色の暗闇の中「目を開けてみて」と言う声に、ソラは恐る恐る目を開けてみる。
「な、にこれ……」
そこにあったのは、ひとつの透明な球体だった。
ガチャガチャのケースよりは大きく、手の中にかろうじて収まる程度の大きさ。衛星が周る軌道のごとく、金色の蔦が周囲をしゅるしゅると幾筋も巡っている。繊細なつくりの硝子細工とでも言われれば納得してしまいそうな見た目だ。
「手、出して」
ルクバトに促されるまま、ソラは手を受け皿のようにしてそれを受け取った。
ぷかぷかと宙に浮いており、中には何も入っていない。自分の手の肌色が奥に透けて見える。
「知覚できないだけで、人間なら誰でも持ってる空想器官。 心臓と同じものだと思ってくれていいよ。 割れたりしたら普通に死ぬし」
「何、えっこれ、待って死ぬって何!?」
「ここに星を貯めなきゃなんだよね~」
もはや聞いちゃいない。
ソラは一気に不安になって、ルクバトをねめつける。手が微かに震えているのは気のせいではない。
「他の人も持ってるって、マジで全員?」
「うん。でも皆これの存在を知らないから、星は貯まらない。 ほら、お金は働いてたら入ってくるけど、貯めようと思わないとしっかり貯まらないだろ」
「急に現実的……」
「君の言語感覚に合わせたんだよ」
「やかましい。 で、なんでその、えー……星? を集めなきゃいけないわけ? 理由は?」
「世界の危機と大いなる使命、どっちがいい? 他のでもいいよ」
「なッ……ふざけんな。 ちゃんと答えて」
……こうつっけんどんに言いながら実のところ、ソラはそこそこに期待していた。
何せ目の前にいるのは空飛ぶ美少年。窓辺の邂逅に始まり、星を集めるために夜の空中散歩。少し、いや随分なスピード違反ではあるが、いかにもなロー・ファンタジーだ。錆びついていたミーハー心が震えている。
誰だって、代わりが利かない存在になってみたいのだから。
「うーん……ほんとに、好きにつけたらいいんじゃない? 理由なんて」
しかしその期待を裏切るように、ルクバトは何でもなさげにそう答えた。
「はあ? ……っていうか何、理由ないの?」
「まあ、うん。 僕は君に会うためにここに来たわけだし」
「へ?」
はろりと呟かれた言葉に、ソラは目を瞬かせる。
「ん? 会った時に言っただろ?」
「え、や……そういや、言って、……た?かも」
冷静な思考を、たちまち荒波が押し流す。
会うため。会うためって、なぜ。星を集めるためではないのか?そもそも面識も何もないが。
そう考えて、ソラはふと思い至る。
「(────これは、『好意』、では?)」
気づいた途端面映ゆくなり、ソラはなにとなく目を逸らす。
得体の知れない相手だ。というか確実に人間じゃない。あと何より初対面。それらの現実的な意見を、「ファンタジーではよくあること」という声が一蹴する。
それに人間味がないせいか、彼にはどうにも異性に対する危機感や生々しい嫌悪感が働きにくい。突飛な出会いもそうだが脂っぽくなくて、人間特有の温度が感じられないのだ。向けられた感情に余分な濁りが発生しない。アニメやゲームなど、存在する次元の違うキャラクターを見ている感覚に近いといえる。
だからこそ今ソラの脳裏に浮かぶのは、純粋な疑問と、微かな嬉しさのみで。
しゃろっ。
「え?」
かろやかな音がして、思考が中断される。
視線を落とすと、未だそこに浮かぶ球体が微かに光っている。
よくよく見てみれば内部に少し、砂状のきらきらしたものが。
「お、貯まったねえ」
「えっこれが『星』?」
「うん」
ルクバトはその『心臓』を押し込むようにしてソラの胸元へしまった。痛みや抵抗はなかった。
その金色のひと筋までが完全に消えると同時に、ソラは目頭を手で覆い、天を仰ぐ。
「(わかんないって……!)」
わからない、なにもかも。
入れるための穴などはないように見えたが、どこから入ったのか。
何をもってしてどういう基準で溜まったのか。そもそもこの『星』ってなんなのか。この男は何者なのか。
欲しい情報が何一つとして得られず、得た情報はそろいもそろって咀嚼しきれないものばかり。説明不足という言葉すら見合っていない。
それもこれも、目の前のこの男がふわふわとした言い方しかしないせいである。
ソラは首をまげて、しかめっ面を地面に晒し、しばらくうんうん唸って、また天を仰ぎ、
「……!」
「なんかまた色々考え込んでるねえ」
そしてはっ、と思い至る。
方法や基準は不明だが、今の様子を見る限り『星』とはなかなか簡単に集められるものらしい。
そしてもし仮にルクバト自身の心臓で事足りるならば、わざわざ他者を頼らなくたっていいはず。つまり恐らく、一人では溜められない仕組みなのだ。『星』を集めるためには他者の存在が必要なのだろう。
加えて、こいつが(無意識かそれとも思惑あってか、は置いておくとして)こういう人を惑わせるような言い方をする奴なことは、この短い間でも十分にわかる。婉曲的で比喩っぽい。ファンタジーには向いているかもしれないが、日常会話には向いていない。
だから『会うために』、と。『(会って星を貯めるために)会いに来た』、と。
「……っはぁあ……」
「お、考えまとまった?」
ソラは大きくため息をついてうつ向いた。
そりゃあそうだ。結果的に『ソラだった』だけで、『ソラでないといけない』理由なんて自分でも思いつかない。
冴えない者が主人公になれるのはフィクションの中でだけだ。そもそも『会いに来た』という割には名前すら知らなかったようだし。
……というか、別にそこに期待をしていたわけではない。ないったらないですとも。
「ん、あれ? なんか落ち込んで……いや違う、呆れられてる? 僕」
「や、別に……」
うずくまってしまったソラを、ルクバトは不思議そうな顔で覗き込む。
自分の言動が及ぼした影響がわかっていない顔だ。きょとん、という効果音がよく似合う。その態度が腹立たしくて、ソラは責める目で言葉をつづけた。
「……アンタさあ、ちょっと言い方考えたほうがい」
ぐぢゃ、。
続けようとした言葉が、ぐしゃっと握り潰された。
あまりにも唐突に、ルクバトの左ひじから下が忽然と消えたからだった。