第十八話 疑念
「……ぅう、」
うめき声。戻る視界。
数秒か、それとも数分か。とかく途切れた意識が回復する。ソラはあたりを見回し、顔をしかめた。
周囲一面、真っ黒である。微かな隆起、明暗、音のひとつも聞こえない。
完全なる無だ。
「何これ……食べられた……?」
意識を失う前、影狼に襲い掛かられたことは覚えている。しかし消化されているという感覚はない。
下へついた手をずぶっと抜き取る。粘着質、泥のようだ。以前体験したルクバトの本体に飲み込まれたときと感覚は似ていなくもないが、それよりずっと不快感がひどい。
起きあがろうとするも、足をとられて上手く動けない。「ぅぐ、」。情けない悲鳴と共に転んでしまう。
「な、っにこれほんと、……ぎゃッ!?」
突如、ソラの目の前に一そろいの赤い瞳が現れる。
影狼だ。身を引けば後ろにも出現する。同じ個体が移動したのではなく、別の個体が新たに出現したのだ。わかりやすいまでの絶体絶命。
「ッく……食うなら食えば?」
ねろねろと蠢くその躯体を睨みつけ、ソラは気丈に言い放つ。
その声は震えていた。しかしそれを悟られたら終わりだ。何の準備もなく野生動物に相対したときの、無意識な確信。
そんなソラの様子に気づいているのかいないのか、影狼は独自の言語でソラに話しかけ続ける。
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「マジで何言ってるかわかんない、……っていうか」
食べないのだろうか。
ソラは警戒を解かないまま、周囲で渦を巻く影狼を見つめた。
今はルクバトからの妨害もない。そもそも獲物がまんまと自分のテリトリー内に入っている状態だ。ソラ自身には大した力もなく、食べようと思えば一瞬で終わることだろう。
「……何考えているか知らないけど、意味ないよ。さっさと離し、……ッぁ、ぐ」
《※⇆ ※※⇆※⇆ ※⇆※※ ※※ ※⇆※ ※⇆ 》
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《※⇆ ま ⇆⇆⇆⇆ ※※⇆⇆ ※※⇆※※ ⇆※⇆※※ ⇆※ ※※ ⇆※⇆⇆ ※⇆※⇆⇆ ※※ ⇆※※⇆※ ⇆⇆⇆※⇆ ※※※⇆ ⇆※⇆ ⇆⇆⇆ ⇆※ ※⇆ ※※⇆⇆ ⇆※ ※※ 》
《き※※⇆※⇆ しか※⇆ ※⇆※ ※⇆ ※⇆※⇆※ だ》
突如詰まった距離。後ろへ後ずさろうにも、気づけば周囲を数々の影狼の群れに囲まれている。二匹どころの話ではなく、そもそも地面の沼のような粘性で満足に身動きも取れない。
ソラは思わず目をつむろうとした。だが、影狼の言葉や挙動に滲む懇願するような色がそれを許さない。
《おねが※⇆ 》
《※⇆※※※ ⇆※⇆ ※※※ ※⇆⇆⇆※ ※⇆※⇆⇆ 》
周波数の調整をしているときの砂嵐混じりなラジオのように、影狼が放つ言葉が段々と理解の及ぶものになっていく。それと同時に、足に、腰に、腕に、触手のような黒が巻き付きだした。ずぶりずぶりとソラを飲み込んでいく。
「待って、何、」
《※⇆※※※ ⇆※⇆ ※※※ せて》
《おわ※※※ ※⇆⇆⇆※ ※⇆※⇆⇆ 》
《おわ※※※ せて》
《おねがい》
《き※※⇆※⇆ だけが》
《きみはだまされている》
《おねがいだ》
《たのむ》
《おわらせてくれ》
《われわれを》
《あのおとこは》
《あのおとこはしんじつをかくしている》
《あのおとこにきをゆるしてはいけない》
《おわらせ》
《もう》
《おわらせてく》
「ッ、と」
途端、ソラの身体はぐい、っと後ろへ引き戻される。
急に締まって変な音を立てる喉。その数ミリ前で黒い爪が空を切った。
黒は縋る先を失ったように引きちぎれる。周囲の黒い幕がはじけるように消え去り、青空が露出する。
ソラは夢から覚めたときのように息を荒げながら、ただ影狼を見ていた。
影狼は悔しそうに唸り、地面に溶けて消えた。
「ごめん、油断した。 怪我は無い?」
「……いや、大丈夫。 こっちこそごめん」
気絶した木下の身体を、ルクバトは軽々と抱える。明らかに変な方向へ曲がっていた木下の首は、彼が担ぎ上げた瞬間に直った。
「……今の、」
「……ああ、喋ってたね。 三人よればなんとやら、だっけ」
そのルクバトの言葉に、ソラは理解する。
影狼が一匹ではないこと、また同位体と合体することはソラも知っている。単純に合体することで能力が上がるのだろう。
そしてその能力の上昇は著しい。人語を解し、発話が可能になる程度には力を貯めてきている。
「……やば、くない?」。そう呟いたソラに、ルクバトは何でもない顔で「やばいねえ」と返した。
「まあ自分がどうにかできないことを考え続けても仕方ない。 上の人たちの記憶はもう消したし、とりあえずこれ保健室に、……」
「ぁ、待って、」
ルクバトは振り向いた。
呼び止めたくせに、ソラは気まずそうに視線をさ迷わせる。
「何?」
「……あの時は言いすぎた。 ごめん」
勢いに任せて謝る。これをきっかけに今のわだかまりも解消してしまえ、の魂胆だ。
ソラが一方的に気まずさを感じていただけで、ルクバトはそこまで気にしていないだろうことは、ソラ自身今の会話の雰囲気でよくわかった。そしてたとえそうでなかったとして、謝るという行為があくまで自己満足にしかならないことも理解している。
それでもきっちりけじめはつけなくてはならない。今までのソラの経験上、時間に任せて解決をうやむやにしてきた件の中でもやもやが晴れたことはないのだ。
「でも、自分の都合で他人を消したりするのはダメ。 ちゃんと最初に言ったことは守って」
そしてこれもまた、まっすぐに目を見て言う。
そう言うと共に、自分の中で改めて、明確にその言葉が理解を持つ。
人の命を簡単にどうこうするのはダメなことだ。たとえ気遣いであったとして、そこを踏み越えてはいけない。
「(……まあ人間でない奴に言うことでもないけど)」
それでも、そこを抜きにしたとして、最初に交わした約束を守れないのはだめだ。『この世界で星を集めること』を目標に掲げるなら、この世界の常識に従わなければ。
ルクバトは瞳をぱちり、次に笑って言う。
「気にしなくていいのに」
それがどちらに対する言葉なのか、ソラには判別が出来なかった。
「さて、今度こそこのあたり直して教室戻ろう。 結構時間ギリギリだ」
「ああ……うん」
わだかまりのなくなった空気。
しかし、ルクバトが飛び散った瓦礫などを元の状態にまで戻している間、ソラの脳味噌はふとある言葉を思い出す。
影狼に捕らわれたときに聞いた言葉。
「おわらせて」、「君しか」、「あのおとこにだまされている」。
「(……)」
影狼の目的はソラの心臓だ。少なくともルクバトはそう言っていた。
校舎での襲撃の際も、ルクバトではなくソラを追って屋上から飛び降りていた。
狙いがソラでないのなら、ただただ落下するだけのソラを置いてルクバトを探すだろう。
また影狼の爪は確かにソラに伸びていた。油断させるための話術、普通に考えればそういうことだ。
だがそうわかっていても、なぜか影狼が訴え続ける声はソラの心に残り続けた。
懇願するような言い方。目の前にあってもすぐにはソラの心臓を食べなかった。『あの男』。騙されている。
いつまでも動かないソラを不思議に思ったのか、片付けを終えて歩き出そうとしたルクバトが再び声をかけてくる。
「? どうしたの?」
「いや、……」
関係性はもとに戻った。しかし心の中に、かすかに黒い染みがつく。
ほんの小さな染みだ。しかし水に落ちた墨汁が広がっていくように、それはソラの心情を蝕み続けた。
「(ルクバトは、……私は、)」
何を信じれば、いいんだろう。
次回の更新は3/21(金)の予定です。




