4冊目:軌跡の時間 009頁
二度寝だと気づいた。そして、多分ここは夢の中。
夢として本の世界に入った訳ではなく、本当の夢の中。
暗い部屋。両手脚は縛られて、動かせない。
ああ、よく見る夢だなと思う。幼い頃の記憶の夢。
口には布が噛まされていて、喋ることは出来ない。
扉が開いて、ひとが入ってきた。顔は見えないが誰かはわかっている。家政婦だ。
入ってきた家政婦は俺の拘束を解きながら「さあ優也君、今日は沢山『訓練』しましょうね」服を全て脱がせてきた。
それが嫌で、怖くて、俺は口枷が外されると家政婦に言葉をかけた。
「 、 」
なんと言ったかは覚えていない。
ただ、家政婦の機嫌を損ねたことは確かだ。
家政婦は怒鳴りながら「これは優也君に必要なことなんです。優也君が産まれなければ、名医がひとり失われることはなかった。救われるはずの命がどれだけあったか分かりますか!」俺の身体を何度も何度も、箒で殴った。
ごめんなさい。ありがとうございます。俺はお母さんを殺しました。もっと罰を与えてください。そんな言葉を泣きながら繰り返して、繰り返して、繰り返して、蹴られて、殴られて、叩かれて、体に力が入らなくなった頃に『訓練』は始まる。
お風呂の水の中にたくさん沈められて、息が出来なくて、苦しくて───凄く、怖くて、悲しくて。
目が覚めた。7階の部屋。見慣れた部屋。
そして、体が全く動きません。拘束されてるみたい。
しばらくして、兄貴がやってきた。
「あ、起きてる」
「起きてるよ」
早く拘束を外して欲しいと伝えると、渋い顔をされた。
「お前さぁ。点滴もカテーテルも外して、更にはピッキングしやがって、どこ行こうとしてたんだこの野郎」
…………すっかり忘れてましたね。体感だと結構前の話だし。
あまり覚えてないけれど、とても頭の中がぼんやりしてて、ついうっかり外しちゃったわけでして、俺は別に悪くないと思うんだよね。ついうっかり、点滴とか色々外して抜け出すくらい、すると思うの。
「でも、どこにも行かなかったでしょ?」
「どうせ理久君に宥められたんだろ?理久君の服に血がついてたし。クリーニングに出しといたぞ」
兄貴のいるほうの反対を見ながらお礼を言った。
素直にお礼を言うなんて珍しい、なんて言うものだから、少し腹が立つ。
顔を背けたままでいると、兄貴は俺の髪を触ってきた。撫でられたともいう。
「……なあ、優也。最初は苦しいかもしれないって義父さんが言ってたけど『寝てしまう』ほうの薬、別のものに変えてみないか?」
何故、俺の意見を聞くのだろう。俺はどんな治療法でも行える治験対象としてこの場にいるのに。
「勝手に変えればいいよ。どんなデータでも自由に取ればいい。それが俺が生かされてる理由でしょ?」
兄貴が、酷く悲しそうな顔をする。何故?
「そんな訳あるかよ、馬鹿」
「違うの?……じゃあ、中身?確かに、子どもの臓器は貴重だし、俺は変なものも食べてないから……でもそれなら、あまり薬は使わない方がいいんじゃない?」
兄貴の方をちらりと見て驚いた。目に涙をためている?どうして?
突然兄貴が大声を出す。
「違う!優也はモルモットでもドナーでもない!」
訳が分からない。耳が痛いから静かに喋って欲しい。ここ、一応病院だよ?
「俺はどんな治験でも誰も文句を言わない、データが取れるサンプル。だからここに居るんだけど」
兄貴は泣きながら俺の手を握った。
「違う、違うよ優也。優也がもし、あの時に望まなくても、形はだいぶ違うけど、ここの最上階は優也の為の階だったんだよ」
俺の、為の、フロア……?
なんだか、頭がぼうっとする。頭が理解するのを拒絶しているような感覚。頭が、痛い。
「6階が交流スペースだったのは知ってるよ。それが何?俺がどんな治験でも受け入れることを条件に、寄越せって言ったらワンフロア増えて、7階が俺の場所になっただけでしょ?」
兄貴は首を振った。
「違うよ、違う。たくさんの本を置いて優也がいつも居られるように、同じくらいの歳の子たちとも遊べるように、寂しくないように、病院の中で小さな学校を作ろうとしてたんだよ。そんなことを計画しながら義父さんは──」
「それは俺が『峰岸家の長男』として、価値があったから考えてくれてたんじゃない?家政婦から傷物にされて、使い物にならなくなったから、だから『取り替えた』だけなのに!」
「義父さんがそんな事する訳ないだろ!」
兄貴が赤い石の入った銀色の鍵を見せてきた。
「俺の鍵はこれ。お前も同じの持ってるだろ。どれだけ義父さんがお前の鍵を石の色とか、意味とか、こだわって作って、いつ帰ってきてもいいようにって、毎日、どれだけ優也のことを考えてると思ってんだ!」
「違う、違うよ、だって、俺は………ぅ…」
ずきずきとした頭痛が、割れるような痛みに変わる。
拘束されていなければ、暴れていたと思う。
「優也、大丈夫か?!」
「俺、は、み、峰岸、家の……ちょ、長男、だから…………ご、めんなさ……俺の、せい…ごめんなさい……俺は…お母さん、ごめんなさい……」
被検体でもなく、峰岸家の長男でもなくなった俺は、なんで、ここに居る?
お母さんを殺して、助かるはずだった人達を助からなくして、俺は、何のために生きている?
兄貴が、覆い被さるように体を触れさせて来た。優しく頭を撫でてくれる。
「優也は、俺の弟だよ」
「おと……と………?」
「そうだよ。優也が寂しがり屋で、お兄ちゃんが必要だったから、俺は諦めてた医者のレールを敷いてもらって、優也のお兄ちゃんにもなれた。だから優也が何かで苦しんで立ち止まるなら、今度は俺が引っ張ってやる」
「…おに…ちゃん……」
「優也は、俺の大事な弟だ」
頭痛が引いていく。なんだかすごく、すごく疲れた。
目を閉じた。
暫く寝てしまっていたらしく、起きたら父さんが部屋にいた。
父さんが今後の治療方針なんかを説明してくれる。
解熱剤を点滴に混ぜてもらったから今は平熱だが、どうやら少し高めの熱が出ていたらしい。
兄貴が言っていたように熱が下がれば普段の薬を少し変えてみようという話もされた。
少し悩んで、今のままでいいと答えた。父さんは、それでも構わないと言ってくれた。
全身の拘束は外してもらったが、体から伸びる管は繋がったままを暫く維持するのだとか。
まだ、口からご飯は食べられないから仕方ないか。
今日は兄貴がずっと傍に居てくれることになり、読書室に行きたいというと枷は外してもらえた。
そして夕方。
理久が遊びに来てくれた。
理久はペンダントを自分の首から外すと俺にかけてくれる。
「うん、やっぱり優也はこれだよな」
「ありがと」
だいぶ身体が楽になる。けれどやっぱりまだきついなぁ。
あ、そうだ。
「ねえ理久、また昨日みたいに俺を抱いて欲しいんだけど、だめ?」
理久の返事より先に「理久君…優也に何を……」兄貴が理久の腕を掴んでいた。
「ご、誤解ですって!!」
慌てる理久。どうしたんだろう。
兄貴は苦虫を噛み潰したような顔をしながら「でも、理久君なら合意か…?優也、乱暴なことはされてないか?嫌じゃないか?体は?おかしなとこはないか?」理久を離した。何で父さんと似たような事聞くんだろう。
理久に乱暴されたことって、あったっけ?
「理久は俺が嫌がることはしないよ。抱いてもらうとね、暖かくて、気持ちよくて、おなかいっぱいになったような気分で、幸せ。理久のこと大好きだもん、俺から頼んだの。合意だよ」
兄貴がため息を着いた。理久の肩を軽くたたく。
「理久君。わかるよ、わかるよその気持ち」
「いや、わかっちゃダメでしょ」
「合意なら俺は何も言わないよ、理久君だもん、理久君なら………うん」
「ちょっと拓矢さん、お話が……」
「待って。俺まだ…弟が増える覚悟、出来てない……」
「しなくていいですから」
理久が兄貴を連れていった。読書室が急に静かになる。
本を開こうとして、やめた。なんだかそんな気分じゃない。
ゆっくり体を横にする。解熱剤が効いてるからといっても熱が出ていたわけだし、少しぼうっとする訳で。
あの頭痛がした。
峰岸家の長男が、熱くらいで──
頭の中で誰かの声がする。幼い頃、家政婦達にかけられた呪縛。俺を縛る、見えない鎖。
頭を押さえ、深呼吸をする。
俺は峰岸拓矢の弟、峰岸優也だ。
もう長男じゃないから、熱くらいでもぶっ倒れます!!!!
声と頭痛が消えた。
思考も、感情も、身体も、全部を縛る鎖が、こんな方法で外れるなんて。
「あは……あははは」
なんか笑えてきちゃう。
「……ゆ、優也君、どうしたんですか?」
いつの間にか部屋に来ていたハセガワが困惑していた。
「別に?峰岸家の次男ってのも、いいなって思っただけだよ」
次男だから、これからいっぱい甘えちゃおう。だって、峰岸家の長男じゃないんだもん。何してもいいよね?
ハセガワは少しだけ笑って、俺が頼んでいたものを渡してくれた。
「優也君が欲しがっていた太いリボンは無さそうでしたから、サテンの布で仕立てました。繋ぎ目はありますが、目立たないようにしています。……これで十分ですよね?」
「うん!ばっちり!!」
布を触る。すべすべしていて気持ちがいい。
リボンにだけ使うの、少し勿体ないかな、なんて思っていたら「医院長からの言伝ですが『ちゃんとパンツは履くように』だそうです」リボンを落としかけた。
「ちょっと待って。使い道、言ったっけ?」
「優也君のスマホは、検索履歴を医院長が確認できますから…」
うーん。それは知らなかった。時々開けないページがあったのはそのせいかな?
「それに、裸にならなくても今からでも包装出来ますよ。お手伝いしましょう」
「ほんと?!じゃ、理久が戻る前に、はやくー!」
ハセガワはせっかくだからと髪も梳いてくれた。
首元に、大きめの結び目を作ってもらう。すごくふわふわと体にリボンが巻かれているから、もう少しぎゅっと体に巻き付けるものだと思っていたことを話すと、まだ体に管も入っているからこれでいいと言われた。後でまた包まればいいのだと。そっかぁ、そうだよね。プレゼント、1回じゃ足りないもの。
暫くして、ぐったりとした理久と納得いかないような顔をしている兄貴が帰ってきた。
俺を見て、理久はすぐに協力者であるハセガワに視線を移す。
めちゃくちゃ困惑気味の理久。そうだよね、突然欲しいものが目の前に現れてるんだから、驚くよね!
ハセガワはにこにこと笑っているだけ。
理久のもとへ歩いて、抱きついた。
「理久に、俺をプレゼントしようかと思って!俺ぜーんぶ!あげる!!大好きだよ、理久!」
「要らねぇんだけど!?」
リボンが引っ張られて、外された。プレゼントのリボンって、受け取ったら外すよね。つまり俺、受け取って貰えたんだよね?えへへ。
「羽瀬川さん、何やってんすか!これ、なんすか!!」
すました顔で「面白いかと思いまして。医院長公認です」淡々と床に落ちたリボンを拾い上げるハセガワ。
「親父さん公認って親父さんバグったの?!」
もう、さっきから理久ってば、はしゃいじゃって。
「理久、ここ病院だよ?静かに静かに」
「そういう状況じゃねぇだろこれ」
「それより、受け取らないプレゼントのリボンは外さないよね。つまり、俺は受け取って貰えたってことで…いい?」
「いいわけねぇよ」
「また理久と寝たい……もう、抱いてくれないの?2回だけで、終わりなの…?」
理久がハセガワを見て「あのっ、これは!!」なんか慌ててる。
ハセガワが笑顔で「理久君、大丈夫ですよ」リボンを畳んでいた。
理久、めちゃくちゃ慌ててる。兄貴は兄貴でなんか凄い顔してる。兄貴も俺欲しかった?あげないよ。
ハセガワに声をかけられた。
「優也君。添い寝をして欲しい時は、抱いて欲しいという言い方では上手く伝わりません」
「そうなの?でも、ぬいぐるみは抱いて寝るよね?」
「優也君はぬいぐるみではないでしょう?なら、一緒に添い寝して欲しいと、抱きしめて欲しいと言いましょうね」
「はーい」
理久にもう一度、えっと…「理久、また添い寝して?ぎゅーって、抱きしめて?」これでいいかな?
「えっ、あ、あぁ…うん。添い寝なら、いつでもいい、けど……なんで羽瀬川さん、わかったんですか…?」
ハセガワがにっこりと微笑んだ。
「おふたりは単純なことを忘れているんです。優也君はずっとここで、ひとりで暮らしていただけの10歳なんですよ?」
理久が目を見開いて、俺を見た。どうしたんだろう。
「お前って、案外馬鹿だったりする?」
「失礼な」
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