4冊目:軌跡の時間 005頁
目を開ける。少し寒い。
どうやら7階の寝室のようだ。
体を起こそうとして、動かせないことに気付いた。拘束されている。
見える範囲で状況を確認すると、腕には点滴の針が刺さっており、下半身にも少し違和感が。
とりあえずもう一度、目を瞑った。機械が動く音だけが聞こえる時間。しばらくそのまま過ごすと、兄貴が寝室にやってきた。
「あ…良かった!優也!!起きた!!!」
「うん。起きてるよ」
兄貴が拘束を解いてくれた。マスクをやっと外せた。体から出ている管は兄貴では外せないのでそのまま。もう少し我慢。
時計に表示された日付を見て、驚いた。
「3ヶ月も『寝てた』の?」
『寝てしまう』前の記憶は相変わらず曖昧だけど「確か学校の廊下で倒れて…」どうなったのだろう。
兄貴が頭を撫でてくれた。
意識を失ったあと、すぐにハセガワが見つけてくれたおかげで死なずに済んだらしい。
軽く口を濡らす程度の水を飲んだ後、精密検査に連れ出される。体から伸びた管が一旦外され、隅から隅まで調べられた。
検査では特に異常はなかったが、いくら剣で身体能力が強化されているといっても3ヶ月も寝ていたのだから兄貴に支えてもらいながら少しずつ歩くのでやっとだった。
剣がなければ、多分立つことすら出来ないと思う。
検査のあと重湯を口に運ぶ。凄く吐きそう。体が食べ物を受け付けないのは仕方ないか。
普段なら『寝ている間』に起きた場合、鈍臭くはあれど食べたりといった必要最低限の行為はできる。
ただし時々それすら出来ないほど『深く寝る』場合が2年に1度ほどある。
いつものゆっくりと眠るのではなく、爆発的な眠気で寝てしまう。今回は『眠る直前』で気づいたが、遅かった。
拘束されていたのは『寝ている間』に起きて点滴を引っ張って外してしまう上に、マスクを着けずに寝てしまう危険があるからで、一度『深く寝た』時に起きてマスクを付けずに寝てしまっていたことがあるらしい。
点滴を打たれていたのは1日1食すら口に出来ないほど起きていられなかったから。
恐らく『眠ってしまう』前に体を激しく動かしたことや、初めての学生生活が関係しているとは言われた。
3ヶ月以上『寝ていた』のさえ初めてだから、あまりよくわからないのが現状。
『眠ってしまう』にはまだ、余裕があったはずなのに。
傍に居てくれる兄貴に謝る。
「………ごめんなさい」
「謝るべき相手は違うだろ」
軽く頭を拳で突つかれた。
「うん」
俺が本当に謝らないといけないのはハセガワだ。
ハセガワはずっと、俺の事を心配してくれていたのに。
父さんも俺が起きた報せを受けて会いに来てくれた。凄く心配させてしまったみたいだ。
検査の時に外された点滴の針が腕に戻ってきた。暫くは重湯と点滴で過ごすことになるらしい。下半身にも管を通される。気持ち悪い。
そして全身の拘束の代わりに、両足にそれぞれ、肌に触れる部分は柔らかく出来た枷が付けられた。
枷は丈夫な紐でベッドに繋がっていて、体から出ている管より少し短い。
枷をつけるのは、この状態でも病院から抜け出した事があるからだと思う。昔の俺、何やってんだろう。
本は手の届く位置に沢山置いてもらった。
読む気力がないのでカーテンを開けると四角く切り取られた空が見えた。
「外歩くのはもう少ししてからにしような」
兄貴が俺を撫でてくれる。
突然酷い眠気に襲われ、かくん、と船を漕いでしまった。
「大丈夫か?まだ眠いなら寝ていいぞ」
酸素マスクを手に取る兄貴を見て、涙が出てくる。気がつけば、泣きながら言わないようにしていたことを口にしていた。
「もう、もう寝たくないよ。気が付いたら何日も経ってるの、やだよ、嫌だよ。俺だけおいてけぼりにしないで。たすけて」
普段だったら絶対にこんなことは言わなかったと思う。
兄貴が凄く悲しそうな顔をした。
酸素マスクが顔にあてられる。
そのまま意識を失った。
目を開ける。
部屋は殆ど真っ暗だった。
電気を点けると隅に置いていたソファーに理久が座ったまま寝ていた。一瞬どきりとしたが、本当にただ寝ているだけのようで安心した。
どうやら本を読みながら寝てしまったらしい。
寝顔を見ていると、ほんの少しだけ気分が晴れる。やっぱり理久って可愛いなぁ。でも、なんか違和感。
時計を見ると、日付は変わっていないものの、今は深夜だということに気づいた。このままだと理久が風邪ひいちゃうよね。
管を引っ張らないように、枷で転ばないように、気を付けながらベッドから降りた。足が少しふらふらするけれど、掴まりながらなら動けそう。
収納から毛布を1枚取り出した。薄いけど凄く温かくてお気に入りのやつ。これなら今の俺でも持ち運べる。
そっと理久にかけてあげた。これでよし。俺も、着てた布団だけじゃ少し寒いかな?
何だか少し暑い気がするけれど、同時に寒い気もする。
まだ少しだけ管と枷には余裕がありそうだし、少しくらい良いよね。
隣に座り、毛布の中に潜り込んだ。理久の匂いがする。ああ、落ち着く。もっと嗅いでいたい。
砂集め、3ヶ月も手伝えなくてごめんね。
理久の腕に抱きつく。これくらいじゃ、この人起きないだろうし良いよね。
抱きついて、はじめて感じていた違和感の正体に気づいた。
記憶の中では半袖だったのに、理久が長袖を着ていた。兄貴はまだ半袖を着てたから気づかなかった。
そうか、もう、寒い時期なんだ。ただ、今日が少し寒いだけじゃない。3ヶ月も経っている事を改めて理解した。
長い期間を『寝てしまう』と、いつも俺だけ過去の世界に取り残されたように感じてしまう。
今は『起きる』事が出来るから良い。
そのうち『起きる』ことが出来なくなって、みんなだけ時間を進んでくような、そんな悪夢を時々見る。
俺だけ、時間に取り残される。
外の世界から7階を切り離して、俺は切り離された世界で、本の世界だけで生きていた。
誰とも関わらなかったのは、時間の流れに気付くから。
自分の体でさえ歳相応に成長していくのが怖いのに、なんで忘れてしまっていたのだろう。
涙が溢れてくる。
声を殺しながら泣いていたのに。
これくらいの音じゃ起きないはずなのに。
頭を撫でられた。
見上げると、理久がいつの間にか起きていた。半分くらい寝ぼけた顔をしている。
「おはよう。怖い夢でも見たか?」
そういう訳じゃないと、離れようとしたのに。
今日は俺、おかしいみたい。
「ずっと怖いよ。もう『起きられない』んじゃないかって怖いよ。寝てたらひとりだけ時間に置いてかれるの、もう嫌だよ。怖いよ。助けて」
涙が止まらない。なんで俺、こんなこと言っちゃうんだろう。自分の気持ちが分からない。子どもっぽく声を出して泣いてしまう。
抱きしめられた後、理久の手が額に押し付けられた。
「優也、お前…熱ない?」
「ふぇ……?」
そういえば、体も熱いし、寒気もするし。
「体温計、どこ?」
そういえば体温計という体温計、持ってないなぁ。確か手首の端末なら理久も見れるんだっけ?今ついてないけど。
チョーカーを指さした。これが体温計代わり。残念ながら理久は確認できない。
理久は少し唸って「じっとしてろよ…?」顔を近づけてくる。
額と額が触れ合う。ひんやりとした理久の額がちょっと気持ちいい。
少しして、理久が離れてくれた。
「多分、38度ってところだろ。体温計、下で借りれるかな…」
「夜勤の看護師さんと先生達なら居ると思うけど……」
「ちょっと借りてくるわ」
部屋から出ようとした理久の服を掴んだ。やっぱり俺、少し変。
「行かないで。ひとりにしないで」
自分の声だと気付くのに時間がかかった。あれ、なんでこんなこと言っちゃうのかな。
理久は驚きながらも「そうか……そうだよな」ソファーに座り直す。
慌てて手を離す。
「ご、ごめん。ちが、違うの。俺でもよくわかんないの。さっきから俺、俺じゃないみたい。だから、その、気にしないで。大丈夫だから、その、お願いだから、嫌わないで」
最後は声が震えた。息が上手く吸えない。
頭を押さえる。
ぐるぐると、頭の中で声が聞こえる。
俺は『峰岸家の長男』だから、誰かに甘えちゃいけない。
『峰岸家の長男』が熱を出したくらいで、寝ちゃいけない。
寝たら怠け者になる。『峰岸家の長男』が怠け者なんて許されない。
怠け者になれば、お父さんから嫌われる。
『峰岸家の長男』でなければ『峰岸優也』の価値はない。
深呼吸をした。
そう、俺は『峰岸家の長男・峰岸優也』だ。
理久に顔を覗き込まれた。心配そうな顔をしている。どうしたんだろう。
「……優也、大丈夫か?」
「問題、ありません…失礼しました」
理久から離れた。冷や汗が止まらない。
頭が、ぼんやりとする。酷い頭痛がする。
立ち上がって、それから自分のベッドへ戻る。
布団を畳んだ。
少し深呼吸して、点滴の針を外した。少し血が出たけれど、多分すぐに止まるからいいや。
理久が慌てて近寄ってきた。
「それ抜いちゃいけない奴じゃねぇの?」
「大丈夫」
ズボンを下ろし、下半身の管も外す。周りを汚さないようにして……あとは足枷だけか。
俺は『峰岸家の長男』だから、怠けちゃいけない。この枷、すごく邪魔。
ベッドの隙間からヘアピンを取り出す。
ヘアピンを鍵穴に差し込み、ダイヤル式の鍵を回していく。すぐに枷が外れた。
部屋から出ようとして、理久に腕を引かれた。
「優也!しっかりしろ!!」
「何を、ですか?」
邪魔をしないで欲しい。
「お前変だぞ!!どうしたんだよ!!」
「何でもありません。さっきは取り乱して申し訳ありません。大丈夫です。理久の布団の準備、します」
壁に手をつく。歩くのだけでもかなりきつい。
けれど、そんな甘えは許されない。『峰岸家の長男』は、甘えてはいけない。
歩こうとして、理久に腕を掴まれたままな事に気づいた。
「離して貰わないと、布団の準備が出来ません」
「しなくていいよ」
「何故、ですか?」
「お前すげぇキツそうだし、絶対おかしいもん」
「俺は平気です。お客様の布団は、ちゃんと準備しないと」
笑顔を作る。早く離して欲しいんですけど。
理久は俺を抱き寄せた。血がまだ止まってないから、理久の服が汚れてしまう。
「理久、血が……汚れます」
「どうでもいい」
強く抱きしめられる。落ち着く、いい香りがする。ああ、この香り、すごく好き。
「いくらでも、いくらでもその、だ、抱いてやる。寝てやるから。だから……」
頭の中に響く声がぴたりとやんだ。
ぼんやりとしていた思考が少しずつ戻ってくる。あれ?何やってたんだっけ。というか……
「理久、くるしい…はなして……」
「絶対離さないからな!」
さらに強く抱きしめられる。あの、ちょっと、ミシッとか音聞こえた気がするんですけど?!
「いや、ほんとに苦しいというか痛い。ちょっとやめて」
「あれ?元に戻った?」
「なにが?」
解放してもらい、壁に身体を預ける。あれ?管が外れてる?それに、この赤いのは……「うわっ、血が出てる!!」慌ててテッシュを取る。腕に押さえつけた。
「理久の服にも血ついてる!何、何があったの?!」
理久は苦笑しながら、管は俺自身が引き抜いた事を教えてくれた。
「え、ちょっとよくわかんない……」
ほんとに状況がよくわかんない。さっきまで凄くぼんやりしてて、……あれ、でもなんか覚えてるような気がする?
心配そうに俺を見る理久に、もう大丈夫なのかと聞かれた。
「眠くはないんだけど、少し体がきついから横になろうかなって。また風邪ひいちゃったかな。理久のお布団どうしよう。一緒に寝る?」
冗談のつもりで言ったのだけど、理久は「それなら、……抱いてやるよ。俺風邪とか引いたことねぇし、移らねえ自信ある」嬉しいことを言ってくれた。
「ほんと?!ぎゅーって、ぎゅーってしてね!」
「もちろん」
あまり動けない俺の代わりに、理久が温かい毛布を収納から出してくれた。
さっきまで寝ていたせいもあり、寝れそうにはないからマスクは要らない。
代わりに、理久と向かい合って寝られる。理久の顔が見れる。理久の腕の中で、匂いを嗅ぎながら、ベッドに横になる。
「理久、いい匂い」
「俺は別に香水でも何でもねえんだけど」
「凄くいい匂いするのに…」
「体臭とかだったりする……?」
そんなことはないと思うのだけど、理久的には不安なのだろうか。
「わかんない。さわやかな…とってもおいしそうな、甘くて、いい匂いだよ」
「俺は香料か何かか…?」
理久がお返しとばかりに俺の匂いを嗅いできた。何となく聞いてみる。
「俺は、どんなにおいする?」
「うーん。しっかり嗅いでいい?」
「うん」
めちゃくちゃ嗅がれながら目を瞑る。頭と、首筋と、胸元と、凄くしっかり嗅がれてる。ちょっと恥ずかしい、かも。
嗅ぎおわった理久は暫く何かを考えていた。
「あのさ、傷付くかもって言えなかったんだけど、気のせいじゃなかったから言うな。お前、風呂最後に入ったのいつ?」
「あっ」
今日入った記憶、無いですね。
多分『深く寝ている』状態だと、お風呂にも入れてないはず。拭いては貰ってると思うけど。
「ちょっとシャワー浴びてきます!!!」
体を起こし、ベッドから飛び降りる。やばいやばいやばい!!いつから俺、風呂入ってないの?!部屋から出ようとして、気がついた。
「なんか普通に歩けるんだけど…」
「歩けねえもんなの?」
「うん。3ヶ月もベッドに拘束されてたんだよ?身体強化があるといっても、何とか支えてもらって歩けるくらいだよ」
理久は暫く考えたあとクリスに訊ねる。
「少し聞きたいんだけど。もしかして俺と優也が近くに居ればいるほど、優也の体の負担って減ったりするのか?」
クリスはふわりと俺の体に触れ、胸に下げていたペンダントに手をかざす。すると今度は理久のもとへ行き、同じように理久の体に触れた。
「魂の質、優也と理久は相性が凄くいいみたい。相性のいい魂同士が近づくと『契約者としての能力』が一時的に上がることが多いの」
「ペアを組んでるとかは関係あるか?」
クリスは少し考えたあと、俺と理久に小瓶を出すよう言ってきた。
小瓶を眺めたあと「理久が『器』を借りた時、姿が変わらなくなったのは優也とペアを組んだからだと思っていた。けれど、相性がとてもいい同士でペアを組んだから優也の体質が貴方に影響を与えたなら、あなたの体質が優也に何かしらの影響を与えた可能性はある」俺の小瓶と理久の小瓶を手に取りテーブルの上に並べて置いた。
あれ、少しだけ身体が軽くなった….?
「理久は、かなりの健康体だったりするんじゃないかしら」
腕組みをしながら「確かに怪我も病気もした事ないな」理久が頷いた。
ペアを組んでからは理久が遊びに来てくれる日は体調が良い日が多かったけれど、まさかそういう影響があったとは。
「じゃあ、俺が優也の小瓶持っててやれば、マシに動けるってことか?」
気づくのが一瞬遅れてしまった。理久が俺の小瓶を取り上げた瞬間「んぁっ!!」変な声が出た。
全身にくすぐったいような、気持ちいいような、変な感覚が走る。
思わずその場に座り込んだ。
「優也、どうした?」
「ぁ、…んぅ………」
理久が俺の小瓶をぎゅっと握った瞬間、全身の不思議な感覚が更に強くなる。
待って、やめて、なんかおかしくなりそう。くすぐったいのに、気持ちよくて、訳わかんなくなる!!!
小瓶の召喚を慌てて解除した。深呼吸する。
「理久の瓶の傍に置いておくだけでいいから!!触らないでね!!!絶対触らないで!」
「お、おう……?」
再度小瓶を召喚し、理久の小瓶の隣に置いた。
「じゃ、シャワー行ってきます」
繰り返した時間の中で沢山触られた事がある。あの時はトイレに行ったばかりだったのにまた行きたくなった。
ずっと触られ続けたらトイレ行きたくなっちゃうんだから。こんな時間だよ?漏らしたらどうしてくれるんだろう。全くもう。




