4冊目:軌跡の時間 004頁
2週間ほど学校に通った。
自分でいうのもなんだけれど、少しずつ慣れてきているような気はする。
画面越しの学校と、現実で訪れる学校。どちらも変わらないが、実際に会えるというのは少しうれしい。
父さんとの約束で、最初は季節関係なくチョーカーと手首の端末は必ずつけて登校する予定だった。
手首の端末は時計としても使えるものにしてくれたのだが、前と同じで自分では外せない。
元々邪魔だった端末が板書を写す時などは特に邪魔に感じてしまったことを父さんに相談すると、チョーカーの中にあるチップを毎日交換することになった。
要は俺の体のデータを細かく把握出来れば良いらしい。
今日もまた、起きてすぐにチップを交換する。
記録したデータを見たハセガワが少し眉間に皺を寄せた。どうしたのだろう。
「優也君。今日はおやすみしませんか?」
「どうして?」
「いつもより体温が低いようです。脈も少し遅くなっているようですから、眠気があったりはしませんか?」
「特に……何も無い、かなぁ」
「わかりました。では、こちらも付けて様子を見ましょう」
ハセガワが俺の左手首に端末を取り付ける。これ重いんだよなぁ。
「なにかあればすぐ保健室へ行ってください。今日は学内で待機させていただきますから」
「はーい」
ハセガワが心配していた眠気は特に襲ってこない。
体育の授業は内容を問わず見学と事前に学校側と決められていたこともあり俺は不参加。木陰でゆっくりと眺めさせてもらう。
運動会の練習も兼ねた授業らしい。足が速いとか速くないとか、色んな話をしている。
ぼんやりしていると、隣にサボり魔がやってきた。
「流成、また怒られるよ?」
「平気だって!ちょっとキューケイなだけだし~?」
にやにやと笑う流成は、なにかを握った手を差し出してくる。
「……なに?」
「いいから手を出せって」
掌に乗せられたものを見て血の気が引いた。
これがまだ、芋虫とかバッタとかなら投げ返す事は出来たと思う。
「でっけーだろ?さっきそこに居たんだよ」
沢山ある脚をしきりに動かしながら乗せられたものが腕へ上がってくる。そ、その虫だけは無理!!!
「やだ!!取って!!無理!!!」
振り落とそうとする。ぴょん、と虫が顔に跳んできた。
あ…もう、だめ………
意識が途切れそうになる。後ろに倒れそうになったせいで、腰掛けていた木の幹にしこたま頭をぶつけた。
「いたっ」
間一髪というべきか、何とか気絶せずに済む。危ない。
俺の病気は寝てしまうから息ができない訳ではなく、意識がないから息ができないのだ。気絶してしまっても、それはおなじ。
「凄く…怖かった………」
思わず声に出た。震えが止まらない。
「お前ってクモ苦手なん?」
面白そうに笑う流成。そうだよね、知らなければそうなるよね。
服の上からペンダントを握る。涙で滲んだ世界で流成を見上げた。
「もう、やめてね。俺、死んじゃうから」
どこから見ていたのかクラスメイトの男子が「えっ…大げさじゃね?」カマキリを持ってきた。
誇張表現ではなく気絶したら多分本当に死ぬ。けれど、それをうまく説明できる気はしないからそれ以上は言わない。
膝の上にカマキリを置かれた。とても威嚇されている。指を近づけると鎌を振られた。指先から血が出た。カマキリの鎌って結構痛いんだなぁ。
流成はしばらく黙って俺を見ていたが「優也、さっきはごめん。他に怖いもんってある?」カマキリを回収してくれた。
他にそこまで苦手な虫は居ないと伝えると、なんで蜘蛛だけが苦手なのかと聞かれた。
どう答えればいいんだろう。
家政婦から受けた虐待のせいだけど、縛られて動けない時に何匹も身体を這ってきたことがあった、なんて言ったら絶対父さんに迷惑がかかりそう。
「小さい頃に、ものすごく怖い思いをしたから?」
「ふーん」
流成がカマキリを放り投げた。突然連れてこられて放り投げられるとは可哀想に。
ほかの生徒が今度はダンゴムシを持ってきて、更に他の生徒がバッタなんて持ってきた。俺、別に虫は要らないんだけど。
俺の周りに男子生徒が集まってきていたこともあり、先生がサボらないようにと注意する。
授業に戻ろうとしたクラスメイトのひとりが聞いてきた。
「優也って、全く運動できねぇの?」
本の世界では現実と同じくらいの身体強化で十分動けていた気がする。足りないのは体力。
少し走って欲しいと他のクラスメイトからも言われた。
先生が俺は運動しちゃいけない体だからと生徒を宥めるが、どうやら収まりそうにない。
出来るなら俺もクラスメイト達のように走り回りたい。少しくらいなら問題ないだろうか。
「先生。俺少し走ってみたい」
先生は駄目だと止める。まあ、そう言うしか無いよね。
立ち上がり、軽く準備運動をする。靴は運動靴ではないからちゃんと走れないと思うけど、大丈夫だと思う。
少しだけだから、ね?端末で記録されてるからどうせバレるし。
50メートルのコースに立つ。俺、どれくらい走れるんだろう。
勝負だと言いながら隣に3人並んできた。たしか足が速いって言われていた生徒。お手柔らかにお願いします。
よーいどんの声に合わせて、走り出す。
ちゃんと走ったの、初めてだと思った。風をきる感覚が気持ちがいい。
全員、ほぼ同時にゴールした。へたりと地面に座り込む。あはは、もう立ってらんないや。
眠くないのに、眠い時みたいな呼吸を繰り返す。でもこれは苦しいけれど悪くないかも。
一緒に走った生徒が手を差し伸べてくれた。手を取って立ち上がる。
「優也ってすごいんだな!!」
「ありがとう。もう限界だけどね」
どうやら一緒に走った生徒は運動クラブに所属していて、その中でもかなり脚の早い生徒だったらしい。
ゆっくりと木陰に戻る。
じんわりと湧き出た汗が気持ち悪くて、持ってきていたタオルで拭いていると、いつの間にか隣にハセガワがいた。
すごく驚いた。来るの早いよ。
「優也君、何やってるんですか?」
「俺も少し走りたかったの」
冷えたお茶を飲む。美味しい。
「まったく……今日は特に大人しくしてくださいと伝えましたよね」
「うん。だからこうやってじっとしてるでしょ?」
「さっきまで何か運動してましたよね?」
「少し走っただけだよ。何かあったら今日はハセガワが居るんでしょ?大丈夫かと思って」
ハセガワがため息をついた。
「とりあえず、医院長には報告しますからね」
「はーい」
俺だってみんなと一緒に運動したいし、これくらい許して欲しい。
先生とハセガワが話しているのを遠目で見つつ、もう一度お茶を飲む。美味しい。
しばらくして、ハセガワが戻ってきた。
「優也君、今日は早退しますよ。データを確認した医院長から体を少し調べるようにと指示がありました」
ありゃ?思った以上に体調良くなかったのかな。
「そんなに動いちゃダメだった?」
「普段なら今回くらいの運動量は問題ありません。しかし『寝てしまう期間』が近付いているせいで少し…検査が必要と判断されたようです」
「つまり、特に何も無いって事じゃない?」
早退はしないと伝えると、ハセガワは俺の体をひょいと抱えた。学校でお姫様抱っこはやめて欲しい。
「ちょっ、ハセガワ!離せ!はーなーせー!!」
「帰りますよ。荷物は後で運びます」
「恥ずかしいから!!ちゃんと歩くから!!」
「本当ですか?」
降ろしてもらった瞬間、とりあえず全力疾走で逃げる。俺の足、すごく速いってことが分かったしね。
「あっ、こら待ちなさい!!」
ハセガワの声が遠くに聞こえた。
校舎裏まで来た。ここなら暫くはバレないかな?
次の授業は週1回の図書室の授業。本が読めるのに早退してたまるものですか。
靴を脱いで校舎の中に入った。とりあえず上履きを──何も無い所で転んだ。ちょっと痛い。
誰にも見られてない?見られてないね。
立ち上がって、また下駄箱へ──壁に手をついた。あれ?
体に力が入らなくなる。その場に座り込んでしまった。どうして?
壁に寄りかかる。何だかぼんやりする。
目を閉じた。眠くはないと思うのに、呼吸が上手くできない。
どうしたのか分からずに混乱していると、突然抗えない眠気に襲われた。一瞬息が止まる。
いつもなら少しずつ眠くなるのに。 胸を押さえる。息が苦しい。
体を起こしていられなかった。床に叩きつけられた。痛いはずなのに何も感じない。
ただ息をすることだけを考える。
強くなっていく眠気に少しだけ負けた。苦しくて目を開ける。必死で大きく息を吸った。もう、限界、かも。
手首と、首の、端末から、きっと、ハセガワが、たすけて、くれる。
だから、それまで、なんとか、息を──




