10冊目:万物の記録(アカシックレコード)011頁
一度家に帰り、宿泊の支度をして再度7階に戻った。
その間、千隼はずっと優也の傍に付き添っていた。
親父さんとの間に何かしらの約束事があるようだが、俺は知らない。
統計的に『寝ている期間』の起きている時間に目安はつけられる。その時間は特に注意しつつ優也の傍に居てやって、他の時間は自分のことを済ませればいいはずなのだが、千隼はずっと寝ている優也の手を握ったまま傍に居る。
なんだか優也が千隼に取られてしまうような、複雑な気持ちになるが仕方ない。俺だって可能なら付きっきりで傍に居てやりたいが、出来ないことは出来ないのだ。だから、千隼に任せることにする。
翌日、優也は予想よりはるかに早く起きてきた。
寝ぼけてぼんやりとしている様子ではなく、かなりはっきりと意識はあるようで、千隼がもし傍にいなければ面倒な事になっていたかも知れない。
意識ははっきりしていても身体検査の結果『寝ている状態』には変わりなく、体が上手く動かせないらしい。
酷く不機嫌そうな優也に、千隼はずっと付き添っていた。
優也には平行世界であることは伝えているが、きちんと理解してくれたかは分からない。
俺が泊まる時は俺が作るのだが、『寝ている期間』の優也の食事は少し特殊というかあまり食べられないせいもあり、消化に良いものを用意してもらう。
流石にひとりだけ別のものを食べさせるのもなんだか寂しいので、その時は俺と千隼も同じものをお願いすることにしていたのだが。
3人で食べていると優也が首を傾げた。
「理久兄さん。これ、味が薄くて美味しくない」
「えっ?」
一口貰う。病院食というのは基本的に薄味ではあるが、優也のものは俺が食べているものよりも薄味で、温かい。
しかし、優也はこれをずっと何年も食べてきているはず。美味しくないとかそういうことは言っていなかった様な気がするのだが。
舌でも潰せそうに柔らかく煮込まれたかぼちゃを突く優也を見て、気が付いた。
当たり前のことだった。
この優也は、優也だが優也ではない。
元々、ある程度の好みはあるようだったが優也にとって食事は『食べられればそれでいい』というものだった。
出会ってすぐの優也は、温かいものはどんな味であろうと全て美味しいと感じていた。
『万物の記録』の記述どおりなら、それは家政婦達の虐待による心の支配。
下手をすれば腐ったものでも平気で食べて体を壊す。だからこそ食べる直前に温めて食べられる冷凍食品を主食としていた。
最近は少しずつその支配が薄れていたようではあったが、目の前にいる優也はそもそも虐待を受けていない。
感覚が異なるのは当然だった。
そっと、優也の頭を撫でる。
困惑しながら、優也は俺をじっと見てきた。
「どうしたの、理久兄さん」
「……なんでもない。驚かせたか?ごめんな」
手を離す。いつもなら、笑い返してくれるのに。
気持ちよさそうに目を細め、にっこりと笑ったあと抱きついてくるのに。
急に悲しくなった。
そして、胸が苦しくなった。
優也はどんな気持ちで記憶が無い俺と接していたのだろう。
今回は『寝ている間』だけ入れ替わってしまっているから『起きれば』元に戻る。
それがわかっていても、ここまで苦しくなる。優也は記憶は戻らないものだと理解しながらも俺と千隼に接してくれていた。
相手が覚えていないというのは、こんなにも苦しいのか。
……優也が『起きたら』、うんと甘やかしてやろう。シチューやミルクプリンを沢山作って、添い寝だって、好きなだけしてやろう。
俺は『契約者』ではなくなったから本の世界にはもう入れない。もし、叶うことなら優也の好きな世界で一緒に過ごしたいのに。
ちらりと千隼を見る。優也は千隼とお互いに一口ずつ交換したりと楽しそうだ。
……今はいい。今は譲ろう。
それから本の世界も千隼に譲るが、優也が『起きたら』現実世界では譲らない。
優也は俺の、大切な親友なのだ。
『万物の記録』で、出来ることは沢山ある。
未来の記述なんてものはないが未来の記録なんて、上手く書き変えてしまえばいい。
優也が俺を幸せにしてくれたから、今度は俺が優也を幸せにしよう。
沢山辛い思いをしてきているから、もう悲しまなくていいように。
忘れてしまった願い事を、忘れたままでいられるように。
そもそも、優也の場合は我儘で幸せな願い事で貯めた砂を使い切ってしまえばいいと思っている。
小瓶に込められた願いは《この世界なんて、無くなってしまえばいい》というもの。全てを恨んだ願い事なんて優也らしくない。
あいつはもっと、我儘で悪戯好きで、甘えん坊で居たらいいと思う。
目の前に居る、優也の様に。