85 あなたのことだけは、絶対に忘れませんわ
『わたし』ってなんだっけ。
どんどんわからなくなってくる。
『わたし』がいなくなっていく。
どんどん、どんどん塗りつぶされて、ちがう誰かに書き換えられて、消えていく。
「あ――」
わたしのまわりにフワフワと、たくさんの泡みたいなモノが浮かんできた。
泡のなかには見覚えのある風景が映し出されてる。
「アレって、貧民街の……」
そうだ、幼いころから育ってきたスラムの光景。
薄汚い路地裏に浮浪者たちがたくさん転がっていて、こんなところ早く抜け出してやるって、ずっと思ってて――。
パチンっ!
そのとき、スラムを映していた泡がとつぜん、弾けて消えた。
「……スラム? スラムって?」
いや、言葉の意味ならわかるわ。
けどなんでスラム?
わたしとどんな関係が?
……あぁ、そういえば何でも屋をやってたとき、スラムに住んでいたわね。
そう、あそこに何でも屋の店内がうつった泡が浮かんでいるもの。
どうしてスラムなんかに店を出したのかしら。
ともかく何でも屋でいろんな仕事をしたのを覚えてる。
珍しいものを仕入れる、みたいなお使いから、貴族屋敷への潜入なんて危ない橋までいろいろと。
そうして3年くらい仕事をつづけたとき、わたしにそっくりなアイツが現れて、わたしはミストゥルーデのお屋敷に――。
パチンっ!
あっ、何でも屋を映してた泡が弾けて……。
「……わたし、ミストゥルーデのお屋敷に来るまでなにしてたっけ」
おかしい、全然思い出せない。
ずっと貴族やってた?
そんなはずない……わよね。
パチンっ!
パチンっ!
パチンっ!
「あ、待ってっ、消えないで……!」
いろんな景色を映していた泡が、わたしの記憶が、思い出が。
『わたしを構成しているもの』がどんどん消えていく。
そもそもわたしの名前、なんだった?
しゃでぃ……あ……?
あれ、ちがったっけ。
そるな……ぺてぃ……だっけ?
どっちだった?
自分の名前がどんどんぼんやりしてきた。
だけどまだ自分の顔ならわかる。
だって目の前に、わたしをどんどん浸蝕している影の自分が――。
……?
いま目の前で、わたしにどんどん腕を突っ込んできている人、誰?
この顔、なんとなく見覚えがある?
「あ、あれ? あれっ? あれぇっ? なんで? なんで思い出せないの……っ?」
わからないはずないのに。
絶対に忘れちゃいけない、忘れるはずのないことなのに。
わからない。
わからないわからないわからない。
影がどんどんわたしのなかに入ってくる。
もう片腕が、肩まで全部入ってる。
もう片方の腕も入ってきて、もう胴体も入ろうとしている。
影に浸蝕されるたび、泡がどんどん弾けて消える。
パチンパチンと、次々に消えていって、そこにうつったお父さま、お母さま、シーリン。
チヒロにテュケさんクラさん、爺や、みんながどんどん消えていく。
「やだ、忘れたくない……! 忘れたくないのに……っ!」
……忘れたく、なかったのに。
あぁ、すぐになにを忘れたのかすらわからなくなっちゃった。
わかるのは、ただただ、とっても悲しいってことだけ。
「このままわたし、ぜんぶ失くして消えちゃうの……? あなたに塗り替えられて……」
そっか、もうすぐわたしも消えるんだ。
泡みたいにはじけて、消えてなくなる。
ほら、もう泡も最後の一個。
アレが消えたとき、わたしの全部が消える……。
「……。…………?」
消えない。
最後のひとつが、ずっと消えない。
あわい光を発したまま、頼りなく、けれど心強く浮かび続けてる。
「アレに映ってるの、誰、だっけ?」
思い出せる、気がする。
わかる気がする。
……ううん、ハッキリわかるわ。
青みがかった白いロングの髪に、ちょっと気の強そうなキレイな顔。
わたしの、いちばん大切なひと。
「アイ、シャ……」
アイシャって、わたしがつけた愛称よね。
本名はアイシャベーテ=フォン=エイワリーナ。
わたしの婚約者で、だけど最初はすっごい嫌われていたっけ。
『あなたのこと、殺してやるわ』
そうそう、最初にこんなこと言われたわ。
けれどどんどん仲良くなれて、ホントの婚約者になれて……。
『素顔も仮面もどっちもあなた。わかったなら顔上げて、いつものようにしなさいな』
どうしようもなくなったとき、こうして励まして、立ち上がらせてくれて……。
『わたくし、約束します。アイシャにはそんな覚悟、絶対にさせないと約束しますわ』
『絶対よ? 絶対だからね……っ!』
……そうだ、ここに来る前だって約束した。
絶対にアイシャのところに帰るって。
悲しませたりしないって。
だからわたし、こんなところで消えてる場合じゃなかった。
はじけて消えた泡が、わたしのまわりでどんどん元に戻っていく。
ありがとう、アイシャ。
おかげで思い出した。
全部思い出せたわよ。
「わたしの名前はシャディア・スキニー……!」
ガシッ、と影の腕をつかむ。
わたしの中に入ろうとする、ソイツの腕を押し返す。
「そして、わたくしの名前はソルナペティ=フォン=ミストゥルーデ……!」
真っ暗闇の何もなかった空間が、わたしの記憶の泡が発する光で満たされていく。
同時に影が、どんどん力を失っていく。
「あなたの名前も、もちろん顔も思い出したわよ。ねぇ、わたしとおなじ顔のお嬢さま……っ!」
あれだけ恐ろしかった影を、おどろくほど簡単に押し返せる。
きっと自分をとりもどせたから。
そして目の前の影が、何者なのかわかったから。
「あなたの名前も、ソルナペティ=フォン=ミストゥルーデ。わたくしとおなじ顔、おなじ声、おなじ名前。だけどわたくしは違う。あなたはわたくしじゃない、まったく別の人間なのですわッ!」
影の腕を、完全にわたしの体から引き抜いた。
もうちっとも力の残っていない影に対して、信じられないくらい力がみなぎっているように感じる。
わたしの心の中だから、かな。
だからこんなことだってできるわよ。
影の腕をつかんだまま、体を回転させてブンブン、ブンブン振り回す。
「あなたとわたくしは、おなじじゃない! だからおなじになんてなれませんの! ここはあなたのいるべき場所じゃありませんわッ!」
じゅうぶんに勢いが乗ったところで、ひねりを加えながら手を放し、
「ここからッ! 出ていっておくんなまし――ッ!!!」
思いっきりぶん投げた。
影は光のかなたに消えて、わたしの意識もまた、光につつまれて――。
……。
…………。
「う、ん……?」
……閉じていた目をあけると、そこは真っ白な景色。
アルムシュタルクの中枢部。
どうやらわたし、現実にもどってきたみたい。
そしてなぜか、倒れているわけじゃないのね。
わたし、立ってるわ。
わたしのそばには涙目のテュケさんクラさん。
あと、どういうわけか数メートル離れたところに転がる、わたしとおなじ顔のアイツ。
「ソルナ様……? ソルナ様ですの……?」
「ちゃんと『わたくしたち』のソルナ様……?」
「えぇ、そうですわ。あなたたちの主人をやらせていただいている方の、ソルナペティですわよッ!」
「――っ、やったぁ! ちゃんとソルナ様ですわぁ!」
「ソルナ様ですのっ! ソルナ様ですのっ!」
ぴょんぴょん跳ねて喜ぶテュケさんクラさん。
アイツもようやく起き上がります。
「……いったた。まったく、いきなり立ち上がったと思ったら、このわたくしを投げ飛ばすだなんて」
「……投げ飛ばしましたの?」
「投げ飛ばされたわよ……!」
現実でも投げ飛ばしてたんだ……。
「でも、きちんと戻ってきましたわね」
「アンタになるだなんて、まっぴらゴメンですもの」
「わたくしだって、あなたになんかなりたくもありませんわっ」
どことなく嬉しそうに笑うもうひとりのわたし。
倒れたアイツに手をさしのべると、アイツもその手をガシッとにぎった。