急がば回れ 3
これは夢か。ウォーキングの始まりからぜんぶ夢だったのか。
クラスメイトが淡く青白く発光する光景には、さすがのユウも言葉を失ってしまった。
両目をぱちくりぱちくり。いったいこれは何なんだ。自分の持つ知識と経験を総動員して、この事象を合理的に説明しようとする。
これは、ええと、ううんと――
「外狩ちゃん……それ、太陽光発電? まだ日の出の時間帯ですけど」
そのとき――微動だにしなかった外狩が、小さな目玉だけをギロリと動かし、横目にユウを睨んだ。
人魂にも似た淡い光を纏うクラスメイト。彼女の双眸の威圧感にユウは一瞬怖気づいたが、よく見ればその視線は、自分に向けられたものではないことに気づく。
彼女の眼力は、ユウの”向こう側”の”何か”に対し突き刺しているようだった。
そして、ユウは悟る。
……自分の後ろに……何かいる。
「絶対振り向くな」
考える間もなく、外狩の左手が、その視線の先に向けられた。
手の平は、虚空を掴んでいた。目には見えない野球ボールを固く握って見せつける……、という表現がしっくりくるポーズだ。
相変わらず彼女の身体は謎の光に包まれていたが、その左手の平は特に光量が強まった。まるでガスコンロが空気を燃やして発生する青い炎である。
ユウはわけも分からないまま、非現実的な現実の展開を見守ることしかできない。
「■▼ですか」
ユウの耳元で声がした。声の主は真後ろにいるのがわかった。背中にぴったり張りつかなければ、この声量はありえない。
普段のユウであればオーバーリアクションで反応しただろう。
しかし予想だにしなかった不意打ちに、完全に金縛り状態だった。
それは、不気味としか言えない声だった。至近距離で聴こえたのに、なにを言われたのかさっぱり理解できない。なにかを問われたことだけはなんとなく判断できた。
「■▼ですか」
再び声がした。
女のような、男のような、子供のような、老人のような、およそ正常な人間が発したとは思えない声……、そして――
「■▼ですか■▼ですか■▼ですか■▼ですか■▼ですか」
声が鳴りやまなくなった。
誰に問うているのか、ユウにか、外狩にか、ふたりにか、まったく判断ができない声が、音声リピートのごとく同じ文言を繰り返す。やはり聞き取れない。淡々と、声色や語気という概念すら感じさせない。なのに、その声に含まれる感情だけははっきりと伝わってきたのだ。
凄まじい殺意である。
感情は目には見えないが、たとえば首筋に刃物を突き立てられて、おまえを殺したかったと囁かれれば、それを明確に認識できるだろうか。
快活な人生を歩んできたユウに、その殺意の程度など量りようもなかったが、ああもう、十秒後には自分は死んでいるのではないか、としか思えなかった。
ユウは外狩に言われずとも、指一本動かせずに立ち尽くしていた。
血の気が引くのがわかる、しかし身体は鳥肌を立たせる余裕すらなかった。
自分がいま、真後ろにいる何かに生殺与奪を握られている。
こわい、外狩ちゃん、助けて――言葉にならず、口を酸欠の魚のように動かす。背後の声は耳奥へ侵入を続けている。じわじわと脳ミソを汚染される気分。冷や汗が頬を伝い、顎へと流れていくのが、唯一現実味のある感覚だった。
そのとき、外狩が大きく口を開いた。
「違います。地獄はこちらです」
それは、ユウへの言葉ではなかった。
あろうことか、外狩は背後の何かの質問に答えたのである。
そして……何が起こるかと思えば。
ぴたりと声が止んだのだった。
背後にいた何かの気配も、もう一切感じられなかった。
不気味な声が消え去ったことで、今度は不気味なまでの沈黙が雑木林を包み込む。
外狩が纏っていた光も、徐々に輝きを失い、……ふつうに戻ってしまった。
「……ふぅ」
超常現象的な容姿から、すっかり地味な女子高生に舞い戻った外狩舞。
彼女は小さくため息をつくと、ようやく左手を下げた。ずっと伸ばしていて疲労したのか、気だるげに手首を振っている。ついでにあくびもひとつしてみせた。
「……………………」
ユウは恐怖の表情に固まったまま、その様子を無言で見つめていた。
いやな汗にまみれた額。しかしその中身はいやに冷静だった。
思考が現実に追い付いていないのか、はたまた、自分の命が救われたかもしれない事態に、九死に一生を得た安堵か。
いまここで繰り広げられたドラマチックな展開を……ユウはこう思うのだった。
「驟雨みたい」
思うにとどまらず、無意識に声に出していた。驟雨。突然降って、突然止む雨……。故事成語に明るい友人が、通り雨に出くわすたびに口にする言葉だ。
雨のようにしとしとと、しかし決して絶えることのない水滴は、まさしくさっきの声そのもの……。
外狩は細い目を見開いた。まさかこのおバカなクラスメイトの口から、そんな詩的な表現が出てくるとは予想もしなかったのだろう。
外狩が訝しい顔で腕を組む。ユウの言葉を吟味しているのか、数秒間黙り込んだあと、彼女は応えた。
首をきょとんと傾けて――
「しゅーう?」
……どうやら知らなかっただけらしい。
その間抜けな声色と口の形に、ユウの冷めた頭は覚めていく。
「と、とがり、ちゃ……外狩ちゃん」
「はい」
「外狩ちゃん外狩ちゃん」
「なに」
「とぉおおおがぁああありぃいいちゃぁああああんッ!!」
あまりに濃密な時間を過ごしたユウ。死線を超えた気がする肉体は、頭脳は、もうなんか凄いことになっていた。
彼女はふつうを自称しているが、もともとハイテンションキャラであり、本能に従うタイプであり、常人より多大な好奇心と行動力を兼ね備えたアクティブ・ウーマンである。
クラスメイトが発光して、真後ろにやばい奴に立たれて、耳元でなんかやばいこと言われて、たぶん殺されそうになって、かと思いきやクラスメイトに命を救われた……たぶん。
あまりに不確定要素が多く、悪い夢でも見たような話だし、実際さきほどまでは恐怖に立ちすくんでいたのも事実。しかし過ぎ去ってしまえば、この場で起きたすべての事象は、ユウのボルテージを刺激する興奮剤にしかならなかった。
いわば時が止まった世界で、鉄球をハンマーでたたき続け、運動エネルギーを溜め込んだのちに開放するようなものだ。
――いまこの少女は、まさしく暴走機関車だった。
「外狩ちゃんッ……いや、舞ちゃんっ! 舞ちゃんっ!」
「私の名前呼びすぎでしょ……。なんなの?」
身振り手振りに加え自分の名前を振り回すユウに呆れる外狩。
しかしユウの暴走は留まることを知らなかった。無数のお星さまが輝く両目をぱちくりさせて、接吻するのではないかという勢いで外狩の顔面に迫る。
「助けてくれてありがとう! もうね感動してねもうもうもうもうって感じなの! あんな映画みたいなことが起こるなんて、夢じゃないよね? オォォ痛い痛い、頬が痛いってことは夢じゃないんだ。ひゃー、いろいろ聞きたいなぁあ。舞ちゃんよ、まず地獄とはなんぞや! そんで、さっきのあれは、えっと、えっと、なに!?」
ホラーゲームのビックリシーンのごとき急接近。
さすがの外狩も少し気圧されたようで、猛獣を手なずけるように両手でバリアーを張っている。なにか言葉を選ぶように唇を動かし、やがて答えた。
「お、落ち着いて……。そもそも、それをあなたが知る必要あるの?」
「私は巻き込まれました! ウォーキングしてただけなのにね!」
「…………」
まさかの即答正論に、外狩は再びむぅと口をつぐんだ。どうやら言い返せないらしい。感情の乏しい子かと思いきや意外と表情豊かである。そんな彼女に隙を見たユウは、しめしめと次の言葉をぶつける。
「なにもかもよくわかってないんだけどさ、ひとつだけ言えることがあるんですよ。……いま起きたことってもしかしなくても、誰かにバラされたくない系のヤツだよね」
「…………」
黙していた外狩の顔に、少し困惑の色がうかがえる。
いま自分はさぞ悪い顔をしていることだろう。
これはあからさまな脅迫だが、相手はほぼ鉄の女である。こうでもしなければ口を開くまいという、その程度の観察眼はユウにもあった。
「不思議な女子高生の外狩舞ちゃんは、不思議な力を使ってバケモノを退治するハイパー陰陽師なんだよね」
「…………」
「教室でもどこでも、全ッ然そんな素振り見せなかったでしょ? ってことはぁ? つまり? イコール? 舞ちゃんの人生最大のヒミツってことだよねっ」
「…………」
無言。ひたすら黙殺を貫く外狩に、ユウはさらに追い打ちをかけてやることにした。彼女の顔を斜め下からのぞき込み、にっひっひ、と小物すぎる笑顔を見せる。
「黙っててあげてもいいよぉ? すべてを教えてくれるなら、すべてをこの胸の内にしまっておこうじゃないかっ」
「そう。じゃあもう知らない。誰かに言いたいならご自由に」
「えっ」
ようやく口を開いた外狩の返事は、あまりにも呆気ない内容だった。
その返事と同時に、今の今まで見せていた困惑の表情は消えて、いつものクールビューティーに戻ってしまった。
失恋である(?)。
外狩はもうそれ以上なにも言わず、目を伏せたままユウを避けて、すたすたと歩いていってしまった。
外狩への猛烈アプローチの体勢と表情のまま、ユウはフリーズしてしまう。ひゅぅぅ~とコミカルな寒風が身体を吹き抜けた気がした。
しかしこれで諦めるユウではない。すかさずかぶりを振って、クラスメイトの後ろ姿を追おうとする。
「ま、舞ちゃん――」
「ついて来たらあなたも地獄へ落とすから」
もはや視線すら送られず、背中で語った外狩舞。脅迫しながらも悠然とした一歩一歩はミディアムボブの黒髪を揺らす。薄暗い雑木林にあって、もうあの不思議な光は纏っていないというのに、彼女の頭髪は美しい漆器に見えた。
脅しの言葉を受けたにも関わらず、ユウはそれに見惚れてしまい、彼女の姿が林道の奥へ消えるまで、黙したまま立ち尽くしていたのだった。