急がば回れ 1
ユウがふくらはぎの鈍痛に気づいたころ、すでに空は明るみ始めていた。
少し遠くに行きすぎたなぁ。眠れない夜のテンションを引きずり、深夜ウォーキングという酔狂な行為に出たまではよかった。しかし、秋夜の冷気で心身震え、それを温めようとぺたぺた歩きすぎた。いまや彼女が引きずっているのは、酷使に悲鳴を上げる両足と後悔だけだ。
一応、帰路ではあるのだが、帰ることを視野に入れず徘徊したために、現在地すらよく分からなくなっていた。
「えーっと……ここは……」
あたりをきょろきょろ見回す。
ブロック塀が並々と廊下のごとく続く住宅街。いの一番に目に入ったのは、ショッキングピンク一色に塗られた一軒家だった。
そのド派手な外装には見覚えがあり、ユウは大きなため息をつく。
あれがあるということは、ここは、自宅から徒歩30分ほどの距離だろう。
現実は非情だ。ますます足の痛みが増したような気がした。
「足いたぁい。顔さみぃ。お腹すいたぁ。いい匂いするぅ」
ひとりごちる彼女の存在など誰も知る由もなく。寒空下の住宅街には、朝の炊事らしき物音や、すきっ腹には耐えがたい垂涎の香りが漂っている。なぜか懐かしさすら覚える芳醇な料理、これはベーコンエッグか……?
各ご家庭のお母さんたちが、眠い目をこすりながら家族の朝食や、お弁当の準備でもしているのだろう。力の源・毎日のご飯を用意してくれる全国の母親たちよ、ありがたやありがたや、……ふくらはぎの鈍痛その他諸々を忘れようと、普段なら思いつきもしない感謝を心中でつぶやく「今時」な小娘。
のっそりのっそり足を動かしながら、くんくん、くんくんと他人のメシの匂いにあやかろうと鼻を上げる。向こう側には、隣町にそびえ立つ「甲山」と、背後の空には東雲色が広がっていた。朝焼けのお山とお空、きれいだなぁエモいなぁアハハと現実逃避しながら歩き続ける。
「お?」
いつの間にやら、目の前に十字路が現れていた。
じゅうじろ……あ、そうだっ!
ユウの曇り眼がわずかに輝きを取り戻す。
ここを右に曲がった先に大きな林があったっけ、そこを通ればショートカットになるはず。
「ちっかみっち♪ ショートカァッ♪ あっしイッタぃ♪」
深夜テンションを超えた先の何かを纏いながら、スキップさながらに、ブロック塀ロードの十字路を右折。記憶通り、アスファルトで固められた住宅街には不釣り合いの雑木林が目に入る。
思わず、ユウは息を呑んだ。鬱蒼と生い茂る木々の壁に開いた入り口が、巨木の怪物がぐわっと襲い掛かる開口に見えたのだ。奥に伸びる自然のトンネルのような小径も、ちらりと覗くだけで吸い込まれそうに思えた。近道と言えど、こんな不気味空間には、普段の彼女ならば決して足を踏み入れまい。
しかしそれは、満身創痍真っ最中のユウを止める理由にはあまりに弱すぎた。
「ひょぉ~う!」
雑木林以上に不気味な掛け声と共に、彼女は林道に突入する。
急がば回れ――誰かが言った言葉の「い」の字すら、その頭には浮かんでいなかった。
住宅街の雑木林。そこは案の定、薄気味悪い場所だった。
舗装もされていない地面は、歩くたびに土と落ち葉の絨毯がやわらかく足を跳ね返してくる。しかし、落ち葉舞う季節とはいえ、まだまだ木々には樹葉が残っており、空も左右の視界も雑木に阻まれ、朝焼けの光明などは差し込まない。まさしく自然のトンネルという表現がふさわしい空間である。
住宅街と隣接しているというのに、まるで別世界の土地を踏んでしまったようだ。
その奇妙な錯覚に、彼女の突入前のテンションは一瞬で霧消したが、いまさら来た道を戻るのも億劫だった。
大丈夫、大丈夫、歩けば出られるんだから。おうちに帰れるんだから。わたし、無事におうちに戻れたらベーコンエッグ食べるんだ――
「……っあぇ?」
ユウの口から、きょういちばん素っ頓狂な声が上がった。
見間違いではない。彼女の目先には、たしかに、人影のような何かが立っていたのだ。
ひとの輪郭が、ぼぉっとその場に佇んで、なぜだか両手を広げている。開脚もすれば「大」の字に見えるだろう。しかし暗いために、男なのか女なのか、少なくとも子どものサイズではないが、正体はまったく不明瞭である。
……距離にして、おそらく10メートルか……。
根拠のない数字が思い浮かぶ。測量学の知識も何も持ち合わせていないアホの子が、ただ冷静になりたいだけだった。
あっ。そうだ、あれはきっと、早朝ジョギングおじさんだ。健康第一のおじさんがストレッチをしているんだ。そうに違いない。どこにでもいるよね。うんうん。あははは――
「――えっ。ううううそでしょ? やめてよそういうのほんと……」
その分析という名のこじつけは、瞬間的に否定されてしまう。
ユウには聞こえてしまった。例の人影から発せられているのであろう「声」が。
それが何を言っているのかは、まったくわからなかった。日本語ではないかもしれない。かと言って英語などにも聞こえない。だがその声がうたうテンポだけは、何か聞き覚えがあった。これは……念仏のような、お経のような。お坊さん? 霊媒師? こわっ! こんな時間にこんなところで、いったい何を――
絶え間なく思考する頭。すでにふくらはぎの痛みなど吹き飛んでいた。
やばすぎる、ダメだ、逃げなきゃ。ようやくその結論に達したとき。
彼女の目は暗闇に慣れたのか、さきほどよりも人影の詳細を視認できるようになっていた。
瞬間、恐怖が少し和らいだ。きびすを返さず、両目を細め観察する。
女の子。横顔。髪が割と短い。肩ぐらい? 背丈は私と同じくらいだ。制服を着ている気がする。あれって私の高校のブレザー? いや、待って、ちょっと待って――
見た顔だった。
あの子は、たしか……。
「……外狩ちゃん?」